ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

グッドバイ




 生きたいと思いながら生きるのか、死にたいと思いながら生きるのか、そのどちらが楽かと問われれば、まず間違いなく万人が前者を選ぶことだろう。相反する感情の中で心が押し潰される痛みと哀しみというものが、どれほど筆舌に尽くし難いかなんて、わざわざ書いて説明しなくても分かるし、僕もそんなものについて身を削って書きたくはない。

 しかしながら逆に、もっと生きたいと思いながら死ぬのか、もう死にたい、死んでもいいと思いながら死ぬのか、そのどちらかを選ばなければならないのだとしたなら、誰しもがきっと深く悩むことだろう。前者は相反する痛みの中にあり、後者は相反しないまた別の痛みの中にある。死ぬことが決めつけられてしまったとき、一体どちらが楽なのか、僕はそのことばかりをずっと考えて今日も生きている。まもなく来たるべき、その日のために。

 

 

***

 

「治療をしない、という選択肢がある」

 

 2月最後の朝、名神高速をひた走り病院に向かう車の後部座席で左側のウインドウに頭をもたげながら、僕は主治医の言葉を何度も何度も思い返しては振り払おうとしていた。鉄の塊を破砕機でスクラップするかのように、僕の頭の中ではぐわんぐわんとその文章が意味を持たない音へ砕かれ、そしてその音の破片が火花を散らしながら四方八方へ飛び散っていた。この24時間で、僕は一生分の後悔をしていた。

 

 終わっていく。

 全てが終わっていくのだ。

 この窓の外を流れる景色も、ゆったりと進んでいた春への時間も、慣れ親しんだ車内の匂いも、何もかも、全てが僕にとっての最後で、そしてひとつずつ、サヨナラも告げずに終わっていく。

 

 名残惜しんで手を伸ばすことは許されないのだ、それでも。どれだけ離したくないものだとしても、全てを掴み取って心に刻みつけることはできない。どれもこれも手をつけて空き容量を減らせば減らすほど、身動きが取れなくなるくらい身体が重く、そして鈍くなる。まるでローカルディスクがいっぱいになったパソコンのように。もう割り切ったのだ、割りきったから今ここにいるのだ、そう自分に言い聞かせる。後ろ髪を引かれてしまえば、引き下がれやしない状況であるのに、前へも進めなくなるのだ。だから僕は刻みつけるべきものだけを直感で取捨選択し、胸の手術痕のあたりに、一縷の望みと共に刻みつける。いつもと変わらぬ家族の声、あの日青春を共にした親友たちからのLINE、カバンに忍ばせた病気平癒の赤いお守り。カーラジオはカノン進行の柔らかいポップスばかりを続けて選曲し、春の訪れが近いことを暗に教えてくれている。

 

 もう二度と、帰っては来られない。

 生まれてこの方23年、ずっと暮らしてきた自宅。どんなに辛い日も、家に帰れば必ず暖かい布団が僕を待っていた。苦楽を共にした勉強机と積まれた文庫本、小学校の入学祝いに買ってもらったRoland製の電子ピアノ、卒アルや旅先のパンフレットが並ぶ思い出を無造作に詰めこんだ白い棚、その上に置かれたコレクションケースに入ったミニカーの数々。この世で一番好きな空間だった。そんな大好きな大好きな空間で、最後の最後に記憶の欠片を並べて整頓する時間さえも、僕には与えられていなかった。まもなく遺品となるであろう宝物の数々が余す所なく散りばめられた自室の部屋の電気を消し、扉を閉める瞬間が、いちばん辛かった。きっともう、ここには戻って来られない。

 

 

 赤紙が来た。戦場へ行くのだ。

 どこへも逃げることはできない。

 出征の汽車に乗り込む。叫びにも似た汽笛が悲しみを代弁するかのように高らかに鳴り響き、山々にこだまする。

 蒸気を吐き出して動輪が重々しく回り出す。

 

 僕だってこの平和な国で、多くの人々がそうであるように、平穏に生きてこの生涯を終えたかった。罪のない人間が、まだ未来をたくさん残しているのにどうして死に戦に向かわねばならないのだろう。嘆いたところで何ひとつ変わりやしないのは分かっているけれど、理不尽という言葉で片付けるにはあまりにも無慈悲だった。それでも、己を奮い立たせるしかないのだ。

 

 太平洋戦争へと、半ば強制的に連れて行かれた日本兵に、自分自身を重ねる。命を惜しむことも、涙を流すことも許されなかった、若い兵士たち。死を恐れることの許されなかった青年たち。

 

 

 日本男児たるもの強くあれ、泣いてはならぬ -そう自分に言い聞かせる。窓の外を流れゆくビルとビルの隙間から断続的に差し込む春の光が、僕の頬を撫でる。まるで一生分の後悔を慰めてくれるかのように。

 

 

***

 

 

 24時間前、倦怠感とともに自室で目を覚ました。その前日、高校のクラスメイト10人で小さな同窓会のようなものを開いた。コロナの状況もあり躊躇ったが、ここで会わなければ間違いなく後悔すると思い、リスク承知で我儘を言った。どうせいつだって僕はリスクを取ることでしか生きられないのだから。友人達は広いレンタルルームを貸し切ってくれた。昨夜昔話に花を咲かせすぎたせいだろうか、どっと疲れが出ただけかもしれない。そうあってくれと願ったのも束の間、手元の体温計を脇にしばらく挟むと示された数値は39℃だった。

 

 もう、「そのとき」が来たのだ。

 まだもう少し先だと思っていた、「そのとき」が。

 

 昨夜の旧友の視線が、ふと脳裏を過ぎる。

 

 「最後に一言」、会の終わりでそう振られた僕が次に何を言うのか、みんな固唾を飲むように待っていた。

 

 僕は何を言うべきか分かっていた。しかしその一言目が出なかった。声にしようとすればするほど、自分の喉が縄で締め付けられているかのような感覚に襲われた。

 

 

 

 

 もう生きて帰っては来られないです、みんなこれからも幸せに生きてね、さようなら。

 

 

 

 

 本当はそう言うべきだった。ちゃんとお別れを言わなければならなかった。葬式でサヨナラと言われたところで、死んだ人間には届きやしないのだから。生きているうちにちゃんと別れの言葉を交わすことができるというのは、終末期の人間に唯一与えられた権利だ。

 

 

 でも、その権利を行使することは、僕には出来なかった。そんな勇気も、覚悟もなかった。本音を言うと泣いてしまいそうで、僕は最後にそんな姿を見せることは出来なかった。

 

 

 日本男児たるもの強くあれ、泣いてはならぬ一。

 

 

「このメンバーで、また会おう、絶対に。これからも、何回も、ずっとこの先も」


 優しい嘘が、口を突いて出た。

 

 嘘だからなのだろう、泣けやしなかった。みんな笑顔のまま、お開きになった。

 

 

 

 ふと我に帰る。

 39.0の表示を眺めながら、もう既に死への秒読みが始まってしまったことを知る。

 遅かれ早かれこうなることは分かっていたのだ。白血球が少ない身体にとっては、大気ですら命取りになる。土や植物、皮膚から食品に至るまで、この世界の全ての物質は、ありとあらゆる菌にその表面を覆われているのだ。まるで目に見えない包み紙のように。それらに感染するかどうかは時間の問題だった。避けることはできない。血液疾患の宿命だ。そしてこの感染が、多くの患者の命を奪ってきた。

 

 

 それほど猶予はない。一瞬の油断が命を落とすことにつながる。通院先まで2時間、この状態で向かうにはあまりにも危険だという判断は、怠さでぼんやりとした頭にでもすぐできた。かつて入院していた紹介元の大学病院になら20分足らずで行ける。電話をかけると顔見知りの看護師さんが出て、状況はすぐに飲み込んでくれた。急いで支度をして、病院へと向かった。

 

 

 

***

 

 救急外来で抗生剤の点滴を受け、帰宅したのは15時間前のことだった。幸い大事には至らず、熱は7度台まで引いてくれた。ただ、もう無菌室で過ごさねばならないのは明白だった。もし自宅でこのまま過ごし続ければ、また感染を起こしかねない。そもそも今回の感染だって、きっと健常者なら点滴一発で回復するのだろうけど、僕は血液疾患患者だ。採血の結果、炎症反応は入院相当の高値を示していた。どうせまたぶり返す。

 

「通院先の病院と連絡が取れました。今夜、緊急で入院してほしいとのことです」

 

 救急外来の医師は、その緊急入院という四文字が僕にとって何を意味するかは分かっていなかったのだろう、ぶっきらぼうに話した。

 

 

 

 帰宅してすぐ自室に戻り、部屋の電気をつける。ぐったりとベッドに倒れこむ。

 部屋は机の上から床まで散らかしたままだったが、そこに手をつける体力も気力も時間も、もう残ってやしなかった。入院準備をし、シャワーを浴びて、軽食を取る時間を足し合わせたものを病院へと出発するまでの残り1時間から引き算すれば、この家で僕に残された時間はほぼゼロだということは、あまりにも明白だった。ずっと心の準備をしてきたつもりだったが、まだもう少し、何週間、いや少なくともあと数日は余裕があると、たかを括っていた。しかし不意打ちのように、まるで僕を嘲笑うかのようにその時は訪れた。お前の人生はお前の思う通りになんぞ絶対にならないのだ、とでも言わんばかりに。

 

 結局、全てを終えると予定の1時間を大幅に超えて19時になってしまった。病院への到着は20時過ぎ頃までにと指定されていたが、高速を飛ばしても2時間弱かかる距離、とても間に合いそうにはなかった。

 

 病棟に電話をかけ、当直の副主治医に繋いでもらうよう頼む。遅れてもいいから向かうように、と言われると思っていた僕は、電話口で拍子抜けした。

 

「じゃあ入院は明日の朝に変更しましょう。抗生剤はさっきまで打ってもらっていたから、今夜こっちに来ても取り立ててできることはないし」

 

 僕はその言葉の裏に、またあの時の優しさを垣間見た。もしかすると医療者としては不適切かもしれない、母親のような優しさを。油断と紙一重の思いやりを。

 

 医者と患者という関係ではあるけれど、女性である副主治医は厳格な男性主治医とは対照的で、時おりそういう優しさを見せてくれる。僕の主治医は、医師が患者に感情移入しすぎることは治療に油断を生じさせるという考え方をするのだが、一方の副主治医は、患者の想いを少しでも汲んで信頼関係を構築することが治療の真髄だという考え方をする。どちらも正しいと思うし、二人でちょうどよくバランスが取れているけど、やはり僕は副主治医の優しさに救われる部分が多い。もし当直が主治医だったなら、きっとそんな猶予は与えてくれなかったと思う。人道と人命、この2つのバランスをとるのは難しい。

 

 

「治療するかしないか、迷うよね」

 2月の半ば、外来処置室で通院輸血を受けていた僕を見つけて、副主治医が寄ってきてくれたことがあった。勤務時間ずっと忙しくしているうえ、診察の手当もつかないはずなのに、横になって血を注がれる僕の傍で30分近く話をしてくれた。治療を受けた場合に想定されることと、治療を受けない場合に想定されることについて。前者であれば3月の初旬に入院し、その月の終わりに移植を行い、そして4月の中旬に死ぬ可能性が極めて高いということ。奇跡とも形容できるような何かが起こらなければ、僕は生き延びられないこと。後者であれば最後の春を満喫して、桜が散る頃にこの世を去るということ。大切な人とより多くの時間を過ごせるかもしれないということ。

 

 

「先生なら、どうしますか」

 僕は最後に、思い切ってそう聞いてみた。医療者に聞くのはタブーであると、そう分かった上で。それでも、どうしても、聞いてみたかった。

 副主治医は少し目を閉じて黙ったあと、静かに語り始めた。

 

「私も、すごく悩むと思う。治療をするかしないか、結局助からないのだったら、治療をしない方が辛くない状態で生きられる期間がちょっとでも長いからね。」

 

