ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

震えるサイン、震えぬ芯

 

 今日ばかりはゆったりとした時間が流れているというのに、僕は少し疲れていた。白く堅いパラマウントベッドに横たわったまま、静かに、静かに目を閉じる。これまでの過去と、これからの未来を想う。瞼の内側で涙が溢れる。シーツに零さぬよう、強く瞑る。

 

 血が注がれている。赤い血であり、僕の命でもある。

 これでいいのだ、そう確信している。この決断で、いい。

 

 

 デイ・ゼロ。

 医療の世界は今日をそう呼ぶ。全てがゼロになる日である。原点であり、誕生であり、そして再出発点でもある。

 

 一体僕はあとどれくらい生きられるのだろう?

 

 

*****

 

 生きるか、死ぬか。

 この世で最も究極とも言える、そんな二択を迫られるなんてこと、無い人生の方がいいに決まっているじゃないか。僕だって毎日を全く穏やかに生きたかった。21歳の京大生として、何の変哲もない、代わり映えのしない日々を送りたかったのだ。何も起こらぬ平々凡々とした日常がどれほど幸福な生であるか、あなたはきっと知らないだろう。

 「生きますか、死にますか。」

 もちろん僕は前者を選択する。1人の人間として、そして何より白血病患者として。治療同意書に署名し、捺印する。それが半ばルーチンワークと化している。僕は何人もの血によって生かされている人間であるのだ。多くの人々の想いを乗せて、この胸でひとつの小さな心臓が動いている。こんなところで死ぬわけにはいかない。

 昨夏、急性白血病を宣告された。晴天の霹靂であったが、病は既に深く巣食っていた。身体中の骨髄を癌細胞が蝕み、血はもはやただの有害な赤い液と化していたのだ。つまり僕の造血器は生きるべき本来の機能を完全に喪失していたのである。ひとりで宣告を受けた僕は絶句し、そのままトイレまで逃げて壁を殴って泣き続けた。ゲリラ豪雨は僕の真上だけに激しく降り注いだのだ。僕はもうここで息絶えて死んでしまうのだ、何もかも全てこれで終わりなのだ、と思うと嗚咽が止まることはなかった。

 

 それからの日々、大量の抗がん剤放射線、あるいは輸血と栄養剤、まるで一歩たりとも引かれぬ鍔迫り合いのごとき治療が数ヶ月続いた。身をよじるほどの激痛が老い先の長くないことを物語っていた。苦痛を癒してくれるのは24時間連続投与されるモルヒネだけで、果てしなく厳しい治療は癌細胞もろとも心身を傷つけ、副作用的兵糧攻めを受けた身体は絞り切った雑巾になった。それでも僕は治療を進めるべく同意書への署名捺印を続けた。そこにだけは迷いのようなものがなかった。

 

 生きたかったからだ。何としても。

 

 それは現代医療と医療者への全幅の信頼の証であるばかりでなく、生きることへの執念そのものだった。

 

 夏の終わりにはドナーが見つかった。救世主であった。祈りは通じ、生きるチャンスを確かに与えられたのだ。「神はまだ僕を見捨ててはいない」、はっきりそう悟った。やはり迷うことなく署名捺印し、そうして10月に骨髄移植を行った。これによって僕の体内はドナーさんの健全な血液で満たされ、首の皮一枚のところで奇跡的に命を取り留めた。後は順調に進む経過を見守るだけでいいのだ。こうして長い長い闘いにもようやく終止符が打たれるはずであった。

 

 …はずであった。

 

 平成を死に物狂いで生き抜いた暁には、令和と呼ばれる住みよい時代が僕にも訪れるだろうと思っていた。気淑く風和らぐ、そんな平穏を願ってやまなかったが、その想いも虚しかった。また前途多難な日々が幕開けることを、僕は俄かに知らされたのだ。

 

 移植後の経過が上手くいかなかったと告げられたとき、いよいよ背水の陣は崖下へと崩れ去った。僕は遂に奈落の底へと落とされたのだ。そこは谷であると同時に闇であり、死でもあった。まもなく殺されたはずの異常細胞が復活し、移植されてきたドナーの細胞を追い出しはじめた。検査のたびに、健全なドナーの細胞割合が減っていったのである。3… 2… 1、ゼロ。万事休して、もはや希望は絶たれた。「末梢血細胞の94%に染色体異常が見られます」。

 どうして。心の奥底から悲鳴だけが木霊していた。生きたい、生きたい、生きたい。僕は土下座しながら、藁でもいいから落としてくださいと、そう必死の形相で叫んでいたのだ。神に、主治医に、ドナーに、献血者に、家族に、そして自分自身に。「僕はこんなところで死にたくないんです、まだどうしても死ねないんです。21年しか生きてないんです。お願いですから助けてください。」

 

 しかし返事はなかった。僕の声は薄暗く湿った谷間の底の岩壁に、虚しくも反響するばかりであった。

 

 終焉。そんな言葉が脳裏をよぎっては、幼き日々がポツリ、ポツリと想い起こされるのであった。まるで走馬灯のごとく浮かんでは消える情景。それは大方、懐かしき夏の日であった。

 

 小学生の僕は夏休みに入ると、朝から近所の公園でラジオ体操をし、皆勤賞で三ツ矢サイダーを貰った。午後は解放されている小学校のプールで友達と遊び、朝顔の自由研究と図工の課題を母親に手伝ってもらった。スイカをほうばり、夜はBBQの後に花火をした。500円玉を1枚だけ握りしめて神社のお祭りにも行った。

 中高の部活は陸上部だった。やはり夏休みは毎日のように走り込んだ。練習が終わると頭から思いっきり水を被り、チームメイトと談笑しながら帰宅した。インハイ予選で散った日は眠れなかった。

 そういえば高3の夏は大学受験に追われていた。朝から晩まで、毎日10時間は机に向かった。赤本と黒本を何冊も持ち歩き、肩を壊した。夏期講習を終えてから友人達と食べるラーメンは至高だった。

 

 

 死ぬことを知らぬ日々であった。

 

 

 そんな体力、いまどこにあろうか。

 輝いたあの夏が、アスファルトに浮かぶ逃げ水のように煌いて瞼の裏に揺らめく。僕はその影ひとつひとつが、どこを切り取っても幻であったのではないかと思い始めた。

 

 

 いや、きっと幻を見ていたのだ。

 終焉なんだ。

 

 サヨナラ。

 短いけど結構いい人生だったんじゃない?

 そうだよ、幸せだったよ、本当に。

 就職も結婚もしたかったけど、子供とお酒片手に語り明かしたり孫を抱きしめたりもしたかったけど、それはちょっと欲張り過ぎかなぁ。

 

 せめて最期の日は晴れてるといいなぁ。神様それぐらい叶えてね。静かな朝がいいです。

 

 半ば自分に諦めるように、言い聞かせるようにして呟く。

 誰も悪くないさ。

 

 この美しい世界に生きられてよかった。

 

 楽しかったよ、21年間…

 

 

 

 

*****

 

  

  微かな返事が聴こえる。

  想いが届いたのだろうか。

 

  ある日、天から二本の藁が舞い降りたのである。

  主治医は僕を呼んだ。

 

 そこでは、ある条件付きの選択肢が提示された。それは紛れもなく最後の選択肢であった。しかし同時に、風前に揺らぐ命にとっては苦難そのものでもあった。

 

 と言うのも、もはや生きるか死ぬかという二元化された選択の域ではなかったのだ。

 

 生きることへの執念から臆さず前者にサインしてきた僕は怯んで後退りした。ここに来て戸惑い、狼狽し、そして葛藤した。

 これまで、治療から逃げてきたことは一瞬たりともなかった。それは治療を受けることそのものが生きることだと考えてきたからであり、生きたいという強い意志だけがそうさせていた。力強く署名し捺印することで、僕は生きてきたのだ。

 

しかしながら、舞い降りた藁は次のような二本であった。

 

死ぬかもしれないA」と「死ぬかもしれないB」。

 

「目下これ以外の選択肢はない」。

 主治医の目は真っ直ぐに僕を見据えていた。

 火の手が差し迫った僕に残された選択肢は、来るとも分からぬ消防隊を待つか、ここで火の海を渡るか、そのどちらかだということだった。そしてそのどちらも死ぬかもしれないというものだった。

 

 「君の血は、現状このまま放っておけば確実に癌化する。つまり再発だ。しかし君は既に厳しい治療を受けているから、まもなく体力的な限界値を迎えるだろう。確かに白血病に関する研究は日進月歩であるし、新しい治療法を待つというのもひとつの手段だが、病魔に追いつかれたらおしまいだ。これが選択肢Aだ。」

