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ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

3.12

 

 鋭く尖っていた風が柔らかくなった。刺すような冷たさが包み込むような暖かさに変わった。霞みがかった薄青の陽気には、生命を躍動させる力がある。両手を広げて道の真ん中で寝そべってやりたい。

 

 癌が見つかったのは昨年の初冬だった。また冬が嫌いになってしまった。小さい頃は白銀に輝いていたものが、今となってはどうも光沢のない灰白色にしか映らない。もう風の子ではなくなったのだろうか。

 

 

 夏の終わりが郷愁だとすれば、冬の終わりは希望に等しい。春が待ち遠しくて待ち遠しくて、だからついに訪れたこの暖かさにずっと守られていたい気がする。

 

 張り詰めた空気がようやく弛緩したのは、去年も同じだった。先日高校に行ったとき、合格報告に来た生徒が先生と抱き合って泣いているのを見て、少し懐かしく感じた。青春。極度の緊張が一気に解放されると、人間泣いてしまうようだ。

 

 あのとき大学に受かっていなかったら、今年も受けられなかっただろうなぁ、なんて思う。

 

 職員室に行って元担任の先生とひとしきり話をしたあと、僕の大好きだった国語の先生にもお会いした。

 

 治療や手術について話をした。先生は黙って聞いたあと、何かを話し始めた。先生の話は含蓄があって高校生の頃からずっと好きで、だからその口からどんな言葉が出てくるのか楽しみだった。にもかかわらず「何か」と書いたのは、最初の方の言葉を後から来た言葉が掻っ攫っていったからである。

 

ふと、先生はこう呟いたのだった。あまりにも唐突だった。

 

「私は明日死ぬかもしれない。」 

 

 唐突、というのは語弊があるかもしれない。僕はその前後の話を右から左に聞いていたつもりはなくて、その一言のインパクトが大きすぎたのか、もしかすると両方なのかもしれないが、とにかくその一言が耳にこびりついた。

 

「誰だってそうじゃないですか、極論を言うとね。だからいつ死んでもいいと思って生きてる。」

 

 

 明日死ぬかもしれないと感じて生きている人間がこの世にどれくらいいるだろうか。

 

 

 2万人近い人々が今日を迎えられなかったあの出来事から、ちょうど6年が経った。明日が来ることを信じて疑わなかった2万の命が失われた。2万。20000。あの日、人の背丈を優に超える津波から逃げる人々の姿を、僕はテレビの中の出来事として捉えるので精一杯だった。

 

 

 

 自分は19年間、明日という日が来ることを無意識に信じて疑わなかったし、今日が来たことを確認さえもしなかった。そして事実、19年間ずっと今日という日が訪れ続けた。だから明日が来ないかもしれないということは、そして今日が来なかったかもしれないということは、もはや文字の上でさえ理解することができない。リアリティの欠片もない。

 

 

 

 人生とは皮肉なもので、失ってからしか理解することのできない尊さが数多くある。自分にはやはり家族がいて、父も母も弟も、また明日同じように食卓を囲む。あるいは友人がいて、先輩や後輩がいて、たとえそれが遠く離れていたとしても、また会う日を信じて疑いはしない。小中高の先生でも、親族や近所の人であってもそう。

 

 

 しかしそれは単なる妄想にすぎない。吹けば飛ぶような幻。万人に等しく明日が訪れることは決してない。

 

 

 「私は明日死ぬかもしれない。」

 

 

 あれは戦慄でも畏怖でも何でもなかった。口で言うのは容易いけれど、でもあの先生は普段からそういう風に生きておられるのだろう。自分もそういう生き方がしたい。

 

 

 

 大抵の人は、死にたくない時に死ぬ。あの日亡くなった2万人のうち、死にたくなかった人はどれだけいたのだろう。当たり前の日常なんて幻でしかない。

 

 

 いつ死んでもいいなんて境地には、自分はおそらく立つことはできない。けれども、今日できることを今日やって、当たり前でない「当たり前」にひとつでも多く気づくことくらいなら出来そうな気がする。失ってから気付かされるような人生は御免だ。