 まるで精密機器のネジがちゃんと締まっているか順番に点検するかのように、副主治医はひとつひとつの言葉を確かめながら絞り出した。

 

「何を信じるか、だよね。私ならやると思う。でもそれは私の意見。きっと、あなたの中でも本当は迷っているんじゃなくて、実はもう最初から、移植をするかしないか、そのどちらかに傾いているけど、それを決めきれないんじゃない? だとしたら、時間が答えを出してくれる。」

 

 結局、僕を後押ししてくれたのは時間ではなくて、その言葉だったのかもしれない。副主治医は、僕が本当は最初から治療を受けるつもりでいたことを、どれだけ確率が低くても少しでも希望がある方を選択するということを、気付いていたのかもしれない。電話口で、ようやくその優しさに気付かされる。

 

「じゃあ入院は明日の10時に」

副主治医はそう言って電話を切った。

 

 僕にとって、自宅で過ごす最後の夜が訪れた。

 副主治医がくれた、最後の夜。

 こう書くと医療者として良くないかもしれないので、神様がくれたことにしておこう。

 

 布団に入り、電気を消し、そして23年間の温もりと共に、僕は眠りについた。

 

 

***

 

 名神高速を降りると、ものの5分で病院に到着する。昨夜は自分でも驚くほどに深い眠りが訪れた。気が付けば最後の朝が、眩しいくらいに窓から差し込んでいた。この24時間で、僕の人生は最後の段階に突入したのだ。

 

 病院に着いてPCR検査を終え、ものの数時間で陰性が分かると、すぐに病棟へと上がらされた。

 

 

2021年2月28日、日曜日。

戦いの火蓋が静かに切って落とされた。

 

 

 病院の外にはそれ以来、当然ながら一歩も出られていない。次に出られるのは治療が成功した時か、あるいは失敗して骨と灰になる時だ。

 

 

 あの日から昨日までの18日間、感染症の治療は良好に進んだ。最悪の事態も考えられた割には、身体がよく持ってくれた。たくさんの人の血で出来た身体のことを、僕は盲目的に信じている。強い、と。

 

 その間にも、着々と移植への準備が水面下で進められた。血液の相性を最も期待できる従姉妹がドナーになってくれることに決まった。話はトントン拍子で進行した。それでも病魔はもうすぐそこまで迫ってきているのだ、一刻の猶予もない。そして残された時間も、そう多くはない。

 

 

 とはいえ、僕が病室でできることは限られている。無菌室の外は死に直結する世界だ。見えない敵で満ちているところへ、わざわざ足を踏み入れるメリットは何もない。10畳ほど無菌個室が、余命幾ばくもない僕の生活の全てだ。それでもできる限りの手を尽くして、僕は死に際に後悔しないよう、やるべきことを淡々とやるようにしている。

 

 今やっているのは、連絡先リストの作成だ。もちろん自分が死んだ時の、である。

 

 小学校、中学校、高校の同級生、部活の先輩や後輩。それからお世話になった先生方。大学の研究室。挙げれば挙げるほどキリがなくなって、僕は実にたくさんの人間にお世話になっていることに気付かされる。そしてその多くとまだ強い繋がりがあることが、とても幸せな人間関係に巡り会えたことを教えてくれている。

 

 

「◯◯さ、俺が死んだときの連絡先リストに追加してもいい? 葬儀関係の連絡とか行くやつ」

 

 そう送ると、反応は様々だがみんな僕の思いをちゃんと汲んでくれる。「そんな縁起でもないこと言うなよ!」なんて言う馬鹿は誰一人としていない。僕が覚悟を決めているように、みんなそれぞれの覚悟があるのだろう。僕はそのことがいちばん嬉しかった。

 

 

 

 生きたいと思いながら死ぬのか、あるいは死にたい、もう死んでもいいと思いながら死ぬのか 一そのどちらが楽かだなんて、僕には分からない。でも死ぬ準備は怠ってはならないのだ。その日は突然やってくる。二度目の後悔はしたくない。できるうちに、できることをせねばならない。

 

 

 

 

 

死んだらもう何も出来ないんだ。

当たり前だけど。

 

 

 

 

 僕自身のことはどうだっていい。最近は、よくそう思うようになった。もちろん夢はたくさんあるし、やり残したことだって山ほどある。でもおそらく、僕は死ぬまでこの無菌室で過ごさねばならない。行きたいところにはもう行けないし、食べたいものももう食べられない。僕が僕に対してできることは、せいぜいこうやって何かを書いて、生きた証を残すことくらいだ。

 

 

 ただ、遺される人間のことは、どうしても気になる。僕が居なくなってしまえば、生活にぽっかりと大きな穴が空いてしまうであろう人たちのことを思う。

 

 死ぬほうは簡単だ。考えたところでどうせもうどうにもならないし、極論を言うならば運を天に任せて、来たるべき時が来れば死ねばいいだけなのだから。移植に失敗し、感染症に身体を蝕まれ、最後はICUで意識を失って、昏睡状態のまま眠るように旅立つことだろう。そして多分、それほど苦しくはない。

 

 でも遺された人たちはどうなるのだろう。苦痛と共に生きていかねばならない。死ぬ側は一瞬だが、遺された側はずっと、もしかすると一生その苦痛と生きていかねばならないのだ。そんな遺される人たちに対して、僕は一体何が出来るのだろう。

 

 

 

 未来に手紙を書こう。死んだ人間ができることはそれぐらいしかない。先日、朝起きてすぐにそう思い立った。死人に口はないけれど、書いてしまえば半永久的に残る。幸い、僕は書くことが好きだし、ちゃんと文字に想いを載せることができる。神様が僕に与えてくれた数少ない才能だ。

 

 

 でもどうやって未来に届けようか、誰かに預かってもらえばいいのだろうけど、何年も経ってしまえば、確実に届けてくれる保証も、確認する術もない。

 

 「未来 手紙」-そんなワードで、検索をかけてみる。ダメ元で調べた僕の目に飛び込んできたのは 「タイムカプセル郵便」という文字だった。2008年にできたサービスらしく、意外と新しいのだな、と知る。手紙を十年先まで、指定した未来に届けてくれるそうだ。ホームページをスクロールしながら読んでいく。あなたの想いを未来にお届けします、天国からのメッセージを残したい方も-僕のことだった。

 

 早速、雑貨屋で色とりどりのレターセットを買ってきてもらった。どうせ死んでしまうのだと思えば、白い紙に何でも書けそうな気がした。普段言えないこと、そしてずっと言えなかったことも。

 

 

 レターセットを開封し、ペンを取る。誰に書こうか、頭の中に次から次へと顔が思い浮かぶ。そして彼ら彼女らひとりひとりへのメッセージも、次から次へと浮かんでくる。やっぱりキリがない。とりあえず、まずは、家族に -そう思ったところで、どうしたのだろう、手が小刻みに震え出した。

 

 書けない。

 書くことを身体が拒んでいる。

 何を書けばいいか、何を書くべきか、スラスラと思い浮かんだはずなのに、手が全く言うことを聞かない。

 

 

 

 

 

 

 どうして俺はこんなもの書いているんだ?

 どうして俺は死ぬ準備なんかしなきゃならないんだ?

 どうして俺はここから出られないんだ?

 どうして俺には普通に生きる権利がないんだ?

 どうして、どうして、どうして・・・・・・!

 

 

 

 

 

 

 

 このとき、僕は自分が死ぬことをまだ全く受け入れられていないのだと気付いた。自分の感情を押し殺しながらここまできて、結局その反動でもっと生きたくなって、もっともっと生きたくなって、それでも死ぬ運命を受け入れなければならないのだと自分に言い聞かせていただけだと気が付いた。死ぬ準備だとか、遺された人間の哀しみがどうとか、そんなもの本当は全部投げ出してしまって、もう自分の家に帰って温かい布団で寝たかった。そして朝起きたら病気はすっかり治っていて、悪い夢でも見ていたのかなぁなんてとぼけて、今日は一日暇だけど何をしようかと思いながらまた二度寝をする、そんな普通の生活に心の底から戻りたかった。頭の中がぐちゃぐちゃになって、あらゆる思い出が走馬灯のように交錯しあって、気が付けば僕は暗闇の病室で涙が枯れるほど泣いていた。そのまま意識が遠のいて、僕はレターセットをベッドサイドテーブルに広げたまま、深い眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 そして今日、2021年3月18日。

 朝起きると、やっぱり白い天井が覗いていた。それが当然であると言わんばかりに。どうやら悪い夢ではないらしい。

 レターセットを片付ける。

 今日から移植に向けた前処置が始まるのだ。

 ドナーの幹細胞を受け入れるために、自分の細胞を殺していく。死にたくはない。でももう後戻りは出来やしない。

 

 

 耐えて、信じて、祈って、それで駄目なら、僕はどうするのだろう。手紙は書けるのだろうか。ちゃんとお別れを言えるのだろうか。

 

 

 時間は待ってくれない。

 

 僕の命のカウントダウンとカウントアップが、別々に用意された時計の上で、同時に、始まった。

 

 

 

 

 

 

恥ヲ知レ!

 

 限りなく低い、まさに天文学的な確率ではあるけれど、"理論上" 何とか起こりうる事象というものが、驚くなかれ、この世には確かに存在している。ある要因によって偶然引き起こされ、しかし起こってしまえばそれが喜劇であろうと悲劇であろうと、まさにそれ以外起こり得ることはありませんでしたよ、とでも言いたげな必然の顔をして横たわるのである。

 

 そんな、俄には信じがたい不運や奇跡が起こると、人間はいかにしてそれが生じたのか、その原因の所在を明らかにせしめようとするのだ。しかしながら結局、誰かを責め立てることも、あるいは誰かを讃え奉ることも出来ず、困り果てた末に神の仕業へと仕立て上げるのである。

 

 

 

 そしてここにもまた、神の仕業に左右された若者がいる。

 

 

 

*****

 

 ボーッと生きているので、叱られると思う。

 

 考えることはもう辞めてしまった。感じたものを言葉にするという行為は、レンズのf値を絞るも同然のことだった。僕にとって周りの世界は眩しすぎたのだ。みんな死ぬことを知らない。遊んで、騒いで、必要最低限勉強して、好きなものを食べて、行きたいところへ行く。一方僕はそういう世界に生きてはいなかった。ベッドとその周辺わずか4平米の暮らしである。遮られたカーテンの向こう一寸先は闇どころか死であった。病院とは、語弊を恐れずに言うなれば、「老い先短い者たちが集められた死のシェアハウス」であるのだ。従って、元いた世界と繋がるためにはf値を絞って光量を減らしていかねばならなかった。それは今思えば、首を絞めていたのと同じかもしれない。確かに、そして残酷なことに、絞り切れば世界ははっきりと写ったのだ。しかしその小さくなった光の穴から、一体どうやって息が出来よう?