 僕は黙って頷いた。主治医は続けた。

「しかし、いま特殊な方法で移植を行えば、君を救えるかもしれない。ただしそれは、この上なく厳しい闘いになる。覚悟が必要だ。これが選択肢B、ハプロ移植だ。」

 

 光が見えた、最後の希望なのだと思った。神の思し召しであった。「それでもやります」と僕は言おうとした。もう逡巡の余地などなかった。

 ところが、主治医は遮った。

 

「ハプロ移植はこの病院では行えない。君は地元を離れる必要があるし、これからの人生では食事を大きく制限されることになる。その上、親御さんが血液ドナーになる特殊な治療だから、親御さんに入院してもらう必要だってある。それから…」

 

 主治医は大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。

 

「この厳しい治療が結果的に君の寿命を限りなく縮めてしまうということは十分にあり得る。成功率すなわち5年生存率は3割から4割だ。失敗したときは緩和ケアに移行する」

 

 僕は言葉を失った。診察室の中でただ茫然と、時間を止められた骨董品の置物のように、丸椅子の上で身動きひとつできなかった。

 

 

 その夜、僕は自室で泣いた。

 死から逃げるために、死の胸元へ飛び込まねばならないという矛盾が、そして理不尽が、僕を激しく混乱させていた。「君の寿命を限りなく縮めてしまうかもしれない」。その一言が僕の頭の中で高速の螺旋を描くたび、地鳴りのような動悸がした。

 

 

 死んでしまうかもしれない。

 無論ハプロ移植を選択しなければ、来夏には死んでいるのだ、きっと。「1年は持たない」、主治医はあの場でそう言い切った。

 しかしハプロ移植を選択したとして、どうだ。実際のところ生き延びる保証はどこにもないし、何ならこの夏にだって死んでしまうかもしれないのだ。

 

 それでも決断しなければならなかった。いつだって与えられるのは選択肢のみだ。それも、決して安直に方針転換できる類の選択肢ではないのだ。命を賭した選択なのだ。ミスなんて許されるもんじゃない。そして運命を決めるのは他の誰でもない、自分だ。

 僕の人生だ。僕以外の誰にも決めることはできない。

 

  神にだって、主治医にだって、誰にだって決められないのだ。

 

  逃げるな、と自分に言い聞かせる。

  雨ふらば降れ、風ふかば吹け ーー。

 

 

 

 *****

 

 瞼の内側で涙が溢れる。シーツに零さぬよう、強く瞑る。

これまでの過去と、これからの未来を想う。いまここに強く強く生きている、その実感を噛みしめる。

 

 血が注がれている。赤い血であり、僕の命でもある。

 これでいいのだ、そう確信している。この決断で、いい。

 

 やるしかなかったのだ、生き延びる為に。燃え盛る火の海へ、この身ひとつで飛び込むことを選んだのだ。後悔などあろうか、たとえそれが僕の寿命を早める結末になろうとも。燎原の火に四方八方を囲まれたなら潔く灰になってやろう。

 

 新天地に赴き、新しい主治医と出会った。「君のことを生きて親元に返す、それが私の使命です。」主治医はそう力強く言い放ってくれた。

 

 治療の説明を受けた。どれほど過酷な闘いになるのかということについて、延々と説明を受けた。丸椅子に座る僕は、もうたじろぎはしなかった。両親が横で静かに頷いていた。

 

 最後に、1枚の紙を手渡された。

 同意書であった。

 

 僕はボールペンを取り、右手に全霊の念を込めて、21年前に親から授かった自分の名を書き上げた。一息に書き上げた。それから印鑑を朱肉に付け、紙の真上からぐっと押した。

 手が震えていた。しかしながら、それは戦々兢々とした震えではなかった。決死の覚悟で戦地へ赴くサムライの、乾坤一擲の精神たる武者震いであった。もはや心の芯が揺れることは微塵もなかった。

 

 

 そして今日、令和元年6月3日、戦の火蓋が切って落とされた。

 点滴棒に吊られた血液バッグに入っているのは、ドナーになってくれた母親の血である。それがチューブを通して、じわり僕の身体の中へ注がれるのだ。

 

 デイ・ゼロ。

 僕もまた今日をそう呼ぶ。

 原点であり、誕生であり、そして再出発点である。

 

 きっとうまくいく。

 

 

 温かくて、優しい血だ。

 無菌室の窓から覗く空はどこまでも蒼く透き通っている。ため息の出るほど心地の良い碧空が、新天地の遥か彼方まで広がっている。まもなく22度目の夏が訪れようとしているのだ。天下分け目の夏の陣である。おそらく、最も長い夏になる。

 

 一滴、また一滴と注がれる血を見つめる。ふと、僕は1997年の夏に想いを馳せた。母親の胎内で、臍の緒を通して、まだこの世に生を受けていない僕に注がれる血液のことを想う。ーーやはり温かくて、優しい血だ。

 

 僕が生きてきた21年と8ヶ月は、幻なんかじゃない。何となく、ただ何の根拠もなくそう思った。そう思わざるを得なかった。あの夏の日はまた僕に訪れる。きっと訪れる。

 

 そうだ。

 間違ってない。

 この決断は、絶対に間違ってなんかいない。

 何が終焉だ。

 

 

 サヨナラには、まだ早い。

 生きろ、生きるんだ。

 

 

 

 

 

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二度と戻らぬあの日と、あの日の君に捧ぐ

 

 君は遅れてやって来た。

 

 社用車のトヨタ・アクアを実にスムーズなバックで壁ギリギリに停めると、「ごめんな、仕事が」と謝った。それから君は「懐かしいな」と呟いた。「いらっしゃい、みんなもう書き終わったで」、僕はそう言って庭先の門扉を開け、彼を我が家に招き入れた。「二階上がって」

 

 ようやく幼馴染の5人が揃った。昔は毎日嫌という程遊んだけれど、こうやって集まることも最近は滅多にない。二階に上がって自分の部屋に戻ると、僕が棚の隅に隠している卒業アルバムを誰かが勝手に引っ張り出し、先に来た3人で寄って集って見ているところだった。10年前の僕達が映っていた。少しずつ別の道を歩み始めた僕達は、もうとっくの昔に成人して、名実共に本当に大人になってしまった。それでもこうして昔と同じように笑い合えるのが嬉しかった。

 

 「ここにメッセージ書いて」

僕は君にそう言って二つ折りのカラフルな色紙と、そこに貼るメッセージ用のシールを渡した。

「すげぇ、これは絶対あいつ喜ぶわ」

 君はとても楽しそうだった。幼馴染が結婚するというのは、僕達にとって初めてのことだったし、先を越された悔しさも少しはあったけれど、そんなものどうでもよくなるくらい嬉しかった。

 

「まじであいつがいちばんに結婚するとはなぁ、意味わからんやろ、あんな雑な女が」

 君はおそらくこの5人の中では彼女をいちばん近くで見てきただろうし、きっといちばん驚いたに違いない。

 

 

 “結婚おめでとう!

俺の方が絶対早い思ってたのに負けたわ(笑)

東京に行っても私たちの事は忘れないでください(泣)"

 

 君は茶目っ気たっぷりにそう書くと、いつものようにニヤニヤと笑った。ホストみたいな髪型で、良く言えばイケメン、悪く言えば遊び人のようなルックスをしているが、根はめちゃくちゃ良い奴だ。もう15年の付き合いになる。

 

 

 ほどなくして母親が帰ってきた。パン屋に行ったついでに、美味しいプリンを買ってきてくれたらしい。

「ケーキの方が良かったかなと思ったんやけど、一人ひとつずつこっちの方がいいかなって」

「ケーキはやりすぎや」

 

僕は箱を抱えて二階に持って上がり、それをみんなで食べた。

昔話に花が咲いた。

 

 

君との出会いは小1だった。

クラスが同じだった。

君は当時からイケメンで、クラスの人気者だった。サッカーが上手かった。

 

 君との想い出を数えるのには無理がある。数百か数千か、勿論数え切れるのだろうけど、それまでに僕は苦しくなってしまうと思う。

 

 楽しい日々だったから。

 

 放課後よく一緒に遊んだ。ドロジュンとかキックベースが流行の最先端だった。君はとても運動神経が良かった。二物を与えられていた。

 

 週末になると、自転車で走り回った。10年前、この地域はまだ田んぼばかりだった。神社を走り回ったり、怖い人の家にボールを入れたりして一緒に怒られた。

 

 君はいつもカッコツケだった。髪の毛を触られることは絶対に許せない人だった。そのくせシャイだった。人見知りで、よく声が小さくなった。恥ずかしさを隠すようにいつも君はニヤニヤと笑った。

 

 