 

 

明日が来なかったとして、後悔するような今日を過ごしたくはない。

今日が最後になるかもしれないとして、それでいいのかと問い続けていたい。

 

 

 

 今朝、起きるといつも通り今日が来ていた。当たり前ではない "いつも通り"。

 外に出てみると少し肌寒かったけれど、冬ではなく間違いなく春だった。春の匂いがしていた。ふと、肺を切ると言われたのを思い出して、この空気を今のうちに胸いっぱい吸い込んでおかなければいけない気がした。それさえも当たり前ではなくなるから。手術まであと9日しかない。手を伸ばして大きく深呼吸をすると、春の空は青く青く澄んでいた。今日が訪れたことに感謝しよう、そして春が訪れたことにも感謝しよう、そう思った。

 

あの日、今日が来なかった人のためにも。

 

 

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戦場の食

 

 泣きながら食う白米は格別の味がした。

 人生の味。

 

 何も分かっていなかった。分かろうとしなかった。逃げていた。

 

 漠然と広がる荒野に音も立てずに吹き付ける乾いたそよ風。悲劇でもなければ喜劇でもない、戦慄が走るわけでもなければ安らぎを得たわけでもない。ただぶらりと垂れ下がったまま、しかし少しばかり揺さぶるとはらはらと落ちる、美しく色づいた枯葉。そんなひとひらの雫。

  

 平常心。人前ではあまり泣かない。もう泣けなくなったのかもしれない。感情を大っぴらに表現するのは難しい。昔は馬鹿みたいに笑って馬鹿みたいに泣いた。あの頃の方がむしろ馬鹿じゃなかったのかもしれない。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び。でも我慢強く溜め込んだ堰堤はいずれ根元から決壊するから。大きく音を立てて崩れ去るから。貯水が尽きて枯れるよりマシかもしれないけれどね。放流、放流。

 

 1日だけ人間をやめてみたくなった。1日だけ。考えることが嫌になったから。あの頃、自分の心の中には何らかの淀みがあった。言葉にさえ出来ずに渦巻き留まる濁水。泥水。底無し沼。息ができない。もがくほどに埋もれいく。蝕まれていく。助けは来ない。

 

 疲れていたのかもしれない。いや、疲れていた。あの夜、困憊した脳が何をしたかったのかは本当に知るよしもないけれど、そう、鮮明に自分自身が死ぬ夢を見た。死ぬ瞬間というより、もう既に、そしてはっきりと横たわっていた。はっとして起きたら暗がりの病室で生きていた。胸に手を当てたらまだ動いていた。どうして。

 

 死ぬ夢なんて誰しも見たことがあるだろうし自分も初めてのことではない。大抵の場合は夢の中で死んだ自分を客観的に眺める自分がいる。主観的に死を想像できるほどの頭を持ち合わせてはいないから、必然的にそうなるのだろう。ただ、あんなに現実味を帯びた夢は生まれてこの方見たことがなかった。俺は死んでいた。そして冷たくなった自分を見つめている自分がいた。ねぇどうして死んでいるの?

 

 

 生きているということと、死ぬということ。その両者間には人間の想像力なんかではどうこうすることのできない不動の厚い壁があって、相容れることなく反発する両極端のイメージに身体が張り裂けそうになる。

 

 

 

 

 

 

 「なぁ、こんなこと聞いていいんか分からんけど、もし、本当に死ぬことになったら、どうする?」

 

こんなことを聞かれたことがあった。一度だけ。奴は相も変わらずそういう奴だった。お見舞いに来てもらったのに一発お見舞いされた。正直言うと痛かった。ノックアウト。もちろん答えられなかった。

 

 

 あの一言がまだ引っかかっている。とっくに取れたと思っていたのに、何だか違和感が残っている。魚の小骨が口の中に突き刺さっている。

 

 

 本当に死ぬことになったら、俺はどうするのだろうか。

 

 反芻の果てに飲み込むことさえできず、吐き出しそうになる問いに悶え苦しんで、そうして気が付いたら寝ていて朝が来ている。あれ以来、そんな日が幾夜かあった。

 