 

 

 この世の全てがどうでもよくなっていた。そんなことがあるのかと言うが、あるのだ。経験した人間にしか分からないだろうが、それは希望ではないが絶望にもまた程遠く、まるでどこか遠い国の海岸沿いの美しい無人駅で、もう今日の列車は終了していてただただ夕陽が落ちていくのを見送ることしかできないような、そういう孤独と郷愁に満ち満ちた感覚であるのだ。苦しくはない、しかしどうしようもなく世界に置き去りにされて、ただ時間のみがゆっくりと過ぎていくのである。

 

 

 そうして僕は気力を失った。

 生きることを考えることすら、面白みの欠片も感じられなくなったのだ。

 

 

 主治医は念仏を唱えるように同じことを日ごと繰り返し言うだけであった。

「今日の調子はどう・・・そうですか・・・はい・・・うまくいきませんねー・・・」

 僕の身体は重い肺炎を起こし、一時は血中酸素濃度が80%を切るほどにまで下がって、生死の境を彷徨った。血液疾患患者が肺炎を起こして死ぬのは珍しいことではなかった。僕は何とか危機を脱したが、それからもずっと何らかの炎症反応が治まらなかった。そして、もはやそれも1ヶ月以上が経過していると言うのに、その原因は誰にも分からず、抗生剤を取っ替え引っ替えし、その度にお経のように主治医が唸ったのである。

 

「うーん・・・この原因は・・・日本の誰にも・・・分かりやしないよ・・・」

 

 

その度に僕はバイト先である区役所に謝らねばならなかった。

「すみません、年末には退院できると思うんですけれども…」

「あんな、君の穴を埋めるのにこっちかてみんな随分と迷惑してるんやからええ加減にしてや」

「はい、重々承知しております、申し訳ありません…」

 

 

 ただの肺炎を、来る日も来る日も引きずった。年末に一度は退院できたものの、2週間後にはまた肺炎が再燃して病院送りになった。もしもう少し時期が遅かったなら、あの例の新型のヤツを疑うくらいだったかもしれない。それほど本当に原因が掴めず、ゆえに退院できずにいたのだ。

 

 

 

 そして、女神の微笑む者には良い巡り合わせが立て続けに起こるように、窮地に陥った者には災禍が矢継ぎ早に訪れるというのもまた世の常であって、過たず僕の身にも落雷したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        「再発です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 主治医から発せられたその一言は、鼓膜の手前で吸収されるのを嫌がるかのように、しばらく外耳の底に留まって震えるように木霊していた。

 

 

 再発。

それはいまこの世で最も聞きたくない二文字、そして僕の中からあらゆるエネルギーを奪ってしまう二文字であり、この時を境にして僕の中で何かが壊れてしまった。

 

 

 

 

神なんていない。

 

 

 

 

*****

 

 暗がりの病室でイヤホンをして紅白を眺めるほど虚しいものはない。

 時計はひっそりと針を進め、病室は誰にも祝われることなく静かに年を越した。

 「僕が死ぬ年だ」。

 

 何を信じたら良いのか分からなかった。何も信じられなかった。

 医者も、看護師も、治療も、親も、自分自身でさえも、この世界の何もかもがデタラメであるように思えてならなかった。この胸の拍動が、あと数ヶ月ほどで打ち止まってしまうのだと考えると、恐ろしさで震える一方で、そういう事が本当に起こるのだろうかと懐疑的な自分もいた。まるで大雨のなかで強い日差しが差し込んでいる、名前のない未曾有の天気のような気分だった。どうして生きているのか、そしてなぜ死ななければいけないのかが全く分からなかったし、そもそもそういう疑問は意味すらも持ち合わせていなかった。

 

 

 

 

 この日から、僕は薬を捨てた。

 少しずつ、少しずつ、病室のごみ箱の中に、生きるための錠剤を投げ入れた。もうどうにでもなれば良かった。このときの感情については、これ以上詳しく書こうと思っても書けない。

 

 

 副作用の恐ろしいステロイドも、免疫抑制剤も、バクタも、もう飲みたくなかった。

 

 

 今思えば、自殺に等しかった。

 

 

 

 

 10日ほどして、病院にバレた。

 

 

 

 もちろん面談になった。親、主治医、副主治医、看護師長が無機質な面談室で静かに僕を待っていた。

 

 

「こういう行為によって治療方針に従えないのであれば他の病院へ行ってくれ、これは信頼関係の上での医療行為だ」と言われた。当然のことであった。

 

 

 

 僕は言葉をひとつずつ絞り出すしかなかった。

 

 もう本当に死ぬのではないか、そう怖くなって、肺炎の原因も誰にも分からない治せない、その上、原病の白血病まで再発し、薬の副作用もひどく、治療も何もかも信じられなくなって、と言い切るか言い切らないかのうちに涙が溢れ出して、あとは言葉にならなかった。抑え込んでいたものが堰を切ったように、遠く遠く流れ出していった。

 

 

 

 

 

治療は続けることになった。僕の精神的な治療を含めて。

 

 

 

 2時間の面談が終わったあと、震え続ける僕の肩を母は何も言わずにそっと抱いてくれた。

 

 

 僕は母から造血幹細胞を移植してもらい、そしてそんな母の愛を裏切ったのだ。

 

まだ生きてもいいのだろうか。

 

 

 

*****

 

 神は多少ツンデレのようなところがあって、神頼みばかりする人間は救おうとしないが、もう神など信じたくない、なんて言う人間をいたずらに救うのである。少なくとも僕はそういう神の存在を知っている。

 

 

 

 鬱症状は少しずつではあるものの改善されつつあった。抗うつ薬にはアルコールの比にならないほど元気の素が含まれているようだった。週に何度か臨床心理士も病室に来て話をしてくれた。そういう時間に僕は多少ながら救われていた。死にたいと想う気持ちも薄れていった。今となってはよく思い出せない。

 

 

 

 結局、5度目か6度目かの抗生剤の変更がうまく作用したらしく、しばらくして肺の炎症は陰性化した。

 

 

それでも、白血病が再々発したとなっては、3度目の骨髄移植は決定的であった。

これで本当に最後だ。失敗すれば本当に死ぬのだ。

 

その感覚は非常に気味の悪いもので、僕はまるでアウシュビッツガス室行き列車に押し込まれたような絶望感に苛まれた。しかし牢をこじ開けたところで高い塀の向こう側に辿り着くことが不可能であるのは、火を見るより明らかだった。

 

 

僕に出来ることは、治療を受けてその結果を受け入れること、ただそれだけであった。たとえそれが「死」であったとしても。

 

肺炎は治ったから、もうすぐ退院できるだろう。

しかしそれが最後の退院になるかもしれないのだ。

 

次の入院をもって生死が決まる。それまでの時間を僕はどうやって過ごせば良いのか分からなかった。

 

僕がこの世でやったことなんて小さじ1杯にも満たず、一方でやり残した砂場の山はいくつもあった。それら全てに水をかけて潰していく作業は、僕をやるせない気持ちにさせた。

 

 

 大学卒業、就職、結婚、親孝行、旅行、車、マイホーム・・・

 

 オリンピック観たかったなぁ、と病床でスマホの当選画面を眺めていたら、消灯の時間が来て辺りは暗闇に飲まれた。

 

 

 

 

*****

 

 

「いつも悪いことばかりだから、今日は良い事を教えてあげよう」

 

 

 いつも眉間に皺を寄せている主治医が気味の悪いくらいにこやかな表情を浮かべていた。退院の朝は曇天の中に晴れ間が少しばかり覗いていた。

 

主治医は1枚の紙を僕に手渡した。


たった1枚。

しかしその薄っぺらい1枚には、命と同じくらいの重さが鉛直下向きにまっすぐかかっていた。

 

 

いくつかの染色体検査写真と、その結果。FISH検査と呼ばれるものと、PCR検査と呼ばれるものである。

 

 

そんな紙切れ一枚が、たびたび僕の人生をいたずらに左右してきたのだ。あるときは優しく微笑み、またあるときは雷鳴を轟かしてきた。

 

 主治医が言うように良い結果であるとして、それがどのくらい良いのか僕には見当がつかなかった。今回は肺炎の治療をしたのみであって、抗がん剤放射線もなく、何ひとつとして白血病に関する治療と呼べる治療は行っていなかったのだから。

 

 

しかし突きつけられた結果は、限りなく低い、まさに天文学的な確率によって引き起こされたものだった。そういう事象が、驚くなかれ、この薄っぺらい紙の上で確かに存在していたのだ。

 

 

 

                                    XX  :  100.0%

 

                                    XY  :      0.0%

 

 

 

「XXが女性、母由来の正常造血幹細胞、XYが男性、君由来の異常造血幹細胞です」

 

 

 僕は驚いて、言葉にもならない変な声を漏らした。おそらくこの時、人生でいちばん目を丸くしたという自信がある。

 

「再発した癌が…消え…た?? ん、ですか?」

 

そういうことになるね、と主治医は神妙な面持ちで頷いた。

 

「そんなことが……そんなことが……」

 

天地が完全にひっくり返って重力が突然失われてしまったかのような浮遊感の中で、僕は一体何が起こってしまったのかまだ掴めずに、モノクロの紙をただただ黙って見つめていた。手が震えて、それから口元が震えた。

 

「これは推論でしかないけれど、結果から察するに、おそらく肺炎で活性化したドナーのリンパ球が、肺炎の細菌と一緒に異常細胞を駆逐したんだろうね、そうとしか考えられないし、そうであるならば我々血液内科医からすれば納得できる結果です」

 

 

 なるほど、頭では理解できる。確かに理論としては成り立つのだ、" 理論 "としては。でもこれは正式な治療では全くないどころか、重症肺炎の副産物としてとんでもない反応が起こり、天文学的な確率によって「癌が消えてしまった」のであって、普通では考えられないことであったのだ。

 

 

「退院おめでとう」。

 

 そう言うと主治医は行ってしまった。

 ふと我に帰ると隣で母の目が潤んでいた。僕は釣られて泣いてしまいそうになるのをぐっと堪え、主治医の背中に深々と頭を下げた。

 

 

 病室を片付け、まだ重力が戻ってこないまま、僕は母と共に病院をあとにした。

 

 

 

*****

 

 退院してからは大人しく過ごしている。

多くの友人から心配の連絡をもらうが、今のご時世、変な流行り物のせいで街中で会う気にもなれず、精神的な状態も手伝って返信できないでいた。今日から返して行こうと思う。申し訳ない。心配して連絡をくれた友人達には本当に心の底から感謝している。返さなかったのではない、返せなかったのだ、だから許してほしい。

 

 

 このところ皮膚の乾燥と顔の浮腫が著しい。これも会いたくないと思ってしまう原因のひとつだ。この前幼馴染に会ったら、「誰?」と言われてしまった。調子が悪い日は顔がパンパンに腫れ上がってお岩さんもビックリの面が仕上がっている。体力も途方もなく落ちてしまった。9年間陸上に青春を捧げたが、今は10mも走ることはできない。

 

 

 そして卒業論文を書けなかったので、自動的に留年もした。

学務に学生証の延長を申し出ると、4月1日以降にお願いしますと突っぱねられた。面倒なものだ。

 

 

 

バイトにも復帰した。

3月末までで辞めてくれと言われ、素直に従った。

病気になった自分が悪いのだ。

休む可能性のある人間を採用するリスクはどんな企業であれ背負いたくはない。そのことはよく分かる。

年度末の任期まで全うする、それだけだ。

 

 

区役所では書類の届けを受ける。

死亡届を受理し、火葬許可証を書きながら、ふとここに自分の名前があったのではないかと、なんとも言いづらい不思議な気分になる。

 

 

 

 この数年、僕は多くの友人を亡くした。

 

 手元の年度火葬許可名簿の中にも思い出深い名前が刻まれている。どうして死ななければならなかったのだろう。

 

 

先月は大事な大事な同じ年代の患者仲間を亡くした。悲しみに暮れた。

 

 

彼ら彼女らのことを想う。

生死の境の中でも明るく振る舞ってくれたあの人。突然逝ってしまった旧友。カッコ良かったアイツ。お調子者だったクラスメイト。同じ病を共有した患者仲間たち。

 

 

 みんな、会えなくなった。もっと会っておけば良かった。もっと生きたかったはずなのに。もっともっと生きたかったはずなのに。

 

 

どうして…

 

 

そのときふと、自身の境遇を愚痴愚痴言う自分が、いかに愚かであるかを思い知らされた。

 

 

 

 後遺症がなんぼのもんじゃ!

 留年がなんぼのもんじゃ!

 バイト辞めるんがなんぼのもんじゃ!

 生きとるんやから贅沢言うな!

 

 

 そう自分に言い聞かせる。恥ヲ知レ!!!