 ほどなくして僕達は一度解散し、夜の結婚式に向けて着替えることにした。正確に言えば結婚式の二次会だ。

「21でハワイで挙式して京都で二次会とか何者やねんあいつ」

 君はニヤニヤ呟いた。

 僕達はこの意見で一致していた。

 

 

 夜、僕達は再び集合し、地下鉄に乗って会場へ向かった。

 君以外の4人は全員待ち合わせに遅刻して、結局君を30分も駅で待たせてしまった。

 それでも君は怒りさえせず、ニヤニヤしながら「おい〜」と言うだけだった。

 

 

 結婚式の二次会は素晴らしかった。結婚した彼女も僕達と幼馴染で、サプライズのメッセージをとても喜んでくれた。

 

 みんなで写真を撮った。何枚も、何枚も。

 夜が更けるまで楽しんだ。

 

 

 君は一通り楽しんで疲れたのか、外で一服していた。僕は君のところへ行った。

 「この後みんなで飯食いに行こうや」

 君は煙草をふかしながらそう言った。

「確かに、ちょっと足らへんかったよな」

「どこ行く? ラーメン?」

「すがりはどう? もしくはたか松」

「すがり、もう営業時間終わるわ」

「じゃあたか松にしよ」

 

 結婚ホヤホヤの彼女はこのあとも用事があるそうで、彼女抜きで僕達幼馴染は、ほろ酔いのまま雨の四条通りを歩いた。たか松でつけ麺を頼み、秒で平らげ、それからカラオケに行った。今思い返せば、それも君の提案だった。君の歌はやはり上手かった。僕の知らないV系バンドの曲だったけれど、好きになりそうだった。

 

 

 また会おうと約束し、僕ともう一人は明日の朝が早いからと先に帰った。また入院することになると告げると、君は「大丈夫や」と言ってくれた。

 

「退院したら、夏みんなで会おう」。

 

 

 

2019年3月30日。

結局、それが君と最後に会った日になった。

もしそれが最後になるのなら、僕は先に帰るどころか彼を引き止めて離さなかったし、カラオケの延長料金を全額負担しただろうし、夜が明けるまで何時間も話し込んでいただろう。あるいはそのまま、もう飲酒運転なんか構わずドライブに行ったかもしれない。遠く遠く、ずっと遠くまで。

 

 

しかしそれが最後だなんて誰も教えてくれなかったのだ。

 

 

 

誰も。

本当に、誰も。

 

 

 

*****

 

 

 5月6日、GWの最終日は夕方から大雨が降った。季節外れの豪雨だった。

 僕は幼馴染の1人と一緒にいた。

室内でMacBookの画面を睨みながら作業をしていると、左端のバナーにLINEの通知が見えた。

 別の幼馴染からだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

君の訃報だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

背後から刺されたような電撃が脳天を撃った。

豪雨は窓を叩き続けた。

 

僕は部屋で他の作業をしていた幼馴染を呼び、何を話せば良いか分からず画面を見せた。

「なんで...」

そう呟いて、彼は項垂れた。

 

 僕はMacBookを静かに閉じた。

 強い雨の音だけが室内に響いていた。

 

 

 死んだ?

 

 あいつが?

 

 

 

 理解しようにも、脳は上の空で空転するばかりだった。

 それがドッキリか何かでないのならば、説明のしようがなかったのだ。

 

 スマホにメッセージが届く。

 通夜と告別式の場所、そして日時。

 

 

 

 死んだんだ。

 これは本当に起こっているんだ。

 

 

  僕の心は激しく壊された。悲しいとか辛いとか悔しいとか寂しいとかいう型にはまった感情によるものではなく、幼い子が困惑した時に流す、そういう種類の涙が溢れてきた。

 

 

 

 僕達は、会えばいつだって小学生みたいに笑い合った。酒を飲むようになっても中学生みたいな下ネタを飛ばしあった。

 

 

 いつでもあの日に戻れた。

 

 

 でも、もうそうじゃないらしい。

 その日は訪れたのだ。あまりにも突然に。

 

 

 下ネタを言ったってニヤニヤ笑ってくれる君はもういない。

 イケメンで、運動神経が良くて、カッコツケで、そのくせシャイな君は、もういない。

 

 涙が頬を伝う。僕は唇を噛み締めた。雨は哀しみを流してなどくれない。僕達はずっと黙ったままだった。何も出来ず、何も話せず、ただ明日と明後日が晴れ渡るよう、静かに祈り続けた。

 

 

 

*****

 

 

夕刻、僕は君のお通夜に向かった。

昨夜の雨が嘘のように晴れていた。

 

 

会場は満席だった。たくさんの友人達が詰め掛けていた。係の人に式場が一杯で入れないと言われ、僕は少し笑った。

 

君はなんて言うだろう。

「時間ギリギリに来るからやぞ、何分待たせるねん」だろうか。「俺人気者やしな、すまんな」だろうか。

 

 

 いや、どれでもない。

 多分ニヤニヤ笑うだけだ。

 君はシャイだから、こんなに囲まれて恥ずかしがっているだろう。

 

 

 1階で待つように言われ、ロビーで待った。読経の声だけが響いてきた。ほどなくして係の人が焼香のために呼びに来た。

 

 ようやく会場に入ると、君のキメた写真が中央に飾られ、綺麗な花々で縁取られていた。

 

 僕はその遺影をあまり見ないようにして、長々と手を合わせ、焼香を済ませた。

 

 通夜が終わると、御親族が棺を開けてくれた。

 

 

 

 みんな棺の周りに集まった。棺は、君の好きだったV系バンドのグッズや、煙草や、想い出の品々でいっぱいになっていた。僕も棺のもとへ行こうとした。しかしどういうわけか足が前に出なかった。大きく息を吸い、それから時間をかけて吐いた。君の顔を見るには準備が必要だった。

 

 

 泣いてはいけない気がした。

 心を無にして、君に会おう。

 

 

 棺の周りで啜り泣く人々の間に入る。君の顔が見える。

 

 とても白く、そしてとても美しい。

 

しかし僕の知っている君ではなかった。いつもニヤニヤしていた君は、白い棺の中で静かに目を閉じて澄ましていた。僕は泣かなかった。

 

「こんなに集まってもらったねぇ、良かったねぇ」

 君の父親は腫れた目でそう君に語りかけていた。

「親バカかもしれんけど、こいつホンマに誇りの息子です、幸せ者の息子です、嬉しい嬉しいって言うてます、皆さんありがとうございます、触ってやってください」

 

 

 「髪の毛触ってやろうぜ」

幼馴染の一人が呟いた。

「絶対怒るやんあいつ」

 

僕は君が今にも「やめろって」と言いそうな気がしてならなかった。

 

 恐る恐る手を伸ばす。

 いつもニヤニヤと笑ってくれた、その白く美しい頰に、触れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不気味なほど冷たかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕は驚いて、すぐに手を引いた。

 そのまま2歩3歩後ずさりした。

 涙が溢れ出した。止まらなかった。

 

 

 まるで雪の中に忘れ去られた方解石のように、君は果てしなく透き通って、どこまでも冷たかった。

 

 

 いつも笑ってくれた君は、確かに目の前にいるけれど、もうこの世にはいないのだと、その時はっきりと悟った。

 

 

 本当に、本当に、行ってしまったのだ。

決して手の届かない、遠いところまで。

 

 

 僕達は、会えばいつだってあの頃のままだった。お互いを名前で呼び合い、オブラートに包むことなく言いたいことを言い合い、そして心の底から笑い合った。酒を飲み、バイトや仕事や試験の愚痴を言い合い、大声で歌を歌った。

下ネタで笑い合った。21歳の春まで。

 

 

 

 そんな君との日々は、もう永遠に訪れない。

 

 

 君は僕の入院のことを気にかけてくれたのに、僕は君の身体が弱い事を知らなかった。君は幼馴染の誰にも相談していなかった。やっぱり最後までカッコツケだった。

 

 

 

 

 サヨナラ。

 

 

 

 

 

 僕はもう一度君に触れた。

 明日から兵庫で入院するよ、移植してくるよ、生きて帰ってくるよ、と泣きながら心の中で呟いた。

 

 

君は今にも目を覚ましそうだった。

僕は、決してそんなことは起きないのだろうけど、それでも君が「大丈夫や」と言ってニヤニヤ笑ってくれる気がして、ずっと見つめ続けていた。

 

 

「大丈夫やぞ! しっかりしろ!」と言って欲しかった。「俺の分までお前は生きるんやぞ!」と叱って欲しかった。「泣くなんてみっともないぞ!」とニヤニヤ笑って欲しかった。

 

 

 

 

 

