ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

デイ・ゼロ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 21歳の誕生日プレゼントは、命だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギフト、と呼ぶ方が正しいかもしれない。特別な、そして特殊な贈り物だ。値札や包装はない。無論どんな店に並ぶこともない。

 

 

 プライスレスな「赤いギフト」。

 

 

 

僕はギフトの贈り主を知らない。知ることは出来ない。顔も、名前も、生い立ちも。手紙を2回書くことのみ許されている。それだけだ。

 

 

 ところが性格は知っている。当てずっぽうではない。どうしても分かってしまうのだ。ドナーの貴方は長期間、何度も何度も面談を行い、検査し、貯血する。そうして骨髄採取のため入院する。

 

 貴方だって、僕の顔も名も知らない。しかしそんな赤の他人のために、無償で数ヶ月献身することを微塵も厭わない。

 

 

 

 

 名も知らぬ命の恩人は、そんな慈悲深い人だ。

 

 

 

 

 

 

 

 僕は今日、貴方のお陰で21度目の誕生日を迎えることが出来る。死んでいたはずの人間が、さも当たり前のような顔をして、明日も笑って生きることが出来る。こうして想いを綴ることが出来る。

 

 

 

 

 

 

この世界は、きっと厳しさと同じくらい、優しさに溢れているのだ。

僕の想像を遥かに超えて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕刻前、病室にギフトが到着した。

 

 向かいの病棟の窓が茜色に輝いているのを見て、僕は陽が傾き始めたことを知る。病室の頑丈な窓枠もほんのりと染まり、二重窓の間に影を落としていた。

 

 いよいよ始まるのだ、と思う。その前に一呼吸、お疲れ様、とでも言うべきか。

 

 

 そう、とても苦しい道のりだった。

 

 

 異変に気付いたのは5月だった。気怠い感覚が、へばりつくような暑さと共に全身を纏っていた。しばしば眼は赤く滾った。異常な発汗は、今思えば死の前兆だった。

 

 6月に入ると、矢のような雨が降り注いだ。身を屈めて避けながら、体調不良を低気圧のせいにして生きた。このとき既に僕の血は、老い先長い者のそれではなかった。内臓や脳から出血が始まっていた。

 

 

 そうして6月の最終週、いよいよ僕は死んだように生きていた。6月25日、口腔から出血が始まり、真冬並みの悪寒に震えた。6月26日、自分で取った学食を半分以上残した。降りしきる雨は吹雪に変わっていた。6月27日、実験中に意識が飛びそうになった。誰も助けてくれなかった。自転車で帰りながら何度も倒れた。夜、友人の訃報が届いた。次は自分だと思った。

 

 

 

 限界だった。

 肉体も、精神も。

 この恐怖が続くのなら、死んだ方がマシだと、本気で思った。

 

 

 

 

 

 

 

翌6月28日、緊急入院。

病名、急性白血病

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「それでは開始します。」

 

 医師の合図と共に、輸液ポンプが動き出す。教授、主治医、担当医、看護師、医学生ら、そして両親。その視線が一点に集中する。

 

 

 バッグに詰まった血液が長いチューブを伝い、腕の中へ注ぐ。ギフトが、身体の一部になる。この光景すらも、懐かしく笑える日が来るのだろうか。脳裏に焼き付けようと、僕は一度目を閉じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 デイ・ゼロ。

 僕がこの日を忘れることはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新たなスタートラインに立つ。そんなに立派な線ではない。靴の踵で土のグラウンドに引いた、自分にしか分からないぐにゃぐにゃのスタートラインだ。スターティングブロックも、号砲もない。

 

 

 それでも僕は静かに一歩を踏み出し、線を跨ぐ。乾きかけた土を全身の重みで踏みしめる。雨は止んだ。空は青い。一滴、また一滴と注がれる真紅の血液に、僅かながら温もりを感じる。

 

 

 

 

 

 少し視線を外す。病室の窓に映る空を見上げると、溜息が出るほど透き通っていた。もう冬が近い。めくるめく季節は僕をあの日に置き去りにして、素知らぬ顔で通り過ぎて行ったのだ、と思う。僕とは関係のないところで梅雨は明け、夏を謳歌して蝉は死に、山々は間もなく色づき始める。

 

 

 

 

 一日の殆どの時間を、ただひたすらベッドの上で過ごしている。僕は今どうしてこんな所に居るのかと問いたところで、白い天井が答えてくれる訳もない。無菌ユニットだけが頭上で低く唸る。

 

 

 

 

 誰も責めることの出来ぬ理不尽を、人はおおよそ運命などと呼んで簡単に片付けてしまうのだ。本当にそれが正しいことなのか、今の僕には分からない。

 

 

 

 あらゆる運命の、巡り合わせ。その良しも悪しも含めた全てを、古くは「仕合わせ」と呼んだ。

 

 ところが僕達は、その良しだけを取って「幸せ」を叫ぶようになった。残りは箱の中に押し込んで「不幸」を貼ってしまう。

 

 

 

 

 どうだろうか。

 僕はいま幸せなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 新たな命を背負う、その重圧にさえ時折押し潰されそうになる。事実、もう家族とも親戚とも血は繋がっていないのだ。一人になってしまったのかもしれない。

 

 

 

 仕合わせ全てを幸せだと受け入れるには、僕の心は幼い。本当は、物事の多くを箱に仕舞い込んでしまいたい。「不幸」を貼りたい。鍵を掛けたい。

 

 

 そうすることが出来るのなら、僕はどれほど楽になれるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなに上手くは行かないのだ。

 人生は、引き返せない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも僕は僕なりに、無菌室で21度目の誕生日を迎えられたことを、運命と呼んでみた。この理不尽な仕合わせを、今日ばかりは幸せだと受け入れることにしてみた。

 

 

 

 

 

 

 

 幸せなんだと思う。多分。

 今日の日を、両親は21年前より喜んでいた。

 そういうことなんだ、きっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人生でいちばん祝われた誕生日かもしれない。

 

 どうして、どうして不幸なわけがあるのだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

午後9時40分。

終了を告げるアラートが鳴る。

最後の一滴を見届けて、僕は大きく深呼吸した。

 

 

あの日のまま止まっていた時間が、静かに動き出した。

心臓は拍動を続ける。

 

 

 

 ありがとう。

 ドナーになってくれた貴方と、21年前の今日産んでくれた両親と、それから僕を応援してくれる全ての人達へ。あらゆる仕合わせが複雑に絡み合い、僕は今こうして生きている。

 

 

 

 

 

 もちろん泣きたい日もあるし、笑いたい日だってある。どちらも仕合わせで、その多くを幸せと呼べたらいい。今年はそういう一年でありたい。

 

 