 

 

 

僕はおそらく、とんでもない力によって生かされている。理由は分からないが、とにかく" 生かされて "いるのだ。

 

いかにして癌が消えるなんていう奇跡が生じたのか、その原因なんて全く分からないのだ。" 理論上 "何とか起こり得るとはいえ、そんなことが天文学的確率で起こるなんて、一体誰が予想できただろう?

 

 だから僕は、この一連の顛末を天に昇った亡き友らの仕業へと仕立て上げるのである。あいつらが、僕の守護神になって生かしてくれている。そうに違いない。そう信じたとして、何が悪いのだろう?それが間違っていたとして、そのことを誰が証明できるというのだろう?

 

 

 

神はいる。

この世で生きていた。ついこの間まで。

 

 

 

 

役所のシャッターを閉めるため外に出ると、強い風が吹いていた。

 

追い風なのか向い風なのか、今は分からない。もしかするとそのどちらでもないのかもしれない。そもそも風に意味なんてない。こじつけもいいところだ。

 

 

 けれどもひとつだけ、たったひとつだけ、この風が確実に教えてくれていることがある。

 

 

 

 

そう。

 

まもなく、春がやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

病床のバリスタ

 

 涼しい夜風が比叡から降りてきて、センチメンタルな心のすぐ横をかすめていく。うだるような暑さはとうに消え去り、柔らかな月の光の中で秋の空気はただ凛としている。

 

 夏を生き延びたのだ、と思う。

 全てが終わったわけではないけれど。

 

 自販機にジャリ銭を突っ込んで、どれを買おうか十数秒ほど悩んだ挙句、結局温かいブラック缶を買う。まるでその手順を踏まなければ買えないかのように。お釣りをポケットに入れ、ゴトンと落ちてきた鉄の塊を握力の失われた両手で抱えるようにして開けると、仄かに黒い香りがする。

 

 

 人の嗜好は変わるものだ、とつくづく思う。苦さは苦であると思っていたのに、甘さを甘んじたものだと考えるようになってしまった。珈琲しかり、人生しかり。大人になる、というのはそういうことなのだろうか。

 

 

 とはいえ、苦ければいいかというと、それはちょっと違う。苦さの中に深い味わいがなければならない。じっくり煎る必要がある。そして、そういう美味しい珈琲にはなかなか巡り会えない。チェーン店のそれは総じて不味いし、喫茶店にも満足できるものが少ない。だからまだ缶珈琲の方が値段の割には美味しいと思っている。

 

 良いものを知ってしまうと、粗悪なもので満足することができなくなるのは世の常だ。きっと僕の場合もそうで、そのうえ多分それをもう二度と味わうことができないと知っているから忘れられないのだと思う。少しほろ苦く、それでいてどこか爽やかな、あの珈琲の味。

 

 

 僕が人生でいちばん美味しいと感じた珈琲と、そのバリスタの話を、ちょうど珈琲一杯分だけ、静まった公園のベンチに座って書こうと思う。秋の夜長にはちょっと苦いかもしれない、そんな病床のバリスタの話である。

 

 

*****

 

 「コーヒー、飲む?」

 

 朝になると、病室に芳ばしい香りが広がる。17年の春、僕は呼吸器外科に入院していて、彼と同じ病室で術後の日々を過ごしていた。4人部屋は基本的にカーテンで仕切られているのだが、彼はいつもカーテンを全開にしていた。理由を聞くと「篭る必要、ないじゃん」と明るく笑った。語弊を恐れずに言うと、ハゲのよく似合うエネルギッシュなオッチャンだった。髭がまたダンディだった。

 

グアテマラと、コスタリカが、あるんだけど、どっちがいい?」

 豆の入った茶色い紙袋を2つ持ちながら彼は言った。肺移植患者の彼は、喋る時に沢山息継ぎをしなければならなかった。

 

「どっちが美味しいんですか?」

「どっちも、美味しいよ」

 

 結局どちらを選んだかは思い出せないけれど、彼の手つきは鮮明に覚えている。豆を袋から取り出してコーヒーミルに入れ、慣れた様子で取手をゴリゴリと回して挽く。それからカップに手際良くコーヒーフィルターを広げ、挽きたての豆を敷き詰める。仕上げに熱湯をかける。

 

「この、蒸らしが、大切やからね」

 

 どうやら豆を蒸らす工程には、豆と湯を馴染ませる役割があるらしい。挽いた豆の間隙に空気が入ったままだと、美味しく抽出出来ないのだとか。その上蒸らしが長すぎると苦味が増すし、短すぎると酸味ばかりになるという。珈琲は奥が深いんだよ、と教えてもらう。

 

 蒸らした後は三回に分けてお湯を注ぐ。この頃にはもう病室いっぱいに珈琲の香りが漂っている。

 

「はい」

 

僕は手渡されたカップを鼻に近付ける。湯気に乗って、挽きたての豆の香りが優しく広がる。

 

「いやぁ、すみません。いただきます」

 

 朝日の注ぐ病室、ナースコールと看護師さんの足音、そして淹れたての珈琲。すっと広がる爽やかでしつこくない酸味と、キリッとして苦味にメリハリのあるコク。口の中に広がるものの後味はスッキリしていて舌には残らない。完璧な朝だ、と思った。

 

「美味しいでしょ?」

「すごく…美味しいです…」

 

 あの瞬間、あの香り、あの味。それらが強烈な記憶として僕の体の中に焼き付けられていて、忘れることが出来ないのだ。それから彼は毎朝珈琲を立ててくれた。苦しい闘病生活の、ほんの僅かな至福の時間だった。あの情景は、二度と再現されない。

 

 

*****

 

 

 出町柳のふたばで彼が大好きな豆餅を買い、その足で病院に向かう。師走のキリキリとした冷たい風が鼻をつく。2018年がまもなく終わろうとしていた。

 

 病室の部屋をノックすると、「どうぞ〜」と懐かしい声がする。

 お見舞いに行くのは何度目だろうか。本当は病院でないところで会いたいのに、彼はいつも病院にいたのだ。

 

 再移植待機。

 

 彼の肺は二度目の移植を必要としていた。14年のクリスマスイブに移植された肺は、4年間の拒絶反応によってボロボロになっていたのだ。少し起こしたベッドの上で、呼吸器と心電図モニターを付けられている彼は、何だか小さく見えた。

 

「あと、1年くらいね、粘らんと、あかん」

 

 苦しいのか、ときおり呼吸が乱れた。その度に彼は身体を前屈させるように折りたたんで、ふーっと息を吐いた。以前より口数は少なかった。

 

「しんどいしあんまり喋られへんけど、ちゃんと聞いてるから色々話してあげてね」

 奥さんはいつも彼に寄り添っていた。いい夫婦だなと何度も感じた。息子さんも可愛らしかった。

 

 「豆餅を買ってきたんですよ」

「ええ、それは、嬉しいなぁ、あり、がとう」

 

 彼は顔をほころばせた。くしゃっと笑う姿は息子さんと同じだった。

 

 移植の待機は過酷だ。おおよそ平均して3年は待たねばならないが、肺機能はその間にも低下の一途を辿る。耐えて、耐えて、とにかく順番が来るまで耐え忍ばなければならない。しかしながら、自分の番が回ってきた頃には手術に耐えうるほどの体力が残っていないなんてことはザラにある。ましてや二度目の移植ともなれば、大きなリスクが伴う。

 

 「待つの、本当に長いですよね、心が折れそうになりませんか?」

僕の質問に、彼は笑って答えた。

 「そりゃあ、しんどいよ、しんどいし、早く移植したいって、いうのは、誰かの死を、望んでるって、ことやからね」

僕は何も言えなかった。彼は続けた。

「でもまぁ、1回移植してる、わけで、その誰かの、命のおかげで、ここにいるし、そのことに、責任を感じる、というのではない、けれども、なんとか、なんとか、生きないと、いけないなぁって」

 

それから暫くして、年が明けた。新年のメッセージに、彼はこう綴っていた。

 

手術で人工呼吸器をつける話があったのですが、肺が全身麻酔に耐えられないなではないかと麻酔科からストップが入り、今の装備で移植まで待つことになりそうです

あと一年前後

粘るぞー

 

 

*****

 

 今年の3月、また彼に会いに行った。

 

 僕も二度目の移植をするかもしれない、と打ち明けた。この前の骨髄移植は上手くいかなかったのだ、と。

 

 ほとんど僕が話していた。彼はただじっと頷いて、ときおり呼吸を乱して苦しそうな表情を見せ、それから膝をかかえるようにして痛みを逃していた。それでも最後に「大丈夫だ」と言ってくれた。「ツイてるから、君は」と。

 根拠なんてどこにもなかったけれど、彼がそう言うなら大丈夫な気がした。

 

僕も彼も移植患者であることは同じだった。再移植待ちであることも共通項だった。ただ一点、僕の場合は「待つ」必要がなかった。骨髄は生きている人間から採取できるからだ。それに引き換え、彼はずっと待たなければならない。それも、誰かの死を。永遠にも思える苦しさに耐えながら。

 

 しかし、彼が最も強かったのは、それを決して吐露しないことだった。少なくとも僕の前では本当に強い患者であった。とにかく生きてやるんだという強い強い執念を感じた。

 

 「僕はね、自分のこと、可哀想だとは、思わないよ、むしろ、失ったものより、得たものの方が、多すぎて、自慢話に、なっちゃうからさ」

 

 

 

*****

 

 珈琲がなくなったのでそろそろ終わろうと思う。あまり長いと彼に最後まで読んでもらえない。ベンチを立って自販機の傍にあるゴミ箱に空き缶を投げ入れる。今日は月が綺麗だ。

 

 彼は、先日亡き人となった。

 移植は間に合わなかった。

 夏の終わりと共に、安らかに、彼は逝ってしまったのだ。

 

 またひとり、大事な大事な戦友を失ってしまった。

 

 

 残念だ。それでも、不思議と悲しくはない。きっと彼もそうだと思う。可哀想だなんて言葉、滅相も無い。太く短く生きた、それだけじゃないか。

 

 「君からは本当に多くのことを学んでるよ」とよく言ってくれたけど、おそらく僕が彼から学んだものの方が多いと思う。彼は本気で死に向き合っていたし、それでいて夫として、そして何より父として、最期まで己を貫いて生きていた。

 

 

「臓器移植を受けるべきか、本気で悩んでいた」と打ち明けられたことがある。人様の命をいただいてまで、自分に生きる価値があるのか、と。

 

「でもね、あのとき移植したから、今こうやって君と会えているわけで」

 

 長く生きることにどれほどの意味や価値があるのかどうか、僕には分からない。きっと、いつまでも分からないと思う。それでも、2014年のクリスマスイブに彼が肺移植をしたことで、2年前の春に僕と彼は出会い、そして一緒に珈琲を飲みながら、生きることと死ぬことについて語り合えたのだ。事実として。

 

 もう二度と味わうことのできない珈琲を思い出しながら、秋の虫の音が響き始めた公園を後にして、僕は家路につく。ポツリポツリと続く街灯に照らされては消え、また照らされては消えるように、彼との日々、その会話の断片が際限なく蘇ってくる。

 

 将来の話、音楽の話、移植の話、それから珈琲の話。

 

 少し苦い。それでも、深みがあって、後味はどこか爽やかでスッキリとしている。彼はそういう生き方をして、48歳でこの世を後にした。素敵な妻と、そっくりの息子と、それから一抹の珈琲の香りを残して。

 

そしてまた季節は巡る。

追いていかれぬよう、僕は少し足を早める。

 

 

 

震えるサイン、震えぬ芯

 

 今日ばかりはゆったりとした時間が流れているというのに、僕は少し疲れていた。白く堅いパラマウントベッドに横たわったまま、静かに、静かに目を閉じる。これまでの過去と、これからの未来を想う。瞼の内側で涙が溢れる。シーツに零さぬよう、強く瞑る。

 

 血が注がれている。赤い血であり、僕の命でもある。

 これでいいのだ、そう確信している。この決断で、いい。

 

 

 デイ・ゼロ。

 医療の世界は今日をそう呼ぶ。全てがゼロになる日である。原点であり、誕生であり、そして再出発点でもある。

 

 一体僕はあとどれくらい生きられるのだろう?