生きていて欲しかった。

 

 

 

 

 しかし、いつまで見つめても君は白く美しく、安らかに安らかに、気持ち良さそうに眠ったままだった。遺影だけがあの日のまま静かに微笑んでいた。

 

 

 そして君は今朝、僕の入院と同じくして、澄み渡る空のもと天高く昇って行ったのだった。病室から覗く五月晴れの中で君が笑っている気がして、僕はいつまでも空を眺めていた。

 

 

 

 

 

 

残された者たちへ

 

 

 

今年も高野川が薄紅に色付く。時折強い風に吹かれて桜吹雪が舞う。美しい、しかし人々はさもそれが当然であるかのように通り過ぎてゆく。見えているのだ、しかし見てはいない。マツダRX-8のロータリー・エンジンは不満げなアイドリングで低い回転数を維持しながら、やや混雑しはじめた川端通りをそろりそろりと北へ進んでいた。水彩絵具に水をたっぷり含ませたであろう空が彼方まで広がっていて、それはウイニング・ブルーの車体より幾分控えめでもあった。

 

 

 

昼下がりのラジオはDJが張り切ることもなく聴きやすいからだろうか、あるいは僕が昼食をちゃんと取ったからだろうか、それともカー・エアコンの温度設定が適切だからなのだろうか。いずれにせよ、とても心地良い。春という季節を今日この瞬間まで忘れていたのは僕の方だった。ボーズの純正オーディオを通して1994年の夏、オアシスのリヴ・フォーエヴァーが流れてくる。音楽というものはいつもそうだ。言葉にすることの出来ぬ想いを、あるいは僕の人生を、まるで全て見通したかのように響く。あるときは脳に、あるときは五臓六腑に。「貴方はここが痒いんでしょ掻いてあげますよ」と言わんばかりに、しかし図々しくも仰々しくもなく代弁してくれる。そういう言語である。

 

 

 

Maybe you’re the same as me

We see things they’ll never see

You and I  are gonna live forever

 

(多分アンタも俺と同じだ

奴らには見えない物を見てんだ

そして俺達は永遠に生きるんだ)

 

 

 

オッチャンを思い出す。僕は左手をハンドルから離して僅かにボリュームを上げる。

 

俺もアンタも永遠に生きるんだ、きっと。

オアシスは確かにそう歌っているし、僕の過去もアンタの過去も全て知っている。音楽は解釈の言語なのだ。

 

 

 

そして、そのポップなメロディは僕の切実な感情を、まるで技術士がデジタルノギスできちんと測定したかのように寸分の狂いもなく極めて正確に描写し、それゆえ僕を激しい後悔へといざなうのである。

 

 

せめてもの償いに、オッチャンの話をしよう。

昨夏病棟で出会った、車椅子のオッチャンの話である。

 

 

*****

 

 

彼は類稀に見るお喋りなオッチャンだった。もちろん重症患者である。しかしある場合には、忙しなく働く看護師さんにとって疎うべきお喋り患者でもあった。一般に気さくとみなされる範疇を両足で跨いで寄ってくる人間であり、親近感の生まれる程よい距離とは言いがたいまでに随分と内側に入ってくきては、罪悪感のない様子で屈託無く微笑んだ。そしてこれは特筆すべきことだが、彼は誰に対しても敬語を使ったのである。もちろん30歳以上年下の僕に対してもそうであったし、物理的にはもっともっと低くあった。なぜなら彼は車椅子から立つことが出来なかったからだ。

 

 

 

 

 

「勉強ですか?」

 

血液内科の病棟の食堂で声をかけてきたのは彼の方だった。ある夏の日のことである。僕は面喰らった。集中して机に向かう面識の無い人間に後ろから話しかける、そんな芸ができる人などそういないからである。仮にいたとしよう、それが常識を兼ね備えた人間であることは微塵も期待できない。この人間は僕の勉強の邪魔をしてまでも僕のことを知りたいのだろうか、それともただ構ってほしいのだけなのだろうか、そんな疑問も彼の微笑みの前では無力であった。僕は仕方なく操り人形みたいにぎこちない相槌を打ち続けた。それが出会いである。

 

 

 

冷たい人間だと思う人もいるだろう、いや僕だって普段は他人にそんな態度を取らない。とはいえその当時はレポートを数十枚書き上げなければならなかったし、期末試験も3つ残していた。とてもじゃないが相手にする余裕はなかったのだ。申し訳ないと思う。話半分に聴きながら僕はずっと机の方を向いていた。彼は口を開くと1時間は閉じなかった。

 

 

そういうわけで第一印象はあまりよくなかった。この場合は逆についても同じことが言えるだろう、つまり彼にとっての僕の印象も悪かったはずだ(もはや確かめようもないが)。

 

 

 

僕とオッチャンが打ち解けるまでには、数週間かかった。

どうして打ち解けたのかはよくわからない。彼は確かにお喋りだったし、彼にとってみれば僕は無口であった。まるでN極とS極が相容れることのないように、反発し合う磁界の関係にあった。

 

 

 

ただマクロではそうであっても、ミクロではお互い何かに惹かれていた。どういうわけか、これは確信を持って言えることなのである。電磁気力が「強い力」の前ではほとんど無視されるように、僕らの間には孤独と呼ばれるグルーオンが存在し、電気的な斥力をものともしなかったのだ。少なくとも僕はそう解釈することにしている。孤独を埋め合わせるためには、同じ種類の孤独が必要なのだ、と。

 

 

 

 病を共に生きようとする人間の間にしか生まれない絆の類のものが、そうして緩やかに存在しはじめた。オッチャンはよく僕の病室に来て居座った。そして8月も終わろうとする頃には、僕とオッチャンは同じ病室になり、1日の多くを共に過ごすようになっていた。とはいえ、やはり饒舌な彼の前に為すすべはなく、僕はいつも聞き手に回ったのだった。

 

 

 

 

 

薬剤の影響であろう、髪はもう生えそうになかった。白いスキンヘッドは眼鏡を際立たせ、彼のキャラクターをより一層濃いものにしていた。ありとあらゆる話を、半ば自己に言い聞かせるようにして話してくれた。生い立ちのこと、病のこと、家庭のこと。やはりそのどれもが長いものだった。冗長と言えば失礼かもしれないが、事実よく脱線したし、それは自他共に認めていた。卒業式か何かでスピーチをさせたら5人は死人を出すだろう。もう少し纏めて話すことが出来たのかもしれない。しかしながら、それが彼なりの語り方であり、彼が愛される所以でもあった。「いつも長々とお相手していただいてすみませんね、こんな人ですから」。奥さんはいつもそう微笑んだ。

 

 

 

 

多くの病を抱え、多くの介助を必要とした。それら全てが彼を苦しめていた。悔しいかな、その点ばかりは分かち合えなかった。「もうしんどいんですわ」、彼はよく僕にそう漏らしたのである。そして本当にしんどい日はやはり無口であった。立て板を流れる水は細り、ポツリポツリと哀しげに溢れた。

 

 

 

「京大生ですか、それは素晴らしいですね」、彼はいつも僕のことをそうやって褒めてくれた。透き通った眼差しであったことが僕は嬉しかった。毎度のように持ち上げてくれるので、もしや認知症ではないかと疑ったこともあった(しかしそんなことは微塵もなかった、なぜなら彼は僕が話したことをまるで目を盗んでノートブックに書き入れているのかと思うほどに、事細かに記憶していたのだ)。

 

 

 

 京大の総長カレーを買ってきてください、レトルトのやつを、そんな頼みをされたこともあった。勿論僕は快く引き受けた。クリーン管理された人間にとって、レトルト食品と冷凍食品はご馳走なのである。その当時僕は大学と病院を往復する生活をしていた。生協に行ってお徳用5個パックをレジに置くと、店員は僕のことを物珍しそうな顔で見つめた。買って帰るとオッチャンはとても上機嫌だった。奥さんに見せびらかしていた。

 

 

 

 

マツダの車について語り合った夜もあった。その頃僕たちはまるで兄弟みたいになっていた。往年のロータリー・エンジンの咆哮の美しさ(それは「天使の絶叫」と呼ばれている)について、意見が一致した。それから最近のデザインコンセプトについても称えあった。僕は彼と同じぐらい多く話したし、それを彼はとても喜んでくれていたと思う。マツダ・ロードスターの話なんか食い入るように聞いてくれた。というのも彼は身体障害者であって、車椅子を助手席に乗せ、かつ手のみで脚を使わず運転できる、そんなオープン・スポーツカーのことを知って感動していたのだ。車両価格に30万円ほど足すだけでいいらしいですよ、と勧めると車椅子から転げ落ちそうになっていた。買いますわ買いますわと微笑んでいた。