 

 

 自分は今まで、若者が誰しもそうであるように、死という概念とは交錯しない次元に生きてきた。

 

 それが唐突にも、自身の直線上に死の存在を知らされて生きることになった。

 

 しかしそれは死ぬことを決定づけられた訳ではなかった。紙一重で異なる次元にいた。自分には、まだ生きる希望がそこら中に広がっている。

 

 近々死ぬことがわかって生きるということは、今の自分の生き方とはまた別次元なものなのだ。

 

 本当に死ぬことになったら、どうするのだろうか。

 

 身辺の整理、自身の余命。そんなものを宣告されぬうちから人生の終わり方を考えたくはなかった。終わりを考えることは即ち終わりに向かうことだと思っていた。死ぬことを考えることは生きることから逃げることのような気がしていた。

 

 

 

 

 

 

 そんなある日、同じ病室のおじいちゃんに話しかけられた。「あんた、学生さんか?」と聞かれ頷くと、嬉しそうに「ほらええこっちゃ」と頰に皺を寄せて笑った。

 

 彼は御歳88歳。溌剌とした老人で、ボケなんて言葉からも程遠いところに生きているように見えた。かつては三菱重工でロケット部品を管理していたというから、なかなかのツワモノだ。ただ、現在の病状の方を尋ねると、少し苦笑いしていた。膀胱癌が身体中に転移しているそうだ。そういえば、夜はしばしば辛そうな呻き声をあげている。

 

 

 あの日は戦時中の話をしてくれた。晴れ渡る冬空の陽は、少しばかり傾きかけていた。ろくに勉強もできず、ただ国家の言われるがままに動いた、そんな時代の話だった。

 

 

 

 

 当時、彼はまだ学生だった。学校は1限しかなかったそうだ。そうして短い授業が終わると、軍の工場に向かう。そんな生活を続けて、卒業後はそのまま三菱重工に入り、戦車を作り続けたという。

 

「本当は航空隊に志願したんじゃけどな、ひっぱたかれて辞めさせられてしもうた。でもあのまま続けとったらな、ワシは特攻に行ってこの世にはとっくにおらんのや。同期はみな死んだ。不思議なもんやのぉ。」

 

 彼は窓の外から淡く差し込む光に目を細めながらそう言った。自分は黙って頷いた。もう70年も前の話になるのだ。

 

 

 「けどワシはのぉ、癌も転移しとるしもう助からんかもしれん。相続のことも色々考えなあかんけん、えらいこっちゃで。」

 

 彼は身辺整理も視野に入れて生きている。その生き方は、自分の生き方とは紙一重のようで、全く異なる生き方なのだ。生に向かう生と、死に向かう生。

 

 

 しかし彼は慌てふためく素ぶりなど少しも見せず、ただ静かに笑って自分の生涯と老いに向き合っていた。定めを受け入れんとせんその姿は、まさに戦争を強く強く生き抜いた日本男児そのものであった。

 

「ワシがあんたと同じ年の頃はな、自分で考えて行動するいうことができよらんかった。思想も物も何でも統制。今や見てみな、やりたい思たら何でもできよる。無限の可能性がある。それが学生や。生きたいように生きなさい。」

 

 

 生きたいように生きる。それが叶う時代、叶う国に生きている。そのことを噛みしめなければならない。はっとした。

 

 

 もし、本当に死ぬことになったら。

 俺はそれでも最期の一瞬まで、生きたいように生きて死にたい。着実に、焦ることなく、もがくことなく、淡く光る過去の余韻に浸りながら今という瞬間を噛みしめていたい。彼がそうであるように。微塵の後悔もない生であり、そして死でありたい。

 

 

 それから何より、今この次元においても、常にそういう生き方をしていたい。死に向かうかのごとく生に向かいながら、力強く生きていたい。

 

 そういえば、高校時代の恩師に頂いた三島由紀夫の「葉隠入門」には、かの「武士道とは死ぬことと見つけたり」に続く有名な一文があった。

 

毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課すべき也。

 