 

 

*****

 

 生きるか、死ぬか。

 この世で最も究極とも言える、そんな二択を迫られるなんてこと、無い人生の方がいいに決まっているじゃないか。僕だって毎日を全く穏やかに生きたかった。21歳の京大生として、何の変哲もない、代わり映えのしない日々を送りたかったのだ。何も起こらぬ平々凡々とした日常がどれほど幸福な生であるか、あなたはきっと知らないだろう。

 「生きますか、死にますか。」

 もちろん僕は前者を選択する。1人の人間として、そして何より白血病患者として。治療同意書に署名し、捺印する。それが半ばルーチンワークと化している。僕は何人もの血によって生かされている人間であるのだ。多くの人々の想いを乗せて、この胸でひとつの小さな心臓が動いている。こんなところで死ぬわけにはいかない。

 昨夏、急性白血病を宣告された。晴天の霹靂であったが、病は既に深く巣食っていた。身体中の骨髄を癌細胞が蝕み、血はもはやただの有害な赤い液と化していたのだ。つまり僕の造血器は生きるべき本来の機能を完全に喪失していたのである。ひとりで宣告を受けた僕は絶句し、そのままトイレまで逃げて壁を殴って泣き続けた。ゲリラ豪雨は僕の真上だけに激しく降り注いだのだ。僕はもうここで息絶えて死んでしまうのだ、何もかも全てこれで終わりなのだ、と思うと嗚咽が止まることはなかった。

 

 それからの日々、大量の抗がん剤放射線、あるいは輸血と栄養剤、まるで一歩たりとも引かれぬ鍔迫り合いのごとき治療が数ヶ月続いた。身をよじるほどの激痛が老い先の長くないことを物語っていた。苦痛を癒してくれるのは24時間連続投与されるモルヒネだけで、果てしなく厳しい治療は癌細胞もろとも心身を傷つけ、副作用的兵糧攻めを受けた身体は絞り切った雑巾になった。それでも僕は治療を進めるべく同意書への署名捺印を続けた。そこにだけは迷いのようなものがなかった。

 

 生きたかったからだ。何としても。

 

 それは現代医療と医療者への全幅の信頼の証であるばかりでなく、生きることへの執念そのものだった。

 

 夏の終わりにはドナーが見つかった。救世主であった。祈りは通じ、生きるチャンスを確かに与えられたのだ。「神はまだ僕を見捨ててはいない」、はっきりそう悟った。やはり迷うことなく署名捺印し、そうして10月に骨髄移植を行った。これによって僕の体内はドナーさんの健全な血液で満たされ、首の皮一枚のところで奇跡的に命を取り留めた。後は順調に進む経過を見守るだけでいいのだ。こうして長い長い闘いにもようやく終止符が打たれるはずであった。

 

 …はずであった。

 

 平成を死に物狂いで生き抜いた暁には、令和と呼ばれる住みよい時代が僕にも訪れるだろうと思っていた。気淑く風和らぐ、そんな平穏を願ってやまなかったが、その想いも虚しかった。また前途多難な日々が幕開けることを、僕は俄かに知らされたのだ。

 

 移植後の経過が上手くいかなかったと告げられたとき、いよいよ背水の陣は崖下へと崩れ去った。僕は遂に奈落の底へと落とされたのだ。そこは谷であると同時に闇であり、死でもあった。まもなく殺されたはずの異常細胞が復活し、移植されてきたドナーの細胞を追い出しはじめた。検査のたびに、健全なドナーの細胞割合が減っていったのである。3… 2… 1、ゼロ。万事休して、もはや希望は絶たれた。「末梢血細胞の94%に染色体異常が見られます」。

 どうして。心の奥底から悲鳴だけが木霊していた。生きたい、生きたい、生きたい。僕は土下座しながら、藁でもいいから落としてくださいと、そう必死の形相で叫んでいたのだ。神に、主治医に、ドナーに、献血者に、家族に、そして自分自身に。「僕はこんなところで死にたくないんです、まだどうしても死ねないんです。21年しか生きてないんです。お願いですから助けてください。」

 

 しかし返事はなかった。僕の声は薄暗く湿った谷間の底の岩壁に、虚しくも反響するばかりであった。

 

 終焉。そんな言葉が脳裏をよぎっては、幼き日々がポツリ、ポツリと想い起こされるのであった。まるで走馬灯のごとく浮かんでは消える情景。それは大方、懐かしき夏の日であった。

 

 小学生の僕は夏休みに入ると、朝から近所の公園でラジオ体操をし、皆勤賞で三ツ矢サイダーを貰った。午後は解放されている小学校のプールで友達と遊び、朝顔の自由研究と図工の課題を母親に手伝ってもらった。スイカをほうばり、夜はBBQの後に花火をした。500円玉を1枚だけ握りしめて神社のお祭りにも行った。

 中高の部活は陸上部だった。やはり夏休みは毎日のように走り込んだ。練習が終わると頭から思いっきり水を被り、チームメイトと談笑しながら帰宅した。インハイ予選で散った日は眠れなかった。

 そういえば高3の夏は大学受験に追われていた。朝から晩まで、毎日10時間は机に向かった。赤本と黒本を何冊も持ち歩き、肩を壊した。夏期講習を終えてから友人達と食べるラーメンは至高だった。

 

 

 死ぬことを知らぬ日々であった。

 

 

 そんな体力、いまどこにあろうか。

 輝いたあの夏が、アスファルトに浮かぶ逃げ水のように煌いて瞼の裏に揺らめく。僕はその影ひとつひとつが、どこを切り取っても幻であったのではないかと思い始めた。

 

 

 いや、きっと幻を見ていたのだ。

 終焉なんだ。

 

 サヨナラ。

 短いけど結構いい人生だったんじゃない?

 そうだよ、幸せだったよ、本当に。

 就職も結婚もしたかったけど、子供とお酒片手に語り明かしたり孫を抱きしめたりもしたかったけど、それはちょっと欲張り過ぎかなぁ。

 

 せめて最期の日は晴れてるといいなぁ。神様それぐらい叶えてね。静かな朝がいいです。

 

 半ば自分に諦めるように、言い聞かせるようにして呟く。

 誰も悪くないさ。

 

 この美しい世界に生きられてよかった。

 

 楽しかったよ、21年間…

 

 

 

 

*****

 

  

  微かな返事が聴こえる。

  想いが届いたのだろうか。

 

  ある日、天から二本の藁が舞い降りたのである。

  主治医は僕を呼んだ。

 

 そこでは、ある条件付きの選択肢が提示された。それは紛れもなく最後の選択肢であった。しかし同時に、風前に揺らぐ命にとっては苦難そのものでもあった。

 

 と言うのも、もはや生きるか死ぬかという二元化された選択の域ではなかったのだ。

 

 生きることへの執念から臆さず前者にサインしてきた僕は怯んで後退りした。ここに来て戸惑い、狼狽し、そして葛藤した。

 これまで、治療から逃げてきたことは一瞬たりともなかった。それは治療を受けることそのものが生きることだと考えてきたからであり、生きたいという強い意志だけがそうさせていた。力強く署名し捺印することで、僕は生きてきたのだ。

 

しかしながら、舞い降りた藁は次のような二本であった。

 

死ぬかもしれないA」と「死ぬかもしれないB」。

 

「目下これ以外の選択肢はない」。

 主治医の目は真っ直ぐに僕を見据えていた。

 火の手が差し迫った僕に残された選択肢は、来るとも分からぬ消防隊を待つか、ここで火の海を渡るか、そのどちらかだということだった。そしてそのどちらも死ぬかもしれないというものだった。

 

 「君の血は、現状このまま放っておけば確実に癌化する。つまり再発だ。しかし君は既に厳しい治療を受けているから、まもなく体力的な限界値を迎えるだろう。確かに白血病に関する研究は日進月歩であるし、新しい治療法を待つというのもひとつの手段だが、病魔に追いつかれたらおしまいだ。これが選択肢Aだ。」

 僕は黙って頷いた。主治医は続けた。

「しかし、いま特殊な方法で移植を行えば、君を救えるかもしれない。ただしそれは、この上なく厳しい闘いになる。覚悟が必要だ。これが選択肢B、ハプロ移植だ。」

 

 光が見えた、最後の希望なのだと思った。神の思し召しであった。「それでもやります」と僕は言おうとした。もう逡巡の余地などなかった。

 ところが、主治医は遮った。

 

「ハプロ移植はこの病院では行えない。君は地元を離れる必要があるし、これからの人生では食事を大きく制限されることになる。その上、親御さんが血液ドナーになる特殊な治療だから、親御さんに入院してもらう必要だってある。それから…」

 

 主治医は大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。

 

「この厳しい治療が結果的に君の寿命を限りなく縮めてしまうということは十分にあり得る。成功率すなわち5年生存率は3割から4割だ。失敗したときは緩和ケアに移行する」

 

 僕は言葉を失った。診察室の中でただ茫然と、時間を止められた骨董品の置物のように、丸椅子の上で身動きひとつできなかった。

 

 

 その夜、僕は自室で泣いた。

 死から逃げるために、死の胸元へ飛び込まねばならないという矛盾が、そして理不尽が、僕を激しく混乱させていた。「君の寿命を限りなく縮めてしまうかもしれない」。その一言が僕の頭の中で高速の螺旋を描くたび、地鳴りのような動悸がした。

 

 

 死んでしまうかもしれない。

 無論ハプロ移植を選択しなければ、来夏には死んでいるのだ、きっと。「1年は持たない」、主治医はあの場でそう言い切った。

 しかしハプロ移植を選択したとして、どうだ。実際のところ生き延びる保証はどこにもないし、何ならこの夏にだって死んでしまうかもしれないのだ。

 

 それでも決断しなければならなかった。いつだって与えられるのは選択肢のみだ。それも、決して安直に方針転換できる類の選択肢ではないのだ。命を賭した選択なのだ。ミスなんて許されるもんじゃない。そして運命を決めるのは他の誰でもない、自分だ。

 僕の人生だ。僕以外の誰にも決めることはできない。

 

  神にだって、主治医にだって、誰にだって決められないのだ。

 

  逃げるな、と自分に言い聞かせる。

  雨ふらば降れ、風ふかば吹け ーー。

 

 

 

 *****

 

 瞼の内側で涙が溢れる。シーツに零さぬよう、強く瞑る。

これまでの過去と、これからの未来を想う。いまここに強く強く生きている、その実感を噛みしめる。

 

 血が注がれている。赤い血であり、僕の命でもある。

 これでいいのだ、そう確信している。この決断で、いい。

 

 やるしかなかったのだ、生き延びる為に。燃え盛る火の海へ、この身ひとつで飛び込むことを選んだのだ。後悔などあろうか、たとえそれが僕の寿命を早める結末になろうとも。燎原の火に四方八方を囲まれたなら潔く灰になってやろう。

 

 新天地に赴き、新しい主治医と出会った。「君のことを生きて親元に返す、それが私の使命です。」主治医はそう力強く言い放ってくれた。

 

 治療の説明を受けた。どれほど過酷な闘いになるのかということについて、延々と説明を受けた。丸椅子に座る僕は、もうたじろぎはしなかった。両親が横で静かに頷いていた。

 

 最後に、1枚の紙を手渡された。

 同意書であった。

 

 僕はボールペンを取り、右手に全霊の念を込めて、21年前に親から授かった自分の名を書き上げた。一息に書き上げた。それから印鑑を朱肉に付け、紙の真上からぐっと押した。

 手が震えていた。しかしながら、それは戦々兢々とした震えではなかった。決死の覚悟で戦地へ赴くサムライの、乾坤一擲の精神たる武者震いであった。もはや心の芯が揺れることは微塵もなかった。

 

 