 

 

 

 


ところが10月に入り、オッチャンは突然喋らなくなった。そのとき僕は移植のために特別な個室に移っていて、1日のうち数時間ばかり廊下に出ることを許され、オッチャンを探した。しかしオッチャンは廊下で看護師さんに話しかけてもいなかったし、食堂で他の患者さんと話し込んでいるようなこともなかった。たまに車椅子で検査に向かう様子を見かけたが、彼に声をかけても手を挙げるばかりであった。

 

 

 

11月、僕は退院した。

オッチャンの姿はどこかの病室へ消えて、もう姿を見ることはなかった。

もちろん、僕にもそういう時期はあったし、体調が悪くて病室から出られないというのは、どの患者にもよくあることだった。

 

 

そうして長い冬が訪れた。

春はいつまでも息を潜めているのだった。

 

 

 

*****

 

 

 

T氏と会ったのは3月の末、病院近くのからふね屋である。T氏も同じ病棟で過ごした患者仲間だ。オッチャンよりは少し年上で、身長は僕よりずっと高い。患者仲間とはよくご飯に行くのだ、そこでは大抵奢られることになる。(だから行くなんてことはない、僕にはそこでしか話せない想いがあるのだ。)T氏と僕とオッチャンの3人は仲が良く、入院当時いつも一緒に過ごしていた。阪神が負けるとみんな機嫌が悪かった。

 

 

 その日は僕もT氏も診察があった。会計を終えてから、一緒に昼食を取ろうということになっていたのだ。僕はどう考えてもブロッコリーが蛇足としか思えないカルボナーラをぐるぐると巻きながら彼の話を聞き、適当なところで相槌を打った。最近どう、まぁぼちぼちです、えらい黒いやんどうしたん、これは元からです。

 

 

「あぁ、そうだ」

 

まるでたった今思い出したかのような口調であったが、そうではないことを僕は瞬時に見抜いた。T氏は僕のカルボナーラを見つめながら、それをいつ言い出そうか迷っていたらしかった。

 

 

 

「オッチャン、死んだよ」

 

 

彼はそう言うとタレのこびり付いたカツを摘み、僕の顔を見て、食べるのをやめた。僕はそれほど哀しい顔をしていたようだった。

 

 

 「すまんな、言わん方が良かったな」

箸を置いてから彼は絞るように呟いた。

僕は首を振った。

「いや、教えてくださってありがとうございます。知らない方が楽ですが知っておくべきです」

 

お互い、言葉はそれ以上続かなかった。昼下がりのテーブルの上は重たい沈黙で曇っていた。

 

 

 やがて沈黙の雲から雨が降り始めた。どうしても堪えられなかった。知らない方が良かったのかもしれない。もう二度と勉強の邪魔をされることもないし、もう二度とロータリー・エンジンについて語ることもできない。最下位の阪神にヤジを飛ばし合うこともない。

 

 

死んだんだから。

 

 次々と蘇ってきた記憶を振り払おうとして、僕は冷めてしまったカルボナーラをひたすら巻き続けた。

 

 

 

 同じ病を持ち、同じ時間を共有した。

 僕達は健常者には決して見えない世界を見ていたし、その世界を生きていた。僕達の中だけでしか通じない言語があった。

 

 戦友を失った。

 

 

 

「生き残ったんだよ、俺たちはさ」

長い沈黙のあと、T氏はおもむろにそう呟いた。

「残された者には残された者の責任がある、とにかく生きることだよ」

 

 

僕は溢れてくる涙を落とさないようにしながらブロッコリーを纏めて口に押し込んだ。

 

 

 

 そう、これは死ぬ病だ。いくつもの尊い命が犠牲になってきた病だ。僕達はそれを生き抜けねばならない。生き延びねばならない。 

 

 

リヴ・フォーエヴァー。

決して叶わないのだ。

それでも叫ぶ、生きたい、生きたい、生きたい...

 

 

*****

 

 

信号が赤に変わる。

 

停止線を少し越え、マツダRX-8はゆっくりと停まる。窓を開けると春の匂いがする。高野川はゆらゆらと流れる。

 

残されてしまったのだ。

そしていつの日か、僕もまた誰かを、大切な誰かを残して去ってしまうのだ。

 

カウント・ダウンはもう始まっているし、止められそうもない。

 

 それでも、鼓動の続く限り。

“残された者には残された者の責任がある、とにかく生きることだよ”

 

 

CMが始まったラジオを切って、僕はシフト・レバーをニュートラルに押し込む。それからアクセルを2度3度、力任せに思い切り煽った。

 

 とんでもないエキゾースト・ノートだ。

 

 迷惑だろうか、いや少しくらい構わないだろう。遠慮すればオッチャンの空まで届かないのだ。五月蠅いくらいが丁度いい。ロータリー・エンジンはレブリミット寸前でようやく機嫌を取り戻し、高らかな咆哮を高野川に響かせる。叫んでいる、天使が叫んでいるのだ。まるで残された者たちの哀しみを代弁するかのように。

 

 

 余韻は彼方へ木霊し、風に散る桜はひらりひらりと舞っていた。街行く人はみんな彼が居なくなったことを知らない。もちろん春が知る由もない。

 

 

 

 

ライス or ナン?

 

小さくクシャミをする。この世の全てが寝静まる冬の早暁、空はほんのり青い、微かに粉雪が舞う。

 

 缶コーヒー片手に震えるようにして吐く息は白い。溜息をついても美しいのは皮肉なものである。掌に降り落ちた雪を包むと、間も無くほどけて肌の一部になった。まるで冷たく降り注いだ哀しみだ。この哀しみは、自身の体温を犠牲にすることでしか溶かせないのだ。罪悪かもしれないし、不徳かもしれない。失態、鬱屈、堕落、あるいは病と死。何もかもだ。ただ、すぐに溶けてくれない、その点雪と異なる。長く掌の上に居座られてしまう。無色透明になって吸収されるまで、少し時間が必要になる。

 

 

 車に向かう。フロントウインドウが凍っているのを見て、しまった、と思う。前が見えないとお先真っ暗です。「 お湯かける?」と母親が出てくる。それは絶対ダメ。温度差に弱いよね、ガラスと人間関係。

 

 

 エアコンとデフロスターを最大にして、スマホで時間を見る。遅れるかもしれない、大学アドレスにメールが一件届いている。

「卒論発表、朝早いですけど無理せず聴講してください、体調には気を付けてくださいね」、S准教授はいつも優しい。ほどなくして氷は溶けた。前が見える。

 

 

 朝の9号線を西に走りながら、生きることについて考えていた。そのうち、いくつかの断片的な思考が反対車線の前方からやってきて、僕の車をかすめながら後ろの方へ消えていった。追えば良かったかもしれないが、僕は今時間ギリギリで桂キャンパスに向かっているのだ、と思い引き止めなかった。

 

 

  何を考えていたのだろう。

 あまり覚えていない。この先10年の生き方について考えていたかもしれない。幼い頃、クレヨンで描いた ”将来” と呼ばれる時間が刻々と形になる、それも「クレヨンのデッサンで止まったまま」形になろうとする不安が、僕をそうさせたのだ。とはいえ僕の人生があと10年くらいだろうという見積りはかなり前からあった。余命10年。聞いたことないだろう、なぜならそんなこと医者は言わないからだ。じゃあ、あなたの余命は50年?

 

 

 10年の内訳はざっくりこうだ。

 研究室3年  /  社会人7年

そういう意味での研究室配属は、僕にとって特別な意味があった。卒論聴講の日の午後は研究室訪問の初日で、その日からの3日間だけで6つの研究室を訪問した。

 

 研究室の配属は、ほとんど成績順ではない。ほとんど、というのは各研究室に1人だけ成績枠があるからだ。僕の成績は下から数えた方が早いから、勝ち目はない。そういう残りの人間は、希望者が枠を超えた時点で即席のあみだくじが用意され、これで実質的に3年間が決まる。平等を取れば公平は死ぬのだ。

 

 

 

 誰しも人生を持っているが、それぞれの人生は一通りにしか歩めない。択一の連続だ。能動的な択一もあれば受動的な択一もあるだろう。結果はひとつに絞られる。人生における転機は、だいたい後者だ。受け入れざるを得ないという経験が、人間を強くする。

 

 

 

 ところで、理想的な選択は存在するのだろうか。正しい選択肢が何であるかを知らぬまま僕達は一つを選ばねばならない。「挑戦者、思い切ってAへ走って行った! しかし不正解! 池へダ〜イブ!!」そんな単純明快さを求めても仕方ない。実際のところAの先にもBの先にも池はないのだ。あるのは広大な砂漠。AとB、出る方角が違うだけ。どの道なら生きていけるだろうか、誰も教えてはくれない。全て自己責任の選択だ。そして選択のたび僕達は何かを捨てなければならないのである。ライス or ナン、ドッチニシマスカ?