 三島によると、常に死ぬ覚悟であることが、詰まる所、人生を全うできるということである。今ようやくこの一文が腑に落ちた気がした。若きサムライたれ。

 

 

 

 

 

 夜中こうして書いている間にも、隣からは微かな呻きと腰をさする音が聞こえてくる。彼にとっては、ここは第二の戦場なのかもしれない。いや、自分にとってもここは戦場だ。個々、静かな戦いが、日々繰り返し行われている。生命のやりとりがある。病院とは、戦場である。しかし皆それぞれの境遇を背負いながら、死と向かい、強く逞しく生きている。生の尊さと死の儚さを実感し、そうして今この一瞬を噛みしめて生きている。美しい。

 

 

 

 あの日、最後に彼はこう言っていた。

 

「飯さえの、死ぬまで食えたら、そらもう御の字じゃわ」

 

 米など手に入らなかった時代。少ない配給。栄養失調。ヤミ市。友を失い、家族を失い、家を失い。そんな時代を生き抜いたであろう彼の口から出た言葉である。そうして戦後、相模原の戦車が種子島のロケットに変遷しゆく時代を生き抜いた人の言葉である。いま目の前に食があり、ここに豊かに生きているということ、まずその境遇に感謝せねばならない。

 

 「ワシの役目は終わったけんの、あんたらが日本の未来を作らんと。」

 

 

 彼には "日本男児たれ、若きサムライたれ" と教えられたような気がした。

 

 だから僕は、この白米一粒一粒に戦場の恵みを感じて、涙せざるを得なかった。時代は違えど、それはもう、身体中に沁み渡る戦場の食だった。

 

 

 

 

 格別の、人生の味がした。

 

 

 

 

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転生

 「人生が変わった日」なんて、そんな壮大なもの数えるほどもないけれど、そのうちの1日は間違いなくあの日だと思っている。世の中に"絶対"なんてない、とはよく言われるが、あの日のことだけは生涯、絶対に忘れはしない。絶対に。

 

 去る2016年11月24日。紹介状を持って京大病院に行き、案内されるがままに、少しばかり検査をした。しばらくすると部屋に案内された。ドラマで見るようなあの感じで、白衣を纏った医師がいた。パソコンで検査画像をいくつか見せられ、よく分からない病名を告げられた。なんとか腫瘍と言うからには、要は癌なんだろう、と思った。自分でも意外なほどに驚かなかった。驚けなかった。あたふたするのは嫌いだ。人前ではいつでも冷静でいたがるプライドが、それを許さなかった。

 

 自覚症状は皆無だった。何だ、運のいい早期発見じゃあないか。良かった良かった。現代の医療は進化してるからさ、しかも京大病院だろ?大学は休むことになるかもしれないけど、何とかなるさ。

 

 これも一種の強がり。

 

 癌の可能性があるのは分かっていた。10月末に肺炎になった際に撮ったCTで、肺の近くに大きな影があったこと。そのときの主治医に京大病院を紹介されたこと。この2つの要素から察するに癌だろうなぁという予想はしていた。これも驚かなかった要因のひとつ。

 

 かと言っても、現実を突きつけられたのはやはり悲しかった。

病院を出て、母親と黙って昼飯を食った。正確には、母が黙っていたので自分も黙っていた。出てきたオムライスは、かなり美味しそうな見た目とは裏腹に、味がしなかった。味はしなかったけれど、何か言わないといけないような気もして「美味しい」とだけ言っておいた。「でも見つかって良かった。」と、母はただそれだけ呟いて、また黙った。

 

 その日は午後から大学に行った。朝から大学内にはいたが、病院が大学内だというのはあまりに実感が湧かないから、そういう表現の方がむしろ正しい。目と鼻の先なのに、というか病室から見えているのに、環境が全く違うのだ。そこには何ら変わらぬ日常があった。僕は患者ではなくただの学生だった。あそこに行くと、いつでも患者をやめられるから、今でもレポートは自分で出しに行っている。歩いて200m。

 

 その日は3,4,5限を終えて、少し俯きがちに自転車を漕いで帰宅し、夕飯を食べて風呂に入った。

 