 そして今日、令和元年6月3日、戦の火蓋が切って落とされた。

 点滴棒に吊られた血液バッグに入っているのは、ドナーになってくれた母親の血である。それがチューブを通して、じわり僕の身体の中へ注がれるのだ。

 

 デイ・ゼロ。

 僕もまた今日をそう呼ぶ。

 原点であり、誕生であり、そして再出発点である。

 

 きっとうまくいく。

 

 

 温かくて、優しい血だ。

 無菌室の窓から覗く空はどこまでも蒼く透き通っている。ため息の出るほど心地の良い碧空が、新天地の遥か彼方まで広がっている。まもなく22度目の夏が訪れようとしているのだ。天下分け目の夏の陣である。おそらく、最も長い夏になる。

 

 一滴、また一滴と注がれる血を見つめる。ふと、僕は1997年の夏に想いを馳せた。母親の胎内で、臍の緒を通して、まだこの世に生を受けていない僕に注がれる血液のことを想う。ーーやはり温かくて、優しい血だ。

 

 僕が生きてきた21年と8ヶ月は、幻なんかじゃない。何となく、ただ何の根拠もなくそう思った。そう思わざるを得なかった。あの夏の日はまた僕に訪れる。きっと訪れる。

 

 そうだ。

 間違ってない。

 この決断は、絶対に間違ってなんかいない。

 何が終焉だ。

 

 

 サヨナラには、まだ早い。

 生きろ、生きるんだ。

 

 

 

 

 

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二度と戻らぬあの日と、あの日の君に捧ぐ

 

 君は遅れてやって来た。

 

 社用車のトヨタ・アクアを実にスムーズなバックで壁ギリギリに停めると、「ごめんな、仕事が」と謝った。それから君は「懐かしいな」と呟いた。「いらっしゃい、みんなもう書き終わったで」、僕はそう言って庭先の門扉を開け、彼を我が家に招き入れた。「二階上がって」

 

 ようやく幼馴染の5人が揃った。昔は毎日嫌という程遊んだけれど、こうやって集まることも最近は滅多にない。二階に上がって自分の部屋に戻ると、僕が棚の隅に隠している卒業アルバムを誰かが勝手に引っ張り出し、先に来た3人で寄って集って見ているところだった。10年前の僕達が映っていた。少しずつ別の道を歩み始めた僕達は、もうとっくの昔に成人して、名実共に本当に大人になってしまった。それでもこうして昔と同じように笑い合えるのが嬉しかった。

 

 「ここにメッセージ書いて」

僕は君にそう言って二つ折りのカラフルな色紙と、そこに貼るメッセージ用のシールを渡した。

「すげぇ、これは絶対あいつ喜ぶわ」

 君はとても楽しそうだった。幼馴染が結婚するというのは、僕達にとって初めてのことだったし、先を越された悔しさも少しはあったけれど、そんなものどうでもよくなるくらい嬉しかった。

 

「まじであいつがいちばんに結婚するとはなぁ、意味わからんやろ、あんな雑な女が」

 君はおそらくこの5人の中では彼女をいちばん近くで見てきただろうし、きっといちばん驚いたに違いない。

 

 

 “結婚おめでとう!

俺の方が絶対早い思ってたのに負けたわ(笑)

東京に行っても私たちの事は忘れないでください(泣)"

 

 君は茶目っ気たっぷりにそう書くと、いつものようにニヤニヤと笑った。ホストみたいな髪型で、良く言えばイケメン、悪く言えば遊び人のようなルックスをしているが、根はめちゃくちゃ良い奴だ。もう15年の付き合いになる。

 

 

 ほどなくして母親が帰ってきた。パン屋に行ったついでに、美味しいプリンを買ってきてくれたらしい。

「ケーキの方が良かったかなと思ったんやけど、一人ひとつずつこっちの方がいいかなって」

「ケーキはやりすぎや」

 

僕は箱を抱えて二階に持って上がり、それをみんなで食べた。

昔話に花が咲いた。

 

 

君との出会いは小1だった。

クラスが同じだった。

君は当時からイケメンで、クラスの人気者だった。サッカーが上手かった。

 

 君との想い出を数えるのには無理がある。数百か数千か、勿論数え切れるのだろうけど、それまでに僕は苦しくなってしまうと思う。

 

 楽しい日々だったから。

 

 放課後よく一緒に遊んだ。ドロジュンとかキックベースが流行の最先端だった。君はとても運動神経が良かった。二物を与えられていた。

 

 週末になると、自転車で走り回った。10年前、この地域はまだ田んぼばかりだった。神社を走り回ったり、怖い人の家にボールを入れたりして一緒に怒られた。

 

 君はいつもカッコツケだった。髪の毛を触られることは絶対に許せない人だった。そのくせシャイだった。人見知りで、よく声が小さくなった。恥ずかしさを隠すようにいつも君はニヤニヤと笑った。

 

 

 ほどなくして僕達は一度解散し、夜の結婚式に向けて着替えることにした。正確に言えば結婚式の二次会だ。

「21でハワイで挙式して京都で二次会とか何者やねんあいつ」

 君はニヤニヤ呟いた。

 僕達はこの意見で一致していた。

 

 

 夜、僕達は再び集合し、地下鉄に乗って会場へ向かった。

 君以外の4人は全員待ち合わせに遅刻して、結局君を30分も駅で待たせてしまった。

 それでも君は怒りさえせず、ニヤニヤしながら「おい〜」と言うだけだった。

 

 

 結婚式の二次会は素晴らしかった。結婚した彼女も僕達と幼馴染で、サプライズのメッセージをとても喜んでくれた。

 

 みんなで写真を撮った。何枚も、何枚も。

 夜が更けるまで楽しんだ。

 

 

 君は一通り楽しんで疲れたのか、外で一服していた。僕は君のところへ行った。

 「この後みんなで飯食いに行こうや」

 君は煙草をふかしながらそう言った。

「確かに、ちょっと足らへんかったよな」

「どこ行く? ラーメン?」

「すがりはどう? もしくはたか松」

「すがり、もう営業時間終わるわ」

「じゃあたか松にしよ」

 

 結婚ホヤホヤの彼女はこのあとも用事があるそうで、彼女抜きで僕達幼馴染は、ほろ酔いのまま雨の四条通りを歩いた。たか松でつけ麺を頼み、秒で平らげ、それからカラオケに行った。今思い返せば、それも君の提案だった。君の歌はやはり上手かった。僕の知らないV系バンドの曲だったけれど、好きになりそうだった。

 

 

 また会おうと約束し、僕ともう一人は明日の朝が早いからと先に帰った。また入院することになると告げると、君は「大丈夫や」と言ってくれた。

 

「退院したら、夏みんなで会おう」。

 

 

 

2019年3月30日。

結局、それが君と最後に会った日になった。

もしそれが最後になるのなら、僕は先に帰るどころか彼を引き止めて離さなかったし、カラオケの延長料金を全額負担しただろうし、夜が明けるまで何時間も話し込んでいただろう。あるいはそのまま、もう飲酒運転なんか構わずドライブに行ったかもしれない。遠く遠く、ずっと遠くまで。

 

 

しかしそれが最後だなんて誰も教えてくれなかったのだ。

 

 

 

誰も。

本当に、誰も。

 

 

 

*****

 

 

 5月6日、GWの最終日は夕方から大雨が降った。季節外れの豪雨だった。

 僕は幼馴染の1人と一緒にいた。

室内でMacBookの画面を睨みながら作業をしていると、左端のバナーにLINEの通知が見えた。

 別の幼馴染からだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

君の訃報だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

背後から刺されたような電撃が脳天を撃った。

豪雨は窓を叩き続けた。

 

僕は部屋で他の作業をしていた幼馴染を呼び、何を話せば良いか分からず画面を見せた。

「なんで...」

そう呟いて、彼は項垂れた。

 

 僕はMacBookを静かに閉じた。

 強い雨の音だけが室内に響いていた。

 

 

 死んだ?

 

 あいつが?

 

 

 

 理解しようにも、脳は上の空で空転するばかりだった。

 それがドッキリか何かでないのならば、説明のしようがなかったのだ。

 

 スマホにメッセージが届く。

 通夜と告別式の場所、そして日時。

 

 

 

 死んだんだ。

 これは本当に起こっているんだ。

 

 

  僕の心は激しく壊された。悲しいとか辛いとか悔しいとか寂しいとかいう型にはまった感情によるものではなく、幼い子が困惑した時に流す、そういう種類の涙が溢れてきた。

 

 

 

 僕達は、会えばいつだって小学生みたいに笑い合った。酒を飲むようになっても中学生みたいな下ネタを飛ばしあった。

 

 

 いつでもあの日に戻れた。

 

 

 でも、もうそうじゃないらしい。

 その日は訪れたのだ。あまりにも突然に。

 

 

 下ネタを言ったってニヤニヤ笑ってくれる君はもういない。

 イケメンで、運動神経が良くて、カッコツケで、そのくせシャイな君は、もういない。

 

 涙が頬を伝う。僕は唇を噛み締めた。雨は哀しみを流してなどくれない。僕達はずっと黙ったままだった。何も出来ず、何も話せず、ただ明日と明後日が晴れ渡るよう、静かに祈り続けた。

 

 

 

*****

 

 

夕刻、僕は君のお通夜に向かった。

昨夜の雨が嘘のように晴れていた。

 

 

会場は満席だった。たくさんの友人達が詰め掛けていた。係の人に式場が一杯で入れないと言われ、僕は少し笑った。

 

君はなんて言うだろう。

「時間ギリギリに来るからやぞ、何分待たせるねん」だろうか。「俺人気者やしな、すまんな」だろうか。

 

 

 いや、どれでもない。

 多分ニヤニヤ笑うだけだ。

 君はシャイだから、こんなに囲まれて恥ずかしがっているだろう。

 

 

 1階で待つように言われ、ロビーで待った。読経の声だけが響いてきた。ほどなくして係の人が焼香のために呼びに来た。

 

 ようやく会場に入ると、君のキメた写真が中央に飾られ、綺麗な花々で縁取られていた。

 

 僕はその遺影をあまり見ないようにして、長々と手を合わせ、焼香を済ませた。

 

 通夜が終わると、御親族が棺を開けてくれた。

 

 

 

 みんな棺の周りに集まった。棺は、君の好きだったV系バンドのグッズや、煙草や、想い出の品々でいっぱいになっていた。僕も棺のもとへ行こうとした。しかしどういうわけか足が前に出なかった。大きく息を吸い、それから時間をかけて吐いた。君の顔を見るには準備が必要だった。

 

 

 泣いてはいけない気がした。

 心を無にして、君に会おう。

 

 

 棺の周りで啜り泣く人々の間に入る。君の顔が見える。

 

 とても白く、そしてとても美しい。

 

しかし僕の知っている君ではなかった。いつもニヤニヤしていた君は、白い棺の中で静かに目を閉じて澄ましていた。僕は泣かなかった。

 

「こんなに集まってもらったねぇ、良かったねぇ」

 君の父親は腫れた目でそう君に語りかけていた。

「親バカかもしれんけど、こいつホンマに誇りの息子です、幸せ者の息子です、嬉しい嬉しいって言うてます、皆さんありがとうございます、触ってやってください」

 

 

 「髪の毛触ってやろうぜ」

幼馴染の一人が呟いた。

「絶対怒るやんあいつ」

 

僕は君が今にも「やめろって」と言いそうな気がしてならなかった。

 

 恐る恐る手を伸ばす。

 いつもニヤニヤと笑ってくれた、その白く美しい頰に、触れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不気味なほど冷たかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕は驚いて、すぐに手を引いた。

 そのまま2歩3歩後ずさりした。

 涙が溢れ出した。止まらなかった。

 

 

 まるで雪の中に忘れ去られた方解石のように、君は果てしなく透き通って、どこまでも冷たかった。

 

 

 いつも笑ってくれた君は、確かに目の前にいるけれど、もうこの世にはいないのだと、その時はっきりと悟った。

 