 

 

 

 20代、誰しもが葛藤の中をもがきながら生きていて、これまで歩んできた履歴の上に誤字脱字を見つけては修正液の使えぬことを知る。致し方なく二重線を引いて訂正印を押す。「私は人生のここの部分でこう選択すべきはずのところをこういう風に間違えましたよ」と示さなければならない。なぜなら「一般解」が存在するからだ。学校にきちんと行くこと。無病息災であること。勤労の義務を果たすこと。挙げればきりがない。そんなとき色んなものが邪魔をするのだ。プライド、金、偏見、恐怖。ところで履歴書を見るのは一体どこの誰なのだろう? 書類を美辞麗句で埋めるべく僕達は生きているのだろうか?

 

 

 人生にはある種の休憩時間と休憩所が必要なのだろうと思っている。ところが、社会は休息に理由を求めようとする。なんで会社休むの?なんで留年したの? 「休学には学科長の承認が必要です」。

 

 

 先日、首の皮一枚で進級した。留年したら何をしようかと悩んでいた。事務にまで相談に行き、宥められた。

 

 ただ最近になって、はたと気付かされたのは、僕自身は有給を消化しきれない側の人間であるということだ。休みの取り方を知らない。とはいえ毎日100%であるわけもない。3割5分の力で365日休まず、ダラダラと過ごしている。ナンが良かったのかな、ライスにしたら後悔してたかな、と生産性のないことを永遠と考えている。インフォームドがいくらあったって、コンセントは択一だ。

 

 

 

“わたしがインフォームできるのはこれが全てです。コンセントは委ねます。ライス or ナン、ドッチニシマスカ?”

 

 

 

 

*****

 

 

 元旦から数えて5日目と45日目の朝刊、京都新聞の第一面に掲載していただいた。本ブログと闘病記については何度も読み込んでいただき、取材も丁寧にしていただいたこともあって、少し恥ずかしくもありながら良い記事に仕上げてもらった。ありがたい経験だった。

 

 前者は後日デジタル化され、Yahoo!ニュースになった。

 

「がんになってよかった」のタイトル。コメント欄が荒れるのは無理もなかった。

 

 [癌になって良いはずがないだろう][強がりだ][それは生きているから言えることだ][私の母は死にました][癌になって良かったですね]

 

 考えぬ葦の戯言だ、お前もいつか死ぬぞ、と思いながらひとつひとつスクリーンショットを撮った。数週間後、Yahoo! の記事は消えた。

 

 

  悶々としていた。僕はナンを食べてナンのレビューをしただけだ。何が悪い?  カレーはライスで食べるものだ、手で食う奴は汚い、そう言いたいのだろうか? 「逸脱したもの」を排他する風潮、きっと彼らは自分の信じるレールが常に正しいと思い込んで言うのだろう。「留年は怠惰」「離職は甘え」「病気は悪」、じゃあお前は一体何者なんだ? 何に挑戦したんだ? ずっとライスばかり食いやがって。ナンの味知らねぇだろ。難の味。ナンセンス。

 

 

入院中に仲良くなった白血病患者仲間からメッセージが届いていた。彼はひとつ年上で、名古屋大学の工学部だった。

「明日一時退院して、卒論発表やってきます」

凄まじい精神力だと思った。

 

そしてそれは、僕にとっての後押しになった。もう一度、そういう時期が訪れるのだ。予言ではなく、現実として。

 

 

 

“つまりあなたは今、血液がドナー/レシピエントのキメリズムを呈し、一年以内に再発する可能性が極めて高いわけです。わたしがインフォームできるのはこれが全てです。コンセントは委ねます。ライス or ナン、ドッチニシマスカ?”

 

 

 

 高揚と不安、期待と恐れ、感情の入り混じったサラダボウルをぐるぐると掻き混ぜては何の生産性もない事を思う。ライスを選ぶことだって可能だ。しかし1年以内に死ぬ。間違いなく死ぬ。

 

 

 

研究室訪問のひとコマを思い出す。

「君、教授の前やし、さすがに帽子はとろうか」

「すみません、被っててもいいですか」

「どうして?」

「すみません」

 

病だけはいつまでも執拗に付きまとうのだ。それでも僕は「癌になって良かった」と言い続けられるのだろうか、分からない。指摘は正しかったのかもしれない。死を前にすればどんな言葉も無力だ。僕自身がいちばんそれを知っている。

 

 

 

 院試、研究、バイト、就活、病、生。何かを取るのであれば何かを捨てなければならない。人生は択一の連続、答えは誰も教えてくれない。

 

 

 

「大学院入試? そんなものは聞きたくないです。私はあなたの命のことだけを考えます。私の使命は京大病院に、そして親御さんの元にあなたを生きて返すこと、ただそれだけです」

 

 

この人なら大丈夫だ。

何か僕にそう強く思わせる光を感じた。

直感を信じて踏み出す。

 

 

 

まもなく春になる。

平成の終わり、勝負の年が訪れようとしている。

 

 

 

 

デイ・ゼロ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 21歳の誕生日プレゼントは、命だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギフト、と呼ぶ方が正しいかもしれない。特別な、そして特殊な贈り物だ。値札や包装はない。無論どんな店に並ぶこともない。

 

 

 プライスレスな「赤いギフト」。

 

 

 

僕はギフトの贈り主を知らない。知ることは出来ない。顔も、名前も、生い立ちも。手紙を2回書くことのみ許されている。それだけだ。

 

 

 ところが性格は知っている。当てずっぽうではない。どうしても分かってしまうのだ。ドナーの貴方は長期間、何度も何度も面談を行い、検査し、貯血する。そうして骨髄採取のため入院する。

 

 貴方だって、僕の顔も名も知らない。しかしそんな赤の他人のために、無償で数ヶ月献身することを微塵も厭わない。

 

 

 

 

 名も知らぬ命の恩人は、そんな慈悲深い人だ。

 

 

 

 

 

 

 

 僕は今日、貴方のお陰で21度目の誕生日を迎えることが出来る。死んでいたはずの人間が、さも当たり前のような顔をして、明日も笑って生きることが出来る。こうして想いを綴ることが出来る。

 

 

 

 

 

 

この世界は、きっと厳しさと同じくらい、優しさに溢れているのだ。

僕の想像を遥かに超えて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕刻前、病室にギフトが到着した。

 

 向かいの病棟の窓が茜色に輝いているのを見て、僕は陽が傾き始めたことを知る。病室の頑丈な窓枠もほんのりと染まり、二重窓の間に影を落としていた。

 

 いよいよ始まるのだ、と思う。その前に一呼吸、お疲れ様、とでも言うべきか。

 

 

 そう、とても苦しい道のりだった。

 

 

 異変に気付いたのは5月だった。気怠い感覚が、へばりつくような暑さと共に全身を纏っていた。しばしば眼は赤く滾った。異常な発汗は、今思えば死の前兆だった。

 

 6月に入ると、矢のような雨が降り注いだ。身を屈めて避けながら、体調不良を低気圧のせいにして生きた。このとき既に僕の血は、老い先長い者のそれではなかった。内臓や脳から出血が始まっていた。

 

 

 そうして6月の最終週、いよいよ僕は死んだように生きていた。6月25日、口腔から出血が始まり、真冬並みの悪寒に震えた。6月26日、自分で取った学食を半分以上残した。降りしきる雨は吹雪に変わっていた。6月27日、実験中に意識が飛びそうになった。誰も助けてくれなかった。自転車で帰りながら何度も倒れた。夜、友人の訃報が届いた。次は自分だと思った。

 

 

 

 限界だった。

 肉体も、精神も。

 この恐怖が続くのなら、死んだ方がマシだと、本気で思った。

 

 

 

 

 

 

 

翌6月28日、緊急入院。

病名、急性白血病

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「それでは開始します。」

 

 医師の合図と共に、輸液ポンプが動き出す。教授、主治医、担当医、看護師、医学生ら、そして両親。その視線が一点に集中する。

 

 

 バッグに詰まった血液が長いチューブを伝い、腕の中へ注ぐ。ギフトが、身体の一部になる。この光景すらも、懐かしく笑える日が来るのだろうか。脳裏に焼き付けようと、僕は一度目を閉じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 デイ・ゼロ。

 僕がこの日を忘れることはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新たなスタートラインに立つ。そんなに立派な線ではない。靴の踵で土のグラウンドに引いた、自分にしか分からないぐにゃぐにゃのスタートラインだ。スターティングブロックも、号砲もない。