 湯船にぼーっと浸かった。何かを確かめたかった。風呂から出て、ふと、自分の病名を検索したい衝動に駆られた。

 

 髪の毛が湿ったまま、まだ少し濡れた手でスマホを充電コードから引きちぎり、ロックを開けてブラウザを開く。

 

 検索ボックスに自分の病名を打ったところまでは良かった。それはすぐにできた、本当に簡単なことだった。

[縦隔原発胚細胞腫瘍 非セミノーマ]

予測変換でスラスラと出てくる。

 

問題はそれからだった。検索ボタンを押すことに躊躇いが生じる。恐怖心にも似た好奇心か、それとも好奇心のような恐怖心か。

 

葛藤というか悶絶というか、その末に検索ボタンに手をかけた。

 

サッと画面が切り替わる。

スマホの小さなスクリーンに、所狭しと検索結果が並ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

胚細胞腫瘍(縦隔原発

5年生存率 40〜50%

縦隔原発胚細胞腫瘍は予後不良 (poor prognosis)な疾患とされており.......

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

違う、そんなはずはない。

 

 

 

 

 

別のサイトに飛んだ。

 

 

 

 

 

ふと、ひと昔前の臨床データが目に止まった。

 

 

 

f:id:GUCCHi:20161224215646j:image

                症例

       非 seminoma 型

 

  1.     48    女    1年後死

  2.     46    男    1年後死

  3.     36    男    4ヶ月後死

  4.     44    男    5ヶ月後死

  5.     28    男    6ヶ月後死

  6.     18    男    1年後死

  7.     26    男    5ヶ月後死

  8.     26    男    2ヶ月後死

  9.     42    男   11ヶ月後死

10.     68    男    8ヶ月後死

11.     22    男    3ヶ月後死

12.     25    男    6ヶ月後死

13.     31    男    観察中3ヶ月生

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何かが、言葉では決して表現することのできない途轍もない何かが、自分の身体の真上から落ちてきた。

 

 

 

 

 

 膝から崩れ落ちたのは初めてだった。

床にスマホを落とした。

意味がわからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

死ぬのか?

俺が?

 1年足らずで?

 

 

 

 

 

 

 

何ひとつ、本当に何ひとつ理解できなかった。

 

死ぬのが怖いとか、悔しいとか悲しいとか、そんな形のある感情ではなくて、ただ呆然と、ただただ呆然としていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 死ぬのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰に訴えることもできない。誰も悪くない。

しかし確かにそれは事実だった。

 

 

 

 

あの日を境に、僕の人生は変わった。間違いなく変わった。絶対に。

正確には、考え方というか生き方というか価値観というか、そういう類のものが何ひとつ残らずして変わった。

 

「死」を恐れた。そして「生」の重みを知った。

「生」の重みを知ったことによって、「生きること」の素晴らしさを感じた。

「生きること」の、その素晴らしさを感じて、もはや「死」を恐れることはなくなった。

 

 論理が飛躍していると思うのなら仕方がない。しかしこれ以上の言葉で説明することはできないし、出来たとしても理解してもらえないかもしれない。ただ本当に、本当にそうなる。そうなる時はいずれ来る。誰しも。急逝を除けば。

 

 数週間後に個室で主治医から検索した通りのことを告げられたときは、もう怖くもなんともなかった。紙に生存率40%と書かれたときには、笑って頷いてやった。強がっていたわけではなく、希望のようなものを感じていた。

 

 

f:id:GUCCHi:20161231120449j:image

 

ひと昔前はほとんど治らなかった。今は半数もの人が生存できる。そこに絶望する意義は全くない。

 

 

 

 ただし、「死」を恐れないということは決して「死」を侮ることではない。

 

 むしろ「死」の絶対性、すなわち「生きとし生けるものはいずれ必ず死ぬ」という摂理の偉大さに敬服する感覚に似ている。

 

 

 