 

 そうしてまた、誕生日が来るのを待とう。

 来年も、再来年も、その翌年も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 デイ・ゼロ。

 僕はまだ、生きている。

 

 

 

espressivo

 

 過去というものは水底に沈んだガラス玉だ。光を浴びて表情を変え、時の流れに合わせてゆらゆらと漂う。手の決して届かぬところで、それでも確かに存在している。少しずつ色褪せていくが、探せばいつも変わることなくそこにある。水が濁れば浅い部分しか見えなくなるし、水が澄めば深くまで見えるようになる。

 

 

 

 ピアノの鍵盤に手を伸ばす。副作用で痺れた手が小刻みに震える。手の届かぬガラス玉がまたひとつ増えてしまったな、と思う。

 

 

 

 少しだけ、僕とピアノの話がしたい。

 

 

 

 ガキの頃、本よりも先に楽譜が読めるようになった。物心ついた時には鍵盤を触っていて、入学祝いで電子ピアノを買ってもらったときは大喜びした。3歳から11歳までの8年間、僕は週1回ほとんど欠かさずピアノ教室に通った。

 

教室とはいえ、昔ながらの一軒家の応接間だった。フカフカのソファがあり、楽譜のひしめく本棚があり、電子ピアノとエレクトーンとグランドピアノがあった。玄関先は、ときおり線香のいい香りがした。

 

 

 先生はとても優しかった。怒られたことは一度たりともない。上品で、笑顔を絶やさず、何より僕の我儘な性格に8年間も付き合ってくれた。僕の誕生日をちゃんと覚えてくれていて、毎年プレゼントを貰った。

 

 

 小6になる前、中学受験を理由にピアノを辞めた。受験は落ちた。

 

 

先生とはそれから少し疎遠になった。それでもピアノを遠ざけることはできなかった。暇を見つけては自己流に弾いた。中学に入ってからも、合唱コンクールのたびに少し指導してもらっていた。

 

 

 あれから暫く経った。高校を卒業し、大学生になった。そんな矢先、2年半前のことだった。

 

 

先生は癌になった。

 

 

 

ピアノ教室は閉められた。僕はそのことを知らなかった。

 

 

 1年近くに渡って入退院を繰り返したらしい。必死に癌を闘い抜いて、身体はボロボロになってしまった、と後から聞いた。それでも一昨年末には少し落ち着いたらしかった。ちょうどその頃、入れ替わるようにして今度は僕が癌になった。2016年が終わろうとしていた。

 

 

 

17年の春、一本の電話があった。先生からだった。癌になったこと、それでも負けなかったこと、もう一度ピアノ教室を再開したこと、たくさんの報告をしてくれた。また遊びに来てね、と言ってくれた。

 

 必ず行きます、と約束した。

 

 

 あの約束から、気が付けば一年半の歳月が流れていった。愚かな僕は、まだ果たしていなかった。

 

 

 今年の5月頃、先生は再び入院した。僕が知ったのは、8月の半ばだった。見舞いに来てくれた友人が教えてくれた。先生が退院したら、先生の家に一緒に行こうと約束した。今度は本当に行かなければならない、と思った。

 

 会える人に、会えるうちに、会わなければならない。それはこの数ヶ月でより強く実感していることだった。

 

 何より、もう一度先生の前でピアノを弾きたかった。先生の退院予定日が、実は8月2日だったことは、後から知った。とにかく、すぐに会えると思っていた。

 

 

 

 退院の前日、8月1日に事態は急変する。

 

 

 快方に向かっていたはずの先生は突如として危篤状態に陥った。穏やかな日常は儚く消えた。数日後に意識が戻るまで、先生は生死の境を彷徨った。

 

 

「必ず家に帰ろう」

 

 

 旦那さんはそう言い続けたという。呼吸器を付け、ただ黙って頷くだけの先生に、何度も、何度も。

 

 

 

 

 

 

 2週間前、先生は家に帰った。

 

 

 僕は主治医に無理を言って外出許可を貰い、病院で黒のスーツに着替え、点滴の針を刺したまま葬儀場に向かった。

 

 

 車中、僕はひどく後悔していた。会えるうちに会わなかった自分をひどく恨んだ。どうしてもやりきれなかった。

 

 

 

 

 葬儀場に着く。入口の脇、懐かしい名前の上に「故」と添えられている。在りし日は過ぎ去った。もうこの世にはいない。それが実際に、本当に起こったのだということを眼前で突き付けられる。

 

 

 

 先生を飲み込んだ死。自分に迫りくる死。癌と白血病。ピアノと震える手。あらゆる感情を整理するには、僕はあまりに孤独だった。そして、孤独を誰とも分かち合えないことこそが、僕の孤独を果てしなく加速させた。

 

 

 

 あのガラス玉に、もう手の届くことはない。

 そして僕自身もまた、過去のガラス玉になろうとしているのかもしれない。

 

 

 

 

 故人の想い出の品が並べられていた。発表会の写真には、僕が固くなって写っていた。プログラムを開くと、自分の名前の横に懐かしい曲名があった。確か、本番だけ上手くいった。連弾曲の方は盛大に間違えた。

 

 

 

 本当は、発表会で難しい曲を弾きたかった。上手くもないのに楽譜を漁って、あれがいい、これは嫌だと駄々をこねた覚えがある。いつも半人前だった。

 

 先生は頷きながら聞いてくれた。それからこう言ってくれた。

「難しい曲を雑に弾くのは良くないよ。簡単な曲でも、感情を込めて、丁寧に弾くことができたら、素晴らしい曲になるから。そういう曲しか現代まで残ってないよ。」

 

 

 espressivoを知ったのはこの時だっただろうか。好きな音楽用語のひとつだ。

 

 楽曲には、どのような表現をすべきかを示す「発想標語」なるものが存在する。カンタービレなら「歌うように」、ドルチェなら「柔和に」、そして上のエスプレッシーボは、「感情を込めて、表情豊かに」。

 

 

 多少のアレンジこそあれ、演奏者は楽譜に忠実だ。同じ楽譜なら、機械に弾かせてしまえば同じ音になる。そんな譜面にどう感情を込めるか、いかにして表情豊かな曲として息を吹き込むか、それが演奏者として最も重要なのだと思う。

 

 

 

 同じことが人生についても言える。

 僕達は運命に忠実に生きている。「人生とは音楽だ」とはよく言ったもので、僕達は生まれてから死ぬまでずっと、一方向にしか進めない五線譜の上を歩き続けている。そこには予め決められていたかのように、容赦のないリズムもあれば全く冗長なメロディも存在する。そして僕達は難解な旋律を雑に弾いてしまうことだってできるし、簡素なメロディを豊かにすることだってできる。

 