 

 

 それでも僕は静かに一歩を踏み出し、線を跨ぐ。乾きかけた土を全身の重みで踏みしめる。雨は止んだ。空は青い。一滴、また一滴と注がれる真紅の血液に、僅かながら温もりを感じる。

 

 

 

 

 

 少し視線を外す。病室の窓に映る空を見上げると、溜息が出るほど透き通っていた。もう冬が近い。めくるめく季節は僕をあの日に置き去りにして、素知らぬ顔で通り過ぎて行ったのだ、と思う。僕とは関係のないところで梅雨は明け、夏を謳歌して蝉は死に、山々は間もなく色づき始める。

 

 

 

 

 一日の殆どの時間を、ただひたすらベッドの上で過ごしている。僕は今どうしてこんな所に居るのかと問いたところで、白い天井が答えてくれる訳もない。無菌ユニットだけが頭上で低く唸る。

 

 

 

 

 誰も責めることの出来ぬ理不尽を、人はおおよそ運命などと呼んで簡単に片付けてしまうのだ。本当にそれが正しいことなのか、今の僕には分からない。

 

 

 

 あらゆる運命の、巡り合わせ。その良しも悪しも含めた全てを、古くは「仕合わせ」と呼んだ。

 

 ところが僕達は、その良しだけを取って「幸せ」を叫ぶようになった。残りは箱の中に押し込んで「不幸」を貼ってしまう。

 

 

 

 

 どうだろうか。

 僕はいま幸せなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 新たな命を背負う、その重圧にさえ時折押し潰されそうになる。事実、もう家族とも親戚とも血は繋がっていないのだ。一人になってしまったのかもしれない。

 

 

 

 仕合わせ全てを幸せだと受け入れるには、僕の心は幼い。本当は、物事の多くを箱に仕舞い込んでしまいたい。「不幸」を貼りたい。鍵を掛けたい。

 

 

 そうすることが出来るのなら、僕はどれほど楽になれるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなに上手くは行かないのだ。

 人生は、引き返せない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも僕は僕なりに、無菌室で21度目の誕生日を迎えられたことを、運命と呼んでみた。この理不尽な仕合わせを、今日ばかりは幸せだと受け入れることにしてみた。

 

 

 

 

 

 

 

 幸せなんだと思う。多分。

 今日の日を、両親は21年前より喜んでいた。

 そういうことなんだ、きっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人生でいちばん祝われた誕生日かもしれない。

 

 どうして、どうして不幸なわけがあるのだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

午後9時40分。

終了を告げるアラートが鳴る。

最後の一滴を見届けて、僕は大きく深呼吸した。

 

 

あの日のまま止まっていた時間が、静かに動き出した。

心臓は拍動を続ける。

 

 

 

 ありがとう。

 ドナーになってくれた貴方と、21年前の今日産んでくれた両親と、それから僕を応援してくれる全ての人達へ。あらゆる仕合わせが複雑に絡み合い、僕は今こうして生きている。

 

 

 

 

 

 もちろん泣きたい日もあるし、笑いたい日だってある。どちらも仕合わせで、その多くを幸せと呼べたらいい。今年はそういう一年でありたい。

 

 

 

 そうしてまた、誕生日が来るのを待とう。

 来年も、再来年も、その翌年も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 デイ・ゼロ。

 僕はまだ、生きている。

 

 

 

espressivo

 

 過去というものは水底に沈んだガラス玉だ。光を浴びて表情を変え、時の流れに合わせてゆらゆらと漂う。手の決して届かぬところで、それでも確かに存在している。少しずつ色褪せていくが、探せばいつも変わることなくそこにある。水が濁れば浅い部分しか見えなくなるし、水が澄めば深くまで見えるようになる。

 

 

 

 ピアノの鍵盤に手を伸ばす。副作用で痺れた手が小刻みに震える。手の届かぬガラス玉がまたひとつ増えてしまったな、と思う。

 

 

 

 少しだけ、僕とピアノの話がしたい。

 

 

 

 ガキの頃、本よりも先に楽譜が読めるようになった。物心ついた時には鍵盤を触っていて、入学祝いで電子ピアノを買ってもらったときは大喜びした。3歳から11歳までの8年間、僕は週1回ほとんど欠かさずピアノ教室に通った。

 

教室とはいえ、昔ながらの一軒家の応接間だった。フカフカのソファがあり、楽譜のひしめく本棚があり、電子ピアノとエレクトーンとグランドピアノがあった。玄関先は、ときおり線香のいい香りがした。

 

 

 先生はとても優しかった。怒られたことは一度たりともない。上品で、笑顔を絶やさず、何より僕の我儘な性格に8年間も付き合ってくれた。僕の誕生日をちゃんと覚えてくれていて、毎年プレゼントを貰った。

 

 

 小6になる前、中学受験を理由にピアノを辞めた。受験は落ちた。

 

 

先生とはそれから少し疎遠になった。それでもピアノを遠ざけることはできなかった。暇を見つけては自己流に弾いた。中学に入ってからも、合唱コンクールのたびに少し指導してもらっていた。

 

 

 あれから暫く経った。高校を卒業し、大学生になった。そんな矢先、2年半前のことだった。

 

 

先生は癌になった。

 

 

 

ピアノ教室は閉められた。僕はそのことを知らなかった。

 

 

 1年近くに渡って入退院を繰り返したらしい。必死に癌を闘い抜いて、身体はボロボロになってしまった、と後から聞いた。それでも一昨年末には少し落ち着いたらしかった。ちょうどその頃、入れ替わるようにして今度は僕が癌になった。2016年が終わろうとしていた。

 

 

 

17年の春、一本の電話があった。先生からだった。癌になったこと、それでも負けなかったこと、もう一度ピアノ教室を再開したこと、たくさんの報告をしてくれた。また遊びに来てね、と言ってくれた。

 

 必ず行きます、と約束した。

 

 

 あの約束から、気が付けば一年半の歳月が流れていった。愚かな僕は、まだ果たしていなかった。

 

 

 今年の5月頃、先生は再び入院した。僕が知ったのは、8月の半ばだった。見舞いに来てくれた友人が教えてくれた。先生が退院したら、先生の家に一緒に行こうと約束した。今度は本当に行かなければならない、と思った。

 

 会える人に、会えるうちに、会わなければならない。それはこの数ヶ月でより強く実感していることだった。

 

 何より、もう一度先生の前でピアノを弾きたかった。先生の退院予定日が、実は8月2日だったことは、後から知った。とにかく、すぐに会えると思っていた。

 

 

 

 退院の前日、8月1日に事態は急変する。

 

 

 快方に向かっていたはずの先生は突如として危篤状態に陥った。穏やかな日常は儚く消えた。数日後に意識が戻るまで、先生は生死の境を彷徨った。

 

 

「必ず家に帰ろう」

 

 

 旦那さんはそう言い続けたという。呼吸器を付け、ただ黙って頷くだけの先生に、何度も、何度も。

 

 

 

 

 

 

 2週間前、先生は家に帰った。

 

 

 僕は主治医に無理を言って外出許可を貰い、病院で黒のスーツに着替え、点滴の針を刺したまま葬儀場に向かった。

 

 

 車中、僕はひどく後悔していた。会えるうちに会わなかった自分をひどく恨んだ。どうしてもやりきれなかった。

 

 

 

 

 葬儀場に着く。入口の脇、懐かしい名前の上に「故」と添えられている。在りし日は過ぎ去った。もうこの世にはいない。それが実際に、本当に起こったのだということを眼前で突き付けられる。

 

 

 

 先生を飲み込んだ死。自分に迫りくる死。癌と白血病。ピアノと震える手。あらゆる感情を整理するには、僕はあまりに孤独だった。そして、孤独を誰とも分かち合えないことこそが、僕の孤独を果てしなく加速させた。

 

 

 

 あのガラス玉に、もう手の届くことはない。

 そして僕自身もまた、過去のガラス玉になろうとしているのかもしれない。

 

 

 

 

 故人の想い出の品が並べられていた。発表会の写真には、僕が固くなって写っていた。プログラムを開くと、自分の名前の横に懐かしい曲名があった。確か、本番だけ上手くいった。連弾曲の方は盛大に間違えた。

 

 

 

 本当は、発表会で難しい曲を弾きたかった。上手くもないのに楽譜を漁って、あれがいい、これは嫌だと駄々をこねた覚えがある。いつも半人前だった。

 

 先生は頷きながら聞いてくれた。それからこう言ってくれた。

「難しい曲を雑に弾くのは良くないよ。簡単な曲でも、感情を込めて、丁寧に弾くことができたら、素晴らしい曲になるから。そういう曲しか現代まで残ってないよ。」

 