 

 本当に、本当に、行ってしまったのだ。

決して手の届かない、遠いところまで。

 

 

 僕達は、会えばいつだってあの頃のままだった。お互いを名前で呼び合い、オブラートに包むことなく言いたいことを言い合い、そして心の底から笑い合った。酒を飲み、バイトや仕事や試験の愚痴を言い合い、大声で歌を歌った。

下ネタで笑い合った。21歳の春まで。

 

 

 

 そんな君との日々は、もう永遠に訪れない。

 

 

 君は僕の入院のことを気にかけてくれたのに、僕は君の身体が弱い事を知らなかった。君は幼馴染の誰にも相談していなかった。やっぱり最後までカッコツケだった。

 

 

 

 

 サヨナラ。

 

 

 

 

 

 僕はもう一度君に触れた。

 明日から兵庫で入院するよ、移植してくるよ、生きて帰ってくるよ、と泣きながら心の中で呟いた。

 

 

君は今にも目を覚ましそうだった。

僕は、決してそんなことは起きないのだろうけど、それでも君が「大丈夫や」と言ってニヤニヤ笑ってくれる気がして、ずっと見つめ続けていた。

 

 

「大丈夫やぞ! しっかりしろ!」と言って欲しかった。「俺の分までお前は生きるんやぞ!」と叱って欲しかった。「泣くなんてみっともないぞ!」とニヤニヤ笑って欲しかった。

 

 

 

 

 

生きていて欲しかった。

 

 

 

 

 しかし、いつまで見つめても君は白く美しく、安らかに安らかに、気持ち良さそうに眠ったままだった。遺影だけがあの日のまま静かに微笑んでいた。

 

 

 そして君は今朝、僕の入院と同じくして、澄み渡る空のもと天高く昇って行ったのだった。病室から覗く五月晴れの中で君が笑っている気がして、僕はいつまでも空を眺めていた。

 

 

 

 

 

 

残された者たちへ

 

 

 

 

今年も高野川が薄紅に色付く。時折強い風に吹かれて桜吹雪が舞う。美しい、しかし人々はさもそれが当然であるかのように通り過ぎてゆく。見えているのだ、しかし見てはいない。マツダRX-8のロータリー・エンジンは不満げなアイドリングで低い回転数を維持しながら、やや混雑しはじめた川端通りをそろりそろりと北へ進んでいた。水彩絵具に水をたっぷり含ませたであろう空が彼方まで広がっていて、それはウイニング・ブルーの車体より幾分控えめでもあった。

 

 

 

昼下がりのラジオはDJが張り切ることもなく聴きやすいからだろうか、あるいは僕が昼食をちゃんと取ったからだろうか、それともカー・エアコンの温度設定が適切だからなのだろうか。いずれにせよ、とても心地良い。春という季節を今日この瞬間まで忘れていたのは僕の方だった。ボーズの純正オーディオを通して1994年の夏、オアシスのリヴ・フォーエヴァーが流れてくる。音楽というものはいつもそうだ。言葉にすることの出来ぬ想いを、あるいは僕の人生を、まるで全て見通したかのように響く。あるときは脳に、あるときは五臓六腑に。「貴方はここが痒いんでしょ掻いてあげますよ」と言わんばかりに、しかし図々しくも仰々しくもなく代弁してくれる。そういう言語である。

 

 

 

Maybe you’re the same as me

We see things they’ll never see

You and I  are gonna live forever

 

(多分アンタも俺と同じだ

奴らには見えない物を見てんだ

そして俺達は永遠に生きるんだ)

 

 

 

オッチャンを思い出す。僕は左手をハンドルから離して僅かにボリュームを上げる。

 

俺もアンタも永遠に生きるんだ、きっと。

オアシスは確かにそう歌っているし、僕の過去もアンタの過去も全て知っている。音楽は解釈の言語なのだ。

 

 

 

そして、そのポップなメロディは僕の切実な感情を、まるで技術士がデジタルノギスできちんと測定したかのように寸分の狂いもなく極めて正確に描写し、それゆえ僕を激しい後悔へといざなうのである。

 

 

せめてもの償いに、オッチャンの話をしよう。

昨夏病棟で出会った、車椅子のオッチャンの話である。

 

 

*****

 

 

彼は類稀に見るお喋りなオッチャンだった。もちろん重症患者である。しかしある場合には、忙しなく働く看護師さんにとって疎うべきお喋り患者でもあった。一般に気さくとみなされる範疇を両足で跨いで寄ってくる人間であり、親近感の生まれる程よい距離とは言いがたいまでに随分と内側に入ってくきては、罪悪感のない様子で屈託無く微笑んだ。そしてこれは特筆すべきことだが、彼は誰に対しても敬語を使ったのである。もちろん30歳以上年下の僕に対してもそうであったし、物理的にはもっともっと低くあった。なぜなら彼は車椅子から立つことが出来なかったからだ。

 

 

 

 

 

「勉強ですか?」

 

血液内科の病棟の食堂で声をかけてきたのは彼の方だった。ある夏の日のことである。僕は面喰らった。集中して机に向かう面識の無い人間に後ろから話しかける、そんな芸ができる人などそういないからである。仮にいたとしよう、それが常識を兼ね備えた人間であることは微塵も期待できない。この人間は僕の勉強の邪魔をしてまでも僕のことを知りたいのだろうか、それともただ構ってほしいのだけなのだろうか、そんな疑問も彼の微笑みの前では無力であった。僕は仕方なく操り人形みたいにぎこちない相槌を打ち続けた。それが出会いである。

 

 

 

冷たい人間だと思う人もいるだろう、いや僕だって普段は他人にそんな態度を取らない。とはいえその当時はレポートを数十枚書き上げなければならなかったし、期末試験も3つ残していた。とてもじゃないが相手にする余裕はなかったのだ。申し訳ないと思う。話半分に聴きながら僕はずっと机の方を向いていた。彼は口を開くと1時間は閉じなかった。

 

 

そういうわけで第一印象はあまりよくなかった。この場合は逆についても同じことが言えるだろう、つまり彼にとっての僕の印象も悪かったはずだ(もはや確かめようもないが)。

 

 

 

僕とオッチャンが打ち解けるまでには、数週間かかった。

どうして打ち解けたのかはよくわからない。彼は確かにお喋りだったし、彼にとってみれば僕は無口であった。まるでN極とS極が相容れることのないように、反発し合う磁界の関係にあった。

 

 

 

ただマクロではそうであっても、ミクロではお互い何かに惹かれていた。どういうわけか、これは確信を持って言えることなのである。電磁気力が「強い力」の前ではほとんど無視されるように、僕らの間には孤独と呼ばれるグルーオンが存在し、電気的な斥力をものともしなかったのだ。少なくとも僕はそう解釈することにしている。孤独を埋め合わせるためには、同じ種類の孤独が必要なのだ、と。

 

 

 

 病を共に生きようとする人間の間にしか生まれない絆の類のものが、そうして緩やかに存在しはじめた。オッチャンはよく僕の病室に来て居座った。そして8月も終わろうとする頃には、僕とオッチャンは同じ病室になり、1日の多くを共に過ごすようになっていた。とはいえ、やはり饒舌な彼の前に為すすべはなく、僕はいつも聞き手に回ったのだった。

 

 

 

 

 

薬剤の影響であろう、髪はもう生えそうになかった。白いスキンヘッドは眼鏡を際立たせ、彼のキャラクターをより一層濃いものにしていた。ありとあらゆる話を、半ば自己に言い聞かせるようにして話してくれた。生い立ちのこと、病のこと、家庭のこと。やはりそのどれもが長いものだった。冗長と言えば失礼かもしれないが、事実よく脱線したし、それは自他共に認めていた。卒業式か何かでスピーチをさせたら5人は死人を出すだろう。もう少し纏めて話すことが出来たのかもしれない。しかしながら、それが彼なりの語り方であり、彼が愛される所以でもあった。「いつも長々とお相手していただいてすみませんね、こんな人ですから」。奥さんはいつもそう微笑んだ。

 

 

 

 

多くの病を抱え、多くの介助を必要とした。それら全てが彼を苦しめていた。悔しいかな、その点ばかりは分かち合えなかった。「もうしんどいんですわ」、彼はよく僕にそう漏らしたのである。そして本当にしんどい日はやはり無口であった。立て板を流れる水は細り、ポツリポツリと哀しげに溢れた。

 

 

 

「京大生ですか、それは素晴らしいですね」、彼はいつも僕のことをそうやって褒めてくれた。透き通った眼差しであったことが僕は嬉しかった。毎度のように持ち上げてくれるので、もしや認知症ではないかと疑ったこともあった(しかしそんなことは微塵もなかった、なぜなら彼は僕が話したことをまるで目を盗んでノートブックに書き入れているのかと思うほどに、事細かに記憶していたのだ)。

 

 

 

 京大の総長カレーを買ってきてください、レトルトのやつを、そんな頼みをされたこともあった。勿論僕は快く引き受けた。クリーン管理された人間にとって、レトルト食品と冷凍食品はご馳走なのである。その当時僕は大学と病院を往復する生活をしていた。生協に行ってお徳用5個パックをレジに置くと、店員は僕のことを物珍しそうな顔で見つめた。買って帰るとオッチャンはとても上機嫌だった。奥さんに見せびらかしていた。

 

 

 

 

マツダの車について語り合った夜もあった。その頃僕たちはまるで兄弟みたいになっていた。往年のロータリー・エンジンの咆哮の美しさ(それは「天使の絶叫」と呼ばれている)について、意見が一致した。それから最近のデザインコンセプトについても称えあった。僕は彼と同じぐらい多く話したし、それを彼はとても喜んでくれていたと思う。マツダ・ロードスターの話なんか食い入るように聞いてくれた。というのも彼は身体障害者であって、車椅子を助手席に乗せ、かつ手のみで脚を使わず運転できる、そんなオープン・スポーツカーのことを知って感動していたのだ。車両価格に30万円ほど足すだけでいいらしいですよ、と勧めると車椅子から転げ落ちそうになっていた。買いますわ買いますわと微笑んでいた。

 

 

 

 


ところが10月に入り、オッチャンは突然喋らなくなった。そのとき僕は移植のために特別な個室に移っていて、1日のうち数時間ばかり廊下に出ることを許され、オッチャンを探した。しかしオッチャンは廊下で看護師さんに話しかけてもいなかったし、食堂で他の患者さんと話し込んでいるようなこともなかった。たまに車椅子で検査に向かう様子を見かけたが、彼に声をかけても手を挙げるばかりであった。

 

 

 

11月、僕は退院した。

オッチャンの姿はどこかの病室へ消えて、もう姿を見ることはなかった。

もちろん、僕にもそういう時期はあったし、体調が悪くて病室から出られないというのは、どの患者にもよくあることだった。

 

 

そうして長い冬が訪れた。

春はいつまでも息を潜めているのだった。

 

 

 

*****

 

 

 

T氏と会ったのは3月の末、病院近くのからふね屋である。T氏も同じ病棟で過ごした患者仲間だ。オッチャンよりは少し年上で、身長は僕よりずっと高い。患者仲間とはよくご飯に行くのだ、そこでは大抵奢られることになる。(だから行くなんてことはない、僕にはそこでしか話せない想いがあるのだ。)T氏と僕とオッチャンの3人は仲が良く、入院当時いつも一緒に過ごしていた。阪神が負けるとみんな機嫌が悪かった。

 

 

 その日は僕もT氏も診察があった。会計を終えてから、一緒に昼食を取ろうということになっていたのだ。僕はどう考えてもブロッコリーが蛇足としか思えないカルボナーラをぐるぐると巻きながら彼の話を聞き、適当なところで相槌を打った。最近どう、まぁぼちぼちです、えらい黒いやんどうしたん、これは元からです。

 

 

「あぁ、そうだ」

 