 

 白血病患者としての人生。背負わねばならぬ運命。そんな譜面を、それでも僕は表情豊かに弾きあげたい。今は強くそう思う。どんな譜面であれ、espressivoでありたい。

 

 感情を込めて、表情豊かに。

 

 

 いくつものガラス玉と出会い、手にとり、眺めてきた。それは音符のようなものなのだろう。ひとつ、またひとつと、流れ過ぎ去る。音符の流れが、旋律を生む。

 

 弾き終えた音符ひとつひとつが楽曲を構成するように、ガラス玉それぞれが人生を構成している。過ぎ去りし音符はガラス玉であり、水中をゆらゆらと漂いながら、それでも消えることなく確かに存在している。

 

 

 

 中学時代の理科の授業を思い出す。

「光は水面で屈折します。だから水の底にある物体は、実際よりも浅く見えちゃうんです。本当はもっと深いところにあります。」

 

 

 手が届くと思っていたガラス玉は、もっと深く遠いところにあった。 水底で輝けど、もう手は届かないのだろう。

 

それでも僕は、震える手をそっと鍵盤に伸ばす。

 

 今は亡き故人に教えられたピアノ。僕は一生弾き続けることを決めた。そうすることで、少しでも故人の生きた証が残っていくのなら。

 

 窓を開けると、夕暮れと共に秋の匂いが入ってきた。手は届かなくとも、音は届くのだろうか。半人前のピアノの旋律は、金風に乗って遥か遠くまで運ばれていった。

 

 

 

銀河鉄道の朝

 

 初めて新幹線に乗った日を、今でも鮮明に覚えている。3歳の僕にとって新幹線は「夢の超特急」で、本当にどこまでも行けるんだと思った。東京駅で写真を撮っていると車掌さんが来て、非売品の定規をくれた。今でも机の引き出しの一番手前に入っている。あれから暫く、将来の夢は「電車の運転士」だった。

 

 誰にだって、大きな声で「夢」について話せた時期があったはずだ。それは野球選手だったかもしれないし、ケーキ屋さんだったかもしれない。僕達はまだ子供で、堂々とした夢を抱いていた。そうやって好きなことだけをして生きていけると思っていた。

 

 

 

 現実を知ったのは、いつからだろう。

 

 

 

 線路はどこまでも真っ直ぐに続くものではなかった。それは単なる幻想で、現実世界には容易く走れる線路など殆ど無かった。世界はどこまでも理不尽で、僕はそんな世界に背中を向けるようにして、夢の切符を破いた。どこかに捨ててきた。

 

 

 生きること、ただそれだけのことが、これほど難しいなんて。

 

 

 始発駅も終着駅も、人それぞれ違う。友人と楽しそうにボックス席で話し込む乗客もいれば、ただ一人でひたすら立ち続けるだけの乗客もいる。電車の速度だけが平等だ。人生なんて、そんなもんだと思う。

 

 列車は定刻通りに駅に着く。扉が開き、そして閉まる。また動き出す。実に単調な繰り返しだ、と思う。その単調な繰り返しでさえ、あの頃は楽しめたというのに。

 

 モノトーンのリズムに揺られながら、僕達は本当の幸せの意味を探そうと躍起になっている。

 

 同じ毎日の繰り返しの中に、本当の自分を見つけようとしている。何かを築こうとして這いつくばっている。

 

 でも幸せなんて築くものじゃない、気付くものだ。どれだけ単調な繰り返しだとしても、ただ立っているだけだとしても、電車は前へ前へと進んでいるのだから。時が滞りなく前へと進むように。

 

 

 

誰もが それぞれの 切符を買ってきたのだろう
今までの物語を 鞄に詰めてきたのだろう
荷物の置き場所を 必死で守ってきたのだろう
これからの物語を 夢に見てきたのだろう

 

                      BUMP OF CHICKEN ー 「銀河鉄道

 

 

 

 病院の地下のローソンで、小中時代の友人がバイトをしていた。以前入院していた頃、僕は、彼の姿を見つけては彼のレジに並んだ。本当にいい奴だった。6月27日、訃報が届いた。僕は激しく混乱して家を飛び出した。車に乗って、そのまま朝まで帰らなかった。翌日、白血病になった。訳も分からず入院した。

 

 

 恐る恐る地下に降りてみた。

 レジに、彼の姿はもうなかった。

 

 

 彼の四十九日が盆と重なった。うまく帰れるだろうか、と少し心配になる。故人は盆に精霊馬に乗ってこの世とあの世を行き来すると言われている。でも彼がキュウリとかナスに乗ってる姿を想像して、少し可笑しくなる。そういう奴じゃないんだ、彼は。

 

 

 小学生時代、宮沢賢治を読んで、亡くなった人は銀河鉄道に乗るんだと強く思っていた時期があった。今でも三途の河をイメージするとき、僕は天の川のことを考える。

 

 根拠はないけれど、きっと彼も、銀河鉄道に乗って帰っていくと思う。切符を握りしめて。

 

 

「何が幸せか分からないです。本当にどんな辛いことでも、それが正しい道を進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんな本当の幸福に近づく一足ずつですから。」

                                宮沢賢治 ー 「銀河鉄道の夜

 

 

 

 「銀河鉄道の夜」の本質を貫くのは、「幸せとは何たるか」だ。一体、この世界の中で、何が幸せなのか。本当にどんなに辛いことであっても、それが確かに正しいことであるのなら、実は幸福への切符を握っているということなんだ、と宮沢賢治は説く。

 

 それは子供の頃に描いたような夢の切符ではないかもしれないけれど、遠回りの線路かもしれないけれど、それでも確かに幸福行きの切符なんだと思う。

 

 現実の鉄道は、夢の鉄道よりも厳しい勾配を駆け抜ける。ただ、それが車窓を豊かにするのかもしれない。

 

「さあ、切符をしっかり持っておいで、お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐ歩いて行かなければいけない。天の川の中でたった一つの本当のその切符を決してお前はなくしてはいけない。」

 

 病院から五山の送り火を眺める。京都の街は、いつもより少し暗い。雲の切れ間から、僅かながら星が覗いていた。この空のどこかに、彼の乗る銀河鉄道が走っているはずだ。幸福行きの銀河鉄道は、明日の朝には、サウザンクロスに着くだろう。

 

 最後に送ったLINEは1月だった。会ったのも1月だった。もう既読もつかないし、もう会えない。どうして彼は死ななければならなかったのだろう。どうして僕はまだ、こうして生きているのだろう。

 

 

 夢への切符は捨ててしまったけれど、幸福への切符はまだ握っている。僕は、幸福とは何たるかをちゃんと知っている。彼もきっと知っていたと思う。それでいい。

 

 