 

 espressivoを知ったのはこの時だっただろうか。好きな音楽用語のひとつだ。

 

 楽曲には、どのような表現をすべきかを示す「発想標語」なるものが存在する。カンタービレなら「歌うように」、ドルチェなら「柔和に」、そして上のエスプレッシーボは、「感情を込めて、表情豊かに」。

 

 

 多少のアレンジこそあれ、演奏者は楽譜に忠実だ。同じ楽譜なら、機械に弾かせてしまえば同じ音になる。そんな譜面にどう感情を込めるか、いかにして表情豊かな曲として息を吹き込むか、それが演奏者として最も重要なのだと思う。

 

 

 

 同じことが人生についても言える。

 僕達は運命に忠実に生きている。「人生とは音楽だ」とはよく言ったもので、僕達は生まれてから死ぬまでずっと、一方向にしか進めない五線譜の上を歩き続けている。そこには予め決められていたかのように、容赦のないリズムもあれば全く冗長なメロディも存在する。そして僕達は難解な旋律を雑に弾いてしまうことだってできるし、簡素なメロディを豊かにすることだってできる。

 

 

 白血病患者としての人生。背負わねばならぬ運命。そんな譜面を、それでも僕は表情豊かに弾きあげたい。今は強くそう思う。どんな譜面であれ、espressivoでありたい。

 

 感情を込めて、表情豊かに。

 

 

 いくつものガラス玉と出会い、手にとり、眺めてきた。それは音符のようなものなのだろう。ひとつ、またひとつと、流れ過ぎ去る。音符の流れが、旋律を生む。

 

 弾き終えた音符ひとつひとつが楽曲を構成するように、ガラス玉それぞれが人生を構成している。過ぎ去りし音符はガラス玉であり、水中をゆらゆらと漂いながら、それでも消えることなく確かに存在している。

 

 

 

 中学時代の理科の授業を思い出す。

「光は水面で屈折します。だから水の底にある物体は、実際よりも浅く見えちゃうんです。本当はもっと深いところにあります。」

 

 

 手が届くと思っていたガラス玉は、もっと深く遠いところにあった。 水底で輝けど、もう手は届かないのだろう。

 

それでも僕は、震える手をそっと鍵盤に伸ばす。

 

 今は亡き故人に教えられたピアノ。僕は一生弾き続けることを決めた。そうすることで、少しでも故人の生きた証が残っていくのなら。

 

 窓を開けると、夕暮れと共に秋の匂いが入ってきた。手は届かなくとも、音は届くのだろうか。半人前のピアノの旋律は、金風に乗って遥か遠くまで運ばれていった。

 

 

 

銀河鉄道の朝

 

 初めて新幹線に乗った日を、今でも鮮明に覚えている。3歳の僕にとって新幹線は「夢の超特急」で、本当にどこまでも行けるんだと思った。東京駅で写真を撮っていると車掌さんが来て、非売品の定規をくれた。今でも机の引き出しの一番手前に入っている。あれから暫く、将来の夢は「電車の運転士」だった。

 

 誰にだって、大きな声で「夢」について話せた時期があったはずだ。それは野球選手だったかもしれないし、ケーキ屋さんだったかもしれない。僕達はまだ子供で、堂々とした夢を抱いていた。そうやって好きなことだけをして生きていけると思っていた。

 

 

 

 現実を知ったのは、いつからだろう。

 

 

 

 線路はどこまでも真っ直ぐに続くものではなかった。それは単なる幻想で、現実世界には容易く走れる線路など殆ど無かった。世界はどこまでも理不尽で、僕はそんな世界に背中を向けるようにして、夢の切符を破いた。どこかに捨ててきた。

 

 

 生きること、ただそれだけのことが、これほど難しいなんて。

 

 

 始発駅も終着駅も、人それぞれ違う。友人と楽しそうにボックス席で話し込む乗客もいれば、ただ一人でひたすら立ち続けるだけの乗客もいる。電車の速度だけが平等だ。人生なんて、そんなもんだと思う。

 

 列車は定刻通りに駅に着く。扉が開き、そして閉まる。また動き出す。実に単調な繰り返しだ、と思う。その単調な繰り返しでさえ、あの頃は楽しめたというのに。

 

 モノトーンのリズムに揺られながら、僕達は本当の幸せの意味を探そうと躍起になっている。

 

 同じ毎日の繰り返しの中に、本当の自分を見つけようとしている。何かを築こうとして這いつくばっている。

 

 でも幸せなんて築くものじゃない、気付くものだ。どれだけ単調な繰り返しだとしても、ただ立っているだけだとしても、電車は前へ前へと進んでいるのだから。時が滞りなく前へと進むように。

 

 

 

誰もが それぞれの 切符を買ってきたのだろう
今までの物語を 鞄に詰めてきたのだろう
荷物の置き場所を 必死で守ってきたのだろう
これからの物語を 夢に見てきたのだろう

 

                      BUMP OF CHICKEN ー 「銀河鉄道

 

 

 

 病院の地下のローソンで、小中時代の友人がバイトをしていた。以前入院していた頃、僕は、彼の姿を見つけては彼のレジに並んだ。本当にいい奴だった。6月27日、訃報が届いた。僕は激しく混乱して家を飛び出した。車に乗って、そのまま朝まで帰らなかった。翌日、白血病になった。訳も分からず入院した。

 

 

 恐る恐る地下に降りてみた。

 レジに、彼の姿はもうなかった。

 

 

 彼の四十九日が盆と重なった。うまく帰れるだろうか、と少し心配になる。故人は盆に精霊馬に乗ってこの世とあの世を行き来すると言われている。でも彼がキュウリとかナスに乗ってる姿を想像して、少し可笑しくなる。そういう奴じゃないんだ、彼は。

 

 

 小学生時代、宮沢賢治を読んで、亡くなった人は銀河鉄道に乗るんだと強く思っていた時期があった。今でも三途の河をイメージするとき、僕は天の川のことを考える。

 

 根拠はないけれど、きっと彼も、銀河鉄道に乗って帰っていくと思う。切符を握りしめて。

 

 

「何が幸せか分からないです。本当にどんな辛いことでも、それが正しい道を進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんな本当の幸福に近づく一足ずつですから。」

                                宮沢賢治 ー 「銀河鉄道の夜

 

 

 

 「銀河鉄道の夜」の本質を貫くのは、「幸せとは何たるか」だ。一体、この世界の中で、何が幸せなのか。本当にどんなに辛いことであっても、それが確かに正しいことであるのなら、実は幸福への切符を握っているということなんだ、と宮沢賢治は説く。

 

 それは子供の頃に描いたような夢の切符ではないかもしれないけれど、遠回りの線路かもしれないけれど、それでも確かに幸福行きの切符なんだと思う。

 

 現実の鉄道は、夢の鉄道よりも厳しい勾配を駆け抜ける。ただ、それが車窓を豊かにするのかもしれない。

 

「さあ、切符をしっかり持っておいで、お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐ歩いて行かなければいけない。天の川の中でたった一つの本当のその切符を決してお前はなくしてはいけない。」

 

 病院から五山の送り火を眺める。京都の街は、いつもより少し暗い。雲の切れ間から、僅かながら星が覗いていた。この空のどこかに、彼の乗る銀河鉄道が走っているはずだ。幸福行きの銀河鉄道は、明日の朝には、サウザンクロスに着くだろう。

 

 最後に送ったLINEは1月だった。会ったのも1月だった。もう既読もつかないし、もう会えない。どうして彼は死ななければならなかったのだろう。どうして僕はまだ、こうして生きているのだろう。

 

 

 夢への切符は捨ててしまったけれど、幸福への切符はまだ握っている。僕は、幸福とは何たるかをちゃんと知っている。彼もきっと知っていたと思う。それでいい。

 

 

 本当に辛いことを経験した人間にしか分からない、そんな幸福だってあるんだ。そしてそれが本当の幸福なんだ。だからどんなに辛いことであっても、それは幸福への途中駅なんだ。そこで降りようとしてはいけない。ひたすら切符を握りしめて乗り続けるんだ。

 

 

 僕が銀河鉄道に乗る日まで、彼はきっとサウザンクロスから見守っていてくれることだろう。朝日の昇る、サウザンクロスで。

 

 

 何となく、長い汽笛が聞こえた気がした。

 

 

 

 サヨナラ。

 

 

 

 

人は年を取る度 始まりから離れていく
動いていないように思えていた 僕だって進んでいる

                     BUMP OF CHICKEN ー 「銀河鉄道

 

 

銀河鉄道 - BUMP OF CHICKEN

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