まるでたった今思い出したかのような口調であったが、そうではないことを僕は瞬時に見抜いた。T氏は僕のカルボナーラを見つめながら、それをいつ言い出そうか迷っていたらしかった。

 

 

 

「オッチャン、死んだよ」

 

 

彼はそう言うとタレのこびり付いたカツを摘み、僕の顔を見て、食べるのをやめた。僕はそれほど哀しい顔をしていたようだった。

 

 

 「すまんな、言わん方が良かったな」

箸を置いてから彼は絞るように呟いた。

僕は首を振った。

「いや、教えてくださってありがとうございます。知らない方が楽ですが知っておくべきです」

 

お互い、言葉はそれ以上続かなかった。昼下がりのテーブルの上は重たい沈黙で曇っていた。

 

 

 やがて沈黙の雲から雨が降り始めた。どうしても堪えられなかった。知らない方が良かったのかもしれない。もう二度と勉強の邪魔をされることもないし、もう二度とロータリー・エンジンについて語ることもできない。最下位の阪神にヤジを飛ばし合うこともない。

 

 

死んだんだから。

 

 次々と蘇ってきた記憶を振り払おうとして、僕は冷めてしまったカルボナーラをひたすら巻き続けた。

 

 

 

 同じ病を持ち、同じ時間を共有した。

 僕達は健常者には決して見えない世界を見ていたし、その世界を生きていた。僕達の中だけでしか通じない言語があった。

 

 戦友を失った。

 

 

 

「生き残ったんだよ、俺たちはさ」

長い沈黙のあと、T氏はおもむろにそう呟いた。

「残された者には残された者の責任がある、とにかく生きることだよ」

 

 

僕は溢れてくる涙を落とさないようにしながらブロッコリーを纏めて口に押し込んだ。

 

 

 

 そう、これは死ぬ病だ。いくつもの尊い命が犠牲になってきた病だ。僕達はそれを生き抜けねばならない。生き延びねばならない。 

 

 

リヴ・フォーエヴァー。

決して叶わないのだ。

それでも叫ぶ、生きたい、生きたい、生きたい...

 

 

*****

 

 

信号が赤に変わる。

 

停止線を少し越え、マツダRX-8はゆっくりと停まる。窓を開けると春の匂いがする。高野川はゆらゆらと流れる。

 

残されてしまったのだ。

そしていつの日か、僕もまた誰かを、大切な誰かを残して去ってしまうのだ。

 

カウント・ダウンはもう始まっているし、止められそうもない。

 

 それでも、鼓動の続く限り。

“残された者には残された者の責任がある、とにかく生きることだよ”

 

 

CMが始まったラジオを切って、僕はシフト・レバーをニュートラルに押し込む。それからアクセルを2度3度、力任せに思い切り煽った。

 

 とんでもないエキゾースト・ノートだ。

 

 迷惑だろうか、いや少しくらい構わないだろう。遠慮すればオッチャンの空まで届かないのだ。五月蠅いくらいが丁度いい。ロータリー・エンジンはレブリミット寸前でようやく機嫌を取り戻し、高らかな咆哮を高野川に響かせる。

 

叫んでいる、天使が叫んでいるのだ。

まるで残された者たちの哀しみを代弁するかのように。

 

 

 余韻は彼方へ木霊し、風に散る桜はひらりひらりと舞っていた。街行く人はみんな彼が居なくなったことを知らない。もちろん春が知る由もない。

 

 

 

 

ライス or ナン?

 

小さくクシャミをする。この世の全てが寝静まる冬の早暁、空はほんのり青い、微かに粉雪が舞う。

 

 缶コーヒー片手に震えるようにして吐く息は白い。溜息をついても美しいのは皮肉なものである。掌に降り落ちた雪を包むと、間も無くほどけて肌の一部になった。まるで冷たく降り注いだ哀しみだ。この哀しみは、自身の体温を犠牲にすることでしか溶かせないのだ。罪悪かもしれないし、不徳かもしれない。失態、鬱屈、堕落、あるいは病と死。何もかもだ。ただ、すぐに溶けてくれない、その点雪と異なる。長く掌の上に居座られてしまう。無色透明になって吸収されるまで、少し時間が必要になる。

 

 

 車に向かう。フロントウインドウが凍っているのを見て、しまった、と思う。前が見えないとお先真っ暗です。「 お湯かける?」と母親が出てくる。それは絶対ダメ。温度差に弱いよね、ガラスと人間関係。

 

 

 エアコンとデフロスターを最大にして、スマホで時間を見る。遅れるかもしれない、大学アドレスにメールが一件届いている。

「卒論発表、朝早いですけど無理せず聴講してください、体調には気を付けてくださいね」、S准教授はいつも優しい。ほどなくして氷は溶けた。前が見える。

 

 

 朝の9号線を西に走りながら、生きることについて考えていた。そのうち、いくつかの断片的な思考が反対車線の前方からやってきて、僕の車をかすめながら後ろの方へ消えていった。追えば良かったかもしれないが、僕は今時間ギリギリで桂キャンパスに向かっているのだ、と思い引き止めなかった。

 

 

  何を考えていたのだろう。

 あまり覚えていない。この先10年の生き方について考えていたかもしれない。幼い頃、クレヨンで描いた ”将来” と呼ばれる時間が刻々と形になる、それも「クレヨンのデッサンで止まったまま」形になろうとする不安が、僕をそうさせたのだ。とはいえ僕の人生があと10年くらいだろうという見積りはかなり前からあった。余命10年。聞いたことないだろう、なぜならそんなこと医者は言わないからだ。じゃあ、あなたの余命は50年?

 

 

 10年の内訳はざっくりこうだ。

 研究室3年  /  社会人7年

そういう意味での研究室配属は、僕にとって特別な意味があった。卒論聴講の日の午後は研究室訪問の初日で、その日からの3日間だけで6つの研究室を訪問した。

 

 研究室の配属は、ほとんど成績順ではない。ほとんど、というのは各研究室に1人だけ成績枠があるからだ。僕の成績は下から数えた方が早いから、勝ち目はない。そういう残りの人間は、希望者が枠を超えた時点で即席のあみだくじが用意され、これで実質的に3年間が決まる。平等を取れば公平は死ぬのだ。

 

 

 

 誰しも人生を持っているが、それぞれの人生は一通りにしか歩めない。択一の連続だ。能動的な択一もあれば受動的な択一もあるだろう。結果はひとつに絞られる。人生における転機は、だいたい後者だ。受け入れざるを得ないという経験が、人間を強くする。

 

 

 

 ところで、理想的な選択は存在するのだろうか。正しい選択肢が何であるかを知らぬまま僕達は一つを選ばねばならない。「挑戦者、思い切ってAへ走って行った! しかし不正解! 池へダ〜イブ!!」そんな単純明快さを求めても仕方ない。実際のところAの先にもBの先にも池はないのだ。あるのは広大な砂漠。AとB、出る方角が違うだけ。どの道なら生きていけるだろうか、誰も教えてはくれない。全て自己責任の選択だ。そして選択のたび僕達は何かを捨てなければならないのである。ライス or ナン、ドッチニシマスカ?

 

 

 

 20代、誰しもが葛藤の中をもがきながら生きていて、これまで歩んできた履歴の上に誤字脱字を見つけては修正液の使えぬことを知る。致し方なく二重線を引いて訂正印を押す。「私は人生のここの部分でこう選択すべきはずのところをこういう風に間違えましたよ」と示さなければならない。なぜなら「一般解」が存在するからだ。学校にきちんと行くこと。無病息災であること。勤労の義務を果たすこと。挙げればきりがない。そんなとき色んなものが邪魔をするのだ。プライド、金、偏見、恐怖。ところで履歴書を見るのは一体どこの誰なのだろう? 書類を美辞麗句で埋めるべく僕達は生きているのだろうか?

 

 

 人生にはある種の休憩時間と休憩所が必要なのだろうと思っている。ところが、社会は休息に理由を求めようとする。なんで会社休むの?なんで留年したの? 「休学には学科長の承認が必要です」。

 

 

 先日、首の皮一枚で進級した。留年したら何をしようかと悩んでいた。事務にまで相談に行き、宥められた。

 

 ただ最近になって、はたと気付かされたのは、僕自身は有給を消化しきれない側の人間であるということだ。休みの取り方を知らない。とはいえ毎日100%であるわけもない。3割5分の力で365日休まず、ダラダラと過ごしている。ナンが良かったのかな、ライスにしたら後悔してたかな、と生産性のないことを永遠と考えている。インフォームドがいくらあったって、コンセントは択一だ。

 

 

 

“わたしがインフォームできるのはこれが全てです。コンセントは委ねます。ライス or ナン、ドッチニシマスカ?”

 

 

 

 

*****

 

 

 元旦から数えて5日目と45日目の朝刊、京都新聞の第一面に掲載していただいた。本ブログと闘病記については何度も読み込んでいただき、取材も丁寧にしていただいたこともあって、少し恥ずかしくもありながら良い記事に仕上げてもらった。ありがたい経験だった。

 

 前者は後日デジタル化され、Yahoo!ニュースになった。

 

「がんになってよかった」のタイトル。コメント欄が荒れるのは無理もなかった。

 

 [癌になって良いはずがないだろう][強がりだ][それは生きているから言えることだ][私の母は死にました][癌になって良かったですね]

 

 考えぬ葦の戯言だ、お前もいつか死ぬぞ、と思いながらひとつひとつスクリーンショットを撮った。数週間後、Yahoo! の記事は消えた。

 

 

  悶々としていた。僕はナンを食べてナンのレビューをしただけだ。何が悪い?  カレーはライスで食べるものだ、手で食う奴は汚い、そう言いたいのだろうか? 「逸脱したもの」を排他する風潮、きっと彼らは自分の信じるレールが常に正しいと思い込んで言うのだろう。「留年は怠惰」「離職は甘え」「病気は悪」、じゃあお前は一体何者なんだ? 何に挑戦したんだ? ずっとライスばかり食いやがって。ナンの味知らねぇだろ。難の味。ナンセンス。

 

 

入院中に仲良くなった白血病患者仲間からメッセージが届いていた。彼はひとつ年上で、名古屋大学の工学部だった。

「明日一時退院して、卒論発表やってきます」

凄まじい精神力だと思った。

 

そしてそれは、僕にとっての後押しになった。もう一度、そういう時期が訪れるのだ。予言ではなく、現実として。

 

 

 

“つまりあなたは今、血液がドナー/レシピエントのキメリズムを呈し、一年以内に再発する可能性が極めて高いわけです。わたしがインフォームできるのはこれが全てです。コンセントは委ねます。ライス or ナン、ドッチニシマスカ?”

 

 

 

 高揚と不安、期待と恐れ、感情の入り混じったサラダボウルをぐるぐると掻き混ぜては何の生産性もない事を思う。ライスを選ぶことだって可能だ。しかし1年以内に死ぬ。間違いなく死ぬ。

 

 

 

研究室訪問のひとコマを思い出す。

「君、教授の前やし、さすがに帽子はとろうか」

「すみません、被っててもいいですか」

「どうして?」

「すみません」

 

病だけはいつまでも執拗に付きまとうのだ。それでも僕は「癌になって良かった」と言い続けられるのだろうか、分からない。指摘は正しかったのかもしれない。死を前にすればどんな言葉も無力だ。僕自身がいちばんそれを知っている。

 

 

 

 院試、研究、バイト、就活、病、生。何かを取るのであれば何かを捨てなければならない。人生は択一の連続、答えは誰も教えてくれない。

 

 

 

「大学院入試? そんなものは聞きたくないです。私はあなたの命のことだけを考えます。私の使命は京大病院に、そして親御さんの元にあなたを生きて返すこと、ただそれだけです」

 

 

この人なら大丈夫だ。

何か僕にそう強く思わせる光を感じた。

直感を信じて踏み出す。

 

 

 

まもなく春になる。

平成の終わり、勝負の年が訪れようとしている。