 本当に辛いことを経験した人間にしか分からない、そんな幸福だってあるんだ。そしてそれが本当の幸福なんだ。だからどんなに辛いことであっても、それは幸福への途中駅なんだ。そこで降りようとしてはいけない。ひたすら切符を握りしめて乗り続けるんだ。

 

 

 僕が銀河鉄道に乗る日まで、彼はきっとサウザンクロスから見守っていてくれることだろう。朝日の昇る、サウザンクロスで。

 

 

 何となく、長い汽笛が聞こえた気がした。

 

 

 

 サヨナラ。

 

 

 

 

人は年を取る度 始まりから離れていく
動いていないように思えていた 僕だって進んでいる

                     BUMP OF CHICKEN ー 「銀河鉄道

 

 

銀河鉄道 - BUMP OF CHICKEN

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その日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕達は皆、「その日」に向かって生きている。

 

 

 

 

 

 

 

 

  どんな生き方をしたって、どんなに幸福であったって、「その日」はやがて訪れる。いつでも、誰にでも。終わりと、別れの日。

 

 

 もう何をしたって、どんなに叫んだって、届かない場所へと旅立つ日。

 

 

 

 

 

 関東ではもう梅雨明けしたらしく、病室の外には濃い夏空が覗いている。雲は白く膨らんで大きく丸みを帯び、木立に降り注ぐ日差しが黒い影を落としている。もう蝉は鳴いているのだろうか、この白い部屋の中では、外の音は聞こえそうもない。

 

 木立を抜ける風の音と蝉の声を、静かに目を閉じて想像してみる。眩しい夏の思い出が、いくつも蘇ってくる。小学生の頃、朝からラジオ体操に行き、学校のプールではしゃいだ。中高生の頃は部活に明け暮れた。受験期の夏期講習はしんどかった。友達と花火を観に行った。自動車の免許を取ったのも暑い日だった。そして時々、恋もした。夏は毎年やってきて、汗を垂らすたびに楽しさと悔しさを味わってきた。そんな夏が、少し形を変えてしまったが、今年もやってきたらしい。とにかく、今日は良い日だ。文句の付けようがない。

 

 僕にとって、近いうちに訪れるかもしれない「その日」は、出来ることなら、こんな透き通った日の、朝がいい。「その日」を選ぶことが出来ず、突然に訪れたとしても、陽射しの中で、静かに旅立ちたい。それぐらい、たったそれぐらい、神様は許してくれたっていいと思う。

 

 

 

 平成最後の夏、僕はクラス1000規格のクリーンルームで過ごすことになった。どうやら運命には抗えないらしい。残念だな、と思う。少し、残念だ。でも同時に、良かったな、とも思う。この病気が、自分の大切な家族や、友人や、先輩や後輩や恩師の命ではなく、自分に降りかかって、それはそれで良かった。大切な人の、大好きな人達の、その命ではなくて、自分の命で、良かった。

 

 

 

   6月28日。定期検診に行き、血だらけの歯茎を見せると、主治医は蒼ざめた。すぐさま血液内科に通された。

 

  「血小板が3,000、LDHが13,000。今外出すると命の危険がある。即入院です。今日は親御さんは一緒に来られてませんか。」

 

  血液内科医も驚く数値だった。彼は病名には触れず、眉間に皺を寄せて電子カルテを見つめていた。ただ、ある程度知識がついてしまった僕は、もうこの時点で悟らざるをえなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  白血病だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 背負わねばならぬ現実が重すぎるとき、そしてそれが予期せぬ状況で降ってきたとき、人は涙さえ流せないのだ、と知る。

 

 診察室を出て、力無くロビーのソファーに座り込んだ。もう一歩も動けなかった。ただそんな僕の目の前を、いつもと何ら変わらぬ病院の日常が過ぎていくだけだった。案内放送が流れ、医師達は足早に歩き、清掃員は床を拭き、老夫婦がゆっくりと前を横切っていった。一人の人間が白血病になったことなど、誰も気付くはずがなかった。僕は戻りたかった。戻りたい、そう強く思った。何も知らず、病院に向かっていた朝の自分に。命の終わることを知らぬ一人の人間に。

 

 

 母親に電話をかけ、すぐに病院へ来て欲しいと言った。

 

何があったの、どうしたの、母親はそう色々聞いてきたと思う。僕はそれに何も答えられなかった。

 

 

言葉が出なかった。

 

 

 

 

 

もうな、

アカンわ、

 

それだけ絞り出して、電話を切った。

 

 

 

 

 

 肩が小刻みに震えだした。この時、その背負わねばならぬ現実に、僕の理解がようやく追いついた。

 

 

 

 

 現実は、真夏の昼下がりのゲリラ豪雨のように、局所的に、僕の真上だけに、降り注いだ。

 

 

 

 

 

僕はふらつきながら、とにかく逃げた。

トイレの入り口まで来て、もがいて、崩れた。

壁を叩いた。

何度も叩いた。

必死に嗚咽を堪えた。

洗面台に両手をつき、筋を引くように涙を零した。

鏡の中に、白血病の僕がいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから4日が経った。僕はこの4日を、人生で最も混乱した4日間として過ごした。この世の孤独を洗いざらい集めたような夜を、痛みと闘いながら必死に耐え抜いた。時折、強烈な眩暈と吐き気に襲われた。動悸がして、視界は螺旋を描いた。それは、未だかつて感覚したことのない、死の形象だった。自分の身体がどれほど腫瘍に蝕まれているのか、それを有り有りと示すものだった。

 

 

 

 

 

 これはもう、本当に死ぬんだ。

 そう思った。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

「その日」を迎える覚悟を、しよう。

 

 そうした方が、良いような気がした。

 

 

 

 

 

 それが、僕の4日間の答えであり、準備であり、そして決意だった。

 

 

 

 

 

 「その日」まで、沢山の人に会おう。

 

 「その日」まで、沢山笑おう。

 

 「その日」まで、沢山食べよう。

 

 「その日」まで、想いを言葉にして伝えよう。

 

「その日」まで、生きよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とっくの昔に癌で死んでいたはずの人間が、神様にお願いして、1年だけ猶予をもらった。そして僕はこの1年間、会える人には必ず会うように心掛けてきた。それから何より、家族で過ごす時間を大切にしてきた。延長された生であることを、ちゃんと意識して過ごしてきた。

 

 だから、未練はあれど、後悔はない。

 

 たったの4日間で作った覚悟かもしれないけれど、決してハリボテの覚悟ではない。

 

 

 

 

 

 ある20歳の人間の、強い覚悟だ。

 

 

 

 

 

 

 

「ひょっとしたら奇跡的に治るかもしれない、治らなくても、あと五年とか十年とか生きられるかもしれない。信じてるよ、いまでも心のどこかで。でも、それを信じてるんだってことを思い出すとキツいのよね、なんか。忘れたふりして、その日をちゃんと迎えなきゃって考えて、いろんな準備したり、覚悟を決めたりしてるほうが、じつは楽なの、精神的に、ずうっと。」

 

                                 重松清  ー「その日のまえに

 

 

 

 

 それでも、欲を言うなら、あと少しだけ、ほんの少しだけ、生きてみたい。

 

 

 

 ダメだろうか、やっぱり。

 それは欲張りだろうか。

 

 

 

 

 

 

 結局そんな心配無駄だったよね、って笑い合う瞬間が、どれほど幸せに満ちていることだろう。お前死ぬ覚悟出来てるとか言ってたやん、カッコつけやがって、と馬鹿にされることを、僕はどれほど望んでいるだろう。

 

 

 

 

 

 どうか、これがただの夕立であってはくれないか。

 意外と強く降るくせにすぐ上がって、初夏の茜空にうっすら虹をかけるような、そんな夕立であってはくれないのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神様、もう許してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  やがて訪れる「その日」の前に、一体何が出来るだろう。

 この白いクリーンルームの中で、果たしてどんな理想が描けるのだろう。

 

 いや、別に何もなくてもいいじゃないか。

 

 そんなに難しいこと、考えたって仕方ない。硬いベッドに横たわりながら、僕はゆっくり目を閉じる。

 まもなく、深い眠りが夏の向こうからやってきた。それは白く透き通っていた、あの頃の夏だった。「その日」の「その瞬間」も、こうして静かに迎えられたら、どれだけ幸せだろう。

 

 意識が過去に向かって流れていき、蝕まれた身体の痛みをひとつずつ消していく。深い記憶の底には、まだ微かな望みがうっすら滲んでいる。やがてそのまま、ブラウン管テレビの電源を落とすように、僕の意識は奥へ奥へと吸い込まれていった。

 

 

 後には、夏空に甲高く響く蝉の声と、木立を抜ける爽やかな風の音だけが、余韻のように、心の内側でいつまでも響いていた。

 

 

 

 

 

 

スターライト

 人間の内部には、多かれ少なかれ空洞がある。それは脳のあたりかもしれないし、肺や心臓のあたりかもしれない。このことを知ったのは18の時分だった。とにかくそれは誰にも彼にも存在しているのだ、と。ところが空洞には、とりわけ頑丈な蓋が施されていて、僕達は大抵それを閉じたまま生きていくことができるようになっている。鍵をかけることだって出来るし、無邪気な子供なら蓋にだって気付かないこともある。あるいは快楽によって存在を忘れることもできる。しかしながらある種の人間の場合、その蓋は往々にして無意識のうちに解錠され、あらゆるエネルギーがその空洞に落とし込まれるのだ。食欲、睡眠欲、性欲、承認欲、自己実現欲、そういった低次から高次までのあらゆる欲は、意思の方向によらず、穴の中に落とし込まれて消える。いや、消えない。消えたかのように錯覚するが、いつかどこかで形を大きくして再び自身に襲いかかってくるのだ。その空洞を虚無と呼ぶ者もいるし、鬱と呼ぶ者もいる。ここでは「スペース」とでも呼ぼう。空白、宇宙、そういった様々な意味を込めて。

 

 空洞の中身は手に取ることが出来ないが、無ではない。宇宙(space)が、目に見えない暗黒物質(dark matter)に混沌と満たされているように、心の空洞(space)には、過ぎ去ったはずの陰鬱な問題(dark matter)が整理されることなく山積みになって漂っている。

 空洞の中に存在する記憶というものは、宇宙に浮かぶ恒星に似ている。それらは、ある時点では太陽のように燦然と輝きを放っている。一方で、ある重さ以上の恒星というのは否が応にも核分裂反応によって膨張を続け、最後には自重に耐えきれず超新星爆発を起こすのである。同様にして、記憶というのもまた自己分裂を繰り返すことで膨張を続け、輝きを放っていたはずの記憶は、何かを照らし続けるエネルギーを持っていたはずの過去は、最後にはその膨れ上がった自らの重みを以て、自らを破綻させるのである。ある重さ以下でなければ、恒星も過去も膨張を続け、そして爆発するのだ。意思の方向によらず。

 

 太陽質量の30倍を超える恒星は、超新星爆発後にブラックホールを形成すると言われている。ブラックホールの中心には強力な重力場が存在し、あらゆるものを引き摺り込む。脱出には光速を要するため、外部にいる観測者は、ブラックホールに自由落下する物体がぐちゃぐちゃに歪んで見える。本当は何も歪んでいないにもかかわらず。

 

 ニーチェによれば、事実なんてものは存在しない。存在するのは解釈のみだ、と言う。そう、記憶というのは曖昧で、僕達は過去に対して解釈を加えたものを「記憶」と呼んでいる。現在に生きる僕達は過去にとってただの観測者であり、ブラックホールに吸い込まれていく過去は、解釈と言う名の観測によって常に歪んでしまうのだ。だから事実というものは、心の空洞にブラックホールがある限り、観測できないのである。今この瞬間以外は全て過去なのだから。

 

  自分にとっての過去のほとんどは、輝きを放っていたはずだった。だから僕は夜になると自ずと空洞の蓋を開けた。あるいは無意識的に。そこには満天の星空が広がっていて、それはそれとして大事にとっておいた。「暗闇に包まれた場所でしか星は綺麗に見えないのだ」と言い聞かせた。星と星とをはぐれないように繋ぎ合わせ、それらを星座にして名前を付けた。今見えている光は過去に発された光なのだ、と思った。現在と過去は何光年もの距離を隔てていて、掴むことは決して出来ないけれど、過去からの光は時間をかけて届くのだ、と。

 

 

 しかし、それがいつしか僕を苦しめるようになった。

 

 

 星たちはそれぞれで暴走を始めるようになった。赤色巨星と化し、超新星爆発を起こし、いくつかはブラックホールになった。その周囲で時空は歪みを生じ、あらゆる物事の整序がおかしくなった。蓋を開けてはならない、と思った。しかし蓋さえブラックホールに飲まれようとしていた。このままでは自分自身が過去に殺される、やがてブラックホールに落ちる、そう思った。ブラックホールに落ちた物体は、落ち続けることしかできないのだ。あの頃僕は夢うつつとしながら、ただひたすら死ぬことばかり考えていた。自分は死ぬことでしかブラックホールを逃れられないのだと言い聞かせた。あるいは言い聞かせられた。

 

 エネルギーの源だったはずの記憶の塊が、星座が、ある出来事を境に爆発してエネルギーを奪うようになる。輝きを放っていたはずの過去は、天の川は、光さえ吸収するほど黒ずんでしまう。生きる源を見失った僕達はエナジードリンクと称して酒を飲み、束の間の快楽に酔いしれてその空洞を埋め、明かりを点けることで星空を消す。喧騒によって孤独を搔き消し、乾いた笑いで湿りを取り、泣いて慰め合うことで解決した気分に浸る。だから酔いが醒めるまでは空洞を忘れている。しかし放物線に頂点がひとつしか存在しないように、酔いというのはある点まで上昇すると下降を始める。そうしてまた同じ高さに戻ってくる。いや、放物線ではなくサインカーブかもしれない。僕たちはゆらゆら、ゆらゆらと同じことを繰り返す。同じ所を行ったり来たりする。とにかくある点で酔いから醒め、人々は我に返って気が付く。状況は何も変わっていないのだ、と。状況は何も変えられないのだ、と。そんなとき星からは声が降る。「もしもし、現実ですか?」。

 

 

「人生って妙なものよね。あるときにはとんでもなく輝かしく絶対に思えたものが、それを得るためには一切を捨ててもいいとまで思えたものが、しばらく時間が経つと、あるいは少し角度を変えて眺めると、驚くほど色褪せて見えることがある。私の目はいったい何を見ていたんだろうと、わけがわからなくなってしまう」

 

 光さえ脱出できないブラックホールは、物理法則下において、それ自体を肉眼で観測することは不可能である。ゆえに僕は、ブラックホールに殺されると感じながら、そのブラックホールが一体何であるのか知覚できなかった。そして、それが以前星だったときに、どのような色や形をしていたのかも知ることができなかった。ただ得体の知れない「ブラックホール」と呼ばれる概念が、僕のあらゆるエネルギーを奪っていった。過去は歪み、現実は萎えた。酒を飲んでは吐き、文章を書いては消し、死ぬことについて考えてはやめた。暗黒の泥のように眠り、あるいは眩しい北極星のように起き続けた。そしてブラックホールの外側には、いつも陰鬱な問題としてのダークマターが存在していた。逃げ場なんてなかった。そんなとき自分は何者でもなかった。才能ナシ趣味ナシ欲求ナシ慈愛ナシ熱意ナシ、醜い外見と愚かな内面、中途半端なプライド、ブラックホールダークマター、そんな人間が「面倒臭い奴」でないのなら、一体何者であろう? 勿論ほんの僅かな人には相談したけれど、それはあまり良い結果をもたらさなかった。「何が辛いの?」と聞かれて「分からない」と答えるしかなかったのだ。「ブラックホール」と言ったところで、僕はどういう答えを期待しようというのだろう。第一、僕が何をどう考えたところで、世界は今日も平和に呑気に回り続ける。

 

 

 夢を見ていたのだ。

 そう考えることにした。自分には過去なんて存在していない、それらは全て夢だったのだ、と。あれは星ではない、飛行機や建物の光だったのだ、と。そうすることでブラックホールは勢力を弱め、僕は幾らか救われた。もしかするとそう錯覚しているだけかもしれないが、とにかく死を考えることからは脱した。そしてようやく文章を書けるほどにまで回復した。このページの更新が止まっていたのはそういう理由だった。結局自分のことは自分でしか救えないのだ。

 

 何もかもさめてしまったのだ、と思う。つまり僕は夢から覚め、酔いから醒めたのだ。かつて輝いた星の色は褪め、一喜一憂していた心は冷め、そしてようやく空洞に蓋をすることが出来た。覚めて醒めて褪めて冷めて、とにかく自分はもう生きることにも死ぬことにも “さめてしまったのだ”、と言い聞かせた。もう星を探してはいけないのだ、と。今現在の言動が、いつか未来の自分を攻撃してしまうのだ、と。

 

 一日一食の生活は二食に戻り、空は青さを取り戻した。ようやく車にも乗れるようになった。あれだけ生きたい瞬間があり、あれだけ死にたい瞬間があり、それらの感情はどこからやってきてどこへ行ってしまったのか考えていた。次に蓋が開くのはいつだろうと思った。「それでもやはり星たちは無数に存在していて成長を続け、ブラックホールダークマターはどのような手段によっても知覚できず、宇宙は想像の限界を遥かに超えて果てしなく広がり続けるのだ」と感じた。生きることが下手くそなのだ。そんな夜に、FM802のカーラジオではボーカルが必死に叫んでいた。

 

太陽が昇るその前に

夜が明ける前に

教えて

ここで このままで 間違ってないと

 

 僕は左手をハンドルから離してボリュームを上げた。10-FEETの曲だった。太陽4号というその曲名について、ボーカルはこう話した。

 

「太陽って電池みたいなものなんです。生きていくエネルギー源だけどいつかは切れる。純粋に突っ走った十代があって、二十代になってそれを斜めに捉えてみたり、そりゃ太陽1個でずっと行けたらいいけど、まぁ4号目くらいでようやく何とかなってるんじゃないかなって」

 

 4号目の恒星を探す勇気が、今の僕にはなかった。ただ歌詞だけは忘れられず、番組が終わってからもしばらく大音量で空洞に木霊していた。何か自分の内に、ほんの少しばかり熱を感じていた。その感覚は、どこか懐かしさを含んでいた。「確かにさめてしまったが、全てがさめてしまった訳ではないのだ」、そう思った。歪んでいたはずの過去は、まだ上手く解釈できないけれど、少しずつ元の形に戻ろうとしている。無理に言葉にする必要はない、目を閉じて待てばいい。信号は赤から青に変わり、同時に僕はアクセルペダルを強く踏み込んだ。車は満天の星空のもとに爽やかな快音を響かせ、滑るように加速しながら、流星のごとく、真っ直ぐに春を駆け抜けていった。

 

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   https://youtu.be/cqXH-3Vs0lA

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報われない努力

 

 時間が伸びたり縮んだりするのはアインシュタイン特殊相対性理論に述べるところであって、最もよく知られた紛うことなき真実の一である。光陰矢の如しとはよく言ったもので、一年の長さは縮むこともあれば伸びることだってある。光速に近づくほど時間が遅く流れるように、激動の一年はこれほどまでに長かった。

 

 昨日11月24日は、今のところ誕生日の次に大事な日になっている。僕はそれを「告知日」と呼んでいる。誕生日と告知日には、いくつか共通点があって、それはとって付けたような共通点なのだけれど、第一の人生の始まりと第二の人生の始まりには深い関係性がある。どちらも大きな声で叫ぶように泣いた日で、右も左も分からない世界に入った日だ。そしてどちらにおいても、あることを思いしらされた。ー「努力は報われない」

 

 「天授」の二文字を彼は何度も口にしたし、黒板にも大きく書いた。沼のような色をした一枚板に白く焼き付けられたその文字に、撫でるようにして劇薬を塗りこまれた自分がいた。

 

 時計台の裏にある法経第四教室は、ガリレオとかいうドラマで天才物理学者・湯川学こと福山雅治が講義した大教室だ。僕はちょうど柴咲コウがいたあたりに座った。あそこが超満員になるのは有名人が来たときだけだから、東進ハイスクール林修も有名人の部類に確実に入る。それでも彼は開口いちばんこう言った。「早い。朝早いね。どうせみんなこの講演会当たったときこう思ったんでしょ?『とりあえず申し込んだけど10時半かぁ〜林修かぁ〜』って。まぁその程度ですよ」

 どっと笑いに包まれたが、僕はどこか笑えなかった。

 

 「みんなからすれば僕は有名人だ。いま僕のいる立ち位置になりたい人なんて山ほどいるのは知っているし、今の環境は本当にありがたいことだと思う。でも、こんなのは僕の夢でも何でもなかった。自分のやりたいことができるなら辞めたいくらいだ。ここまできたら他の人への影響も随分大きいから、そんなことはやらないけどね。」

 

 それから彼はこう言った。

「僕は数学者になりたかった。でもいくら頑張ったってガウスにはなれない。ガリレオにだってアインシュタインにだってなれない。生まれた時から決まっている」

 

 

  クリスマスまであと1ヶ月になった。先日のニュースでキャスターが話していた話題が、何となく引っかかった。

「そろそろ、街でクリスマスソングが流れる季節でしょうか。でも、聴きすぎは健康に良くないと言う調査がでました。陽気なメロディーに絶えず晒されると、心理的に疲れ、逃げられないような気持ちになる可能性があると、臨床心理学者が言っているそうです」

 

 もう二度とクリスマスが訪れることはないだろうと感じながらクリスマスソングを聴く人間の気持ちが分かるだろうか?

 

絶対に分からないだろう。

 

 病気が治るかどうかは努力の如何ではなかった。全ては運だった。そしてそれは、人生についても同じことが言えた。あらゆるものは「天授」だ。努力は報われない。患者の努力次第で難病が癒えるなら医療はいらない。林修が努力次第でガウスになれるなら、abc予想に30年もかからない。フェルマーの最終定理には300年もかかった。あらゆるものは天授だ。

 

 患者仲間が言った。「あと何年生きられるのだろうか」

受験を控えた高三の弟が言った。「ほっといてくれ、兄ちゃんとは違う」

彼は言った。「努力したって天才には及ばない」

 

林修氏の演題は「やりたいことと出来ること」だった。「出来ること、というのは社会に認められることだ」と補足してから、彼は沼に大きく十字を描いた。それから、やりたいことをx軸に、出来ることをy軸にとってこう言い放った。

「京大を出たから何?第一象限で生きられる人間は皆無だ。なら第三象限で生きる人間はというと、実はこれもほとんどいない。じゃあ、あなたたちは第二象限で生きるのか?それとも第四象限で生きるのか?」

 

 

 

 去年のクリスマス、中学時代の友人にもらった本がある。いや、その女子とは中学時代はほとんど話したことがなかった。綿矢りさの「勝手にふるえてろ」の一節。

 

 がむしゃらにがんばってきてふと後ろをふり返ったとしても、やりとげた瞬間からそれは過去になるんだから、ずいぶん後から自分の実績をながめ直してにやにやしても、まあ、そんなでしょ、べつにたいして幸せじゃないでしょ。逆にちょっとむなしいくらい。
 だから手に入れた瞬間に、手ばなしに、強烈に喜ばなくちゃ意味がない。限界まで努力してやっと達成したくせに、すぐに顔をきりきりとひきしめて、“さらに上を目指します”なんて、言葉だけなら志の高い人って感じでかっこいいけれど、もっともっと進化したいなんて実はただの本能なんだから、本能のまま生きすぎて、野蛮です。足るを知れ、って言いたいのかって? ちょっと違う。足らざるを知れって言いたいの。足りますか、足りません。でもいいんじゃないですか、とりあえず足元を見てください、あなたは満足しないかもしれないけれど、けっこう良いものが転がっていますよ。

 

 長らくブログを書いていると、1時間で3000字程度は書けるようにはなった。それでも、京都市立紫野高校在学中にして文藝賞を取り、自分より若い19歳最年少で芥川賞を取った綿矢りさにはなれない。夏、一度小説を書いてみようと思い立ったが、100,000字の想いを200ページに放り込んだ時点までで挫折した。才能の欠片もなかった。僕は第二象限でしか生きられない。x<0かつy>0。

 

 

 暇があるときは 一人でドライブに行く。山間の紅葉は道端に散っていた。カーラジオからは新鋭バンドの新曲のクリスマスソングが流れていた。気が付けばそんな時期になっていた。あれから一年が経った。もう、去年のような心地にはならなかった。あの新鋭バンドはどこまで成長するのだろう。彼らはどの象限に生きているのだろう。

 今日も努力に打ちひしがれる人間がいる。ある者は病が癒えず、ある者は夢を掴めず、ある者は既に諦めている。

 ただ、それでもいいのかもしれない。

 第一象限では、生きられない。

 

 あのニュースを悲しそうな顔で読んでいたニュースキャスターは、後日その哀愁が2chで話題になっていた。彼の顔は僕にこう語りかける。

 

「 ”努力は裏切らない” なんて歌う陽気なメロディーに絶えず晒されているから、心理的に疲れるんじゃない?逃げられないような気待ちになるんじゃない?」

 

 

 成功者の言葉しか世の中には残らないから『やればできる』が格言になる。

夢は叶わないかもしれない。

叶える為の努力は無駄に終わるかもしれない。
でも何かに向かっていたその日々を君は確かに輝いて生きていたのではないか。

それが報酬だと思わないか。

 

 これは大好きな為末大氏の言葉。これ以上に本質を貫いた言葉はない。

病が癒えなかったとして、これまでの努力は無駄になるのだろうか。

大学に受からなかったといって、これまでの受験勉強は無駄になるのだろうか。

追い続けた夢を諦めたとして、その過程を無駄だと言い切ることは、果たして出来るのだろうか。

 為末氏は、こうも言う。

「逃げるコトが必要なのだと思う。大丈夫いくら逃げても、どうせ自分からは逃げ切れない。逆に逃げてみたからこそ、一体自分が何に縛られていたかに気づくコトがあると思うのだ」

 

 

 今、地下鉄に乗っている。

誰しもがスマホを見つめながら、第二象限と第四象限の狭間で揺れている。どこからともなく聴こえるイヤホンの音漏れは、クリスマスソングかもしれない。

 

 四条駅で降りる。毎日通った道。これから、浪人している後輩とご飯に行く。僕は多分「合格するなら奢るわ」と言い、いいですいいですと言われながら奢る。知らんけど。

後輩は、まだ直交座標の原点にいる。

おそらくこれから、数年かけて、足らざるを知る。

 

足りますか、足りません。でもいいんじゃないですか、とりあえず足元を見てください、あなたは満足しないかもしれないけれど、けっこう良いものが転がっていますよ。

 

ハタチ

 

 街の中で親と子が仲睦まじくしているのを見て涙が溢れてきたのは、何かを思い出したからでも、もう戻れないからでもなかった。単にその現実が、19歳だった自分にとって重すぎただけだった。

 

  pHが5〜2の毒物を飲みながら過ごす日々がどれほど苦痛でどれほど孤独であったか。生きようとする自分の細胞が殺されていくのをひたすらに耐えるその工程がどれほど長くて重いものだったか。その烈しさは筆舌に尽くし難い。しかしながら今日となっては過去。遠い昔の痛みを感じることは僕にはできない。いや、おそらく誰一人としてできない。肉体的な痛みというのは今この瞬間においてのみ、そして自身の内部にだけ、存在しうる。

 

 でもあの当時の精神的な苦痛は今日でも蘇ることがあり、気がつけば僕は病室のベッドに横たわっている。真っ白なシーツと消毒液の匂い、微かな機械音、無機質なカーテン。あれは天国の装いをした地獄だった。寝たくても寝られない、食べたくても食べられない、歩きたくても歩けない、‪吐きたくても吐けない、死にたくても死ねない。僕にできたのは、ただ規則的に呼吸をすることと、管を伝って腕の中に入っていく毒を見つめることだけだった。

 

 妊孕性  ーこの字は読めないままで良かった。この言葉を使うことのない人生が良かった。僕は将来幸せでなくてもいい、金持ちでなくてもいい。ただ、いつか自分の子供と酒を飲めたらいい。そう思っていたし、今でも思っている。そんな些細な楽しみでさえ、毒物は奪っていった。

 

 妊孕性 ーにんようせい。妊娠のしやすさ。若年者のがん治療では、この妊孕性の温存が最優先される。毒物は、精子卵子も破壊してしまう。

 

 僕は精子保存ができなかった。原因は分からない。そして保存に失敗したまま、毒物の投与が始まった。精神がおかしくなりそうだった。「あなたは、死にます。万が一生きながらえたとしても、子供を持つことは許されません」神は僕にそう囁いた。

 

  昨日、家に届いていた2つの葉書を消費した。成人式のお知らせの葉書と、日本脳炎の予防接種の葉書。

 成人式の葉書には、午前の部の出席欄に丸をつけてポストに投げ入れた。日本のシステムの下では、20年間生きていれば、善人であろうが悪人であろうが勝手に成人する。これまで何億人、何十億人の日本人が成人してきた。その何がめでたいんだ、と毎年のように荒れる北九州の成人式のニュースを見ては感じていた。

 けれども、必死に生きながらえた今となって思うのは、その節目がさも当然のように流されてはならないということだった。20という数字は、思っていたよりも祝うべきものであった。

 

 もう一方の葉書、こちらは20歳未満無料の予防接種のお知らせだったが、それを10代最後の日に受けた。日本のシステムでは前日に歳をとることになっているから、厳密にはアウトかもしれないが、何も言われなかった。

 予防接種は昔からかかりつけの小児科で受けていた。母子手帳を持って、数年ぶりに訪れた。

 

「久しぶりだね」先生は僕のことを覚えていた。僕の比較的小さな身長をまじまじと見て「大きくなったね」と言った。問診票の既往歴「胚細胞腫瘍」には触れられなかった。聴診器を手術跡に当てると、彼は大きく頷いた。

 

 予防接種後は20分間安静にするのが医療機関の鉄則で、僕は母子手帳に最後になるであろう判子を押してもらった後、待合室で過ごした。生前から使われてきたボロボロの母子手帳を開くと、母親の字で色々なことが書いてあった。20年の歳月が数ページに詰まっていた。

 

【出生時】

体重 2955g

身長 48.0cm

 

【保護者の記録】

1歳、輪投げ、絵本が好き

2歳、両足ジャンプが得意

弟が生まれ少々赤ちゃん返りしている

3歳、ピアノを始める

4歳、パズル、お絵かきに夢中

5歳、弟が可愛く、世話をよくしてくれる

6歳、自分の名前や手紙を書いたりする

 

 

 ページをめくっていると、待合の扉が開いて若い母親が入ってきた。母親の腕には幼子が抱かれていた。その子も予防接種を受けたのだろう。小さな命は、僕を丸々とした目で見つめた。僕はその瞳に微笑み返した。1歳前後の子だった。この子にもし自分の血が入っていたら、その可愛さはさらに何倍にもなるのだろう。愛くるしいその目は、しかしながら、微笑む僕にこう囁いた。「あなたは運良く生きながらえたけれど、子供を持つことは許されません」

 

 

 僕自身の妊孕性が果たして失われてしまっているのかどうか、それは知らない。失われていない可能性も十分にある。僕が受けたBEP療法はリスク分類で言うと30%〜70%の中リスク群に相当する。検査すればすぐにわかるけれど、怖くてできない。もし検査で現実を叩きつけられたら、僕はその勢いで死んでしまうかもしれない。自分の子供とお酒を飲む、そんな夢をまだ見続けていたいから、一縷の望みにかけて、僕は検査をしない。子供と一緒に過ごせないのなら、生きていても仕方ない。少なくとも今はそう思う。

 

 もう二度と上書きされることのないであろう母子手帳を静かにカバンに入れ、 雫の降りしきる大通りを傘を広げて大学に向け歩いた。10代が終わる日は朝から雨だった。それでも、講義を終えて建物から出たとき、夕刻の西の空は透き通るような茜色に染まっていた。人生とは、そういうものだと思い知らされた。

 

 信号待ちをしながら子供の手を握る父親がいた。ママチャリの前かごに乗せた子供に話しかける母親がいた。僕には、ただ手の届かないそれを微笑んで眺めることしかできなかった。

 

 ここまで20年、何はともあれ生きてきた。生きていることの喜びと、生きていくことの難しさを同時に感じながら、星空を見上げた。今朝の雨予報も嘘だった。20回目の誕生日を迎え、食卓を囲んで親と酒を飲みかわした。うまかった。うまかった。泣きそうになるほどうまかった。食後のケーキを食らいながら、アルコールの余韻と幼子の瞳は、いつまでも頭蓋に響いて離れなかった。