 失ってからしか真の有り難みを知ることはできない。別離してからしかその大きさを知ることはできない。地に足がついたまま、この世界の大きさを想像しても、そのイメージは現実に追いつかない、どこか乖離したものになってしまう。その対象が大きければ大きいほど。生きるということも然り。当たり前の生活を失ってはじめて、云々。

 

 

 

 

 だからこそ僕は、ある生き方をしようと思った。

 

 1年後の今日は、もうこの世にはいない。

 そんな生き方。

 

 外観は非常にネガティブかもしれない。しかしそれは実際のところ非常にポジティブなのだ。諦念ではなく、むしろ決意と信念。クリスマスも大晦日も、もう返ってはこない。これが最後。そう考えると1日が尊い。いや、尊いなんて言葉では足りない。

 

 どのみち、この病院を去るときにはまた新しい生き方が始まる。それが自分の身体でなかったとしても、それはそのとき。いずれにせよ、明日は最後の1月1日。希望の光に満ち溢れた1月1日。

 

 何事もなく人生を送っていて見えていた部分はまさに一角にすぎなかった。氷山の大きさは地の上にいても決して分からないのは、先に述べた通り。冷水の底に沈められて初めてその存在の大きさに気づく。しかし取り巻く環境を冷水だと思っているようでは、水面に浮き上がる前にこときれるだろう。冷水にも光は差す。あと1m浮上すれば見えるかもしれない。もがく。一縷の望みに懸けて、もがく。息苦しさなど、ものにもしない。いつしか明るい陽の目を見ることを信じて疑わない。

 

  これは有事のための布石ではない。後悔しないための準備でもない。1日を大切に生きる、その手段の一つなのだ。悲劇のヒーローに変じた瞬間、学びはなくなる。だからこその、冷水を冷水とも思わぬ生き方。氷の海原でさえ美しく暖かい。

 

Live as if you were to die tomorrow.

Learn as if you were to live forever.

 

明日死ぬかの如く生き、永久に生きるかの如く学べ。不屈の精神で独立をもぎ取ったガンジーの言葉の意味が、何となく分かったような気もする。

 

 

 

 

 

 

苦しさに追い込まれたとき。

闇が全身を締め付けるとき。

もし人生をやり直せるとしたら。

そう考えたことがある人も多いかもしれない。

どうだろうか。

 

僕はもし人生をやり直せるとしたら、もう一度同じ生き方をするだろう。今の家族のもとに生まれて、同じ保育園・小中学校・高校・大学に通って、同じ友人達、先輩後輩に出会って、同じ先生方に出会って、陸上競技やピアノや愛車に出会って。そうして19歳1ヶ月で10万人に1人とかいう確率の癌になる。僕はそれでいいし、それがいい。それしかない。僕は恵まれていたし、最も幸せな道を歩んできた。この愛すべき世界と出会って、愛すべき多くの人々と共に過ごして。過去はもう返ってこないけれど、その全てをもう一度経験したいほど、どれもが素晴らしかった。

 

 僕はもう死を恐れてはいないし、それでいて死なない。保証されてはいないけど、無条件に信じている。信じることに理由はいらない。希望と勇気と忍耐さえあれば充分。統計や確率なんて当てにならないし、A判定だろうがE判定だろうが個人に帰すれば0か1かでしかない。僕はA判定でも笑わないしE判定でも屈しない、そういう生き方をしたい。ここは戦場だ。敗北を恐れて勝利なし、死を恐れて生還なし。兜の緒は常に締めよ。これこそ高校時代の陸上競技で培った「サムライ魂」の本来の在り方かもしれない。感謝なくして成長なし。

 

 

 みみっちいことで悩んでた昔の自分が馬鹿みたいだ。悩んで何になる。根拠がなくても信じていいだろう。世の中には理屈で説明できないことの方が多いから。そうじゃなきゃ面白くない。

 

 

明日は最後の元旦。

そして1年後の元旦、僕は生きている。

前者は決意、後者は信念。

ここに矛盾は一切ない。

 

絶対に生きてるさ。絶対に。

そう信じて明日を生きる。

 

 

新たな年の幕開け。勝負の年。天王山。

 

 

あなたは明日を、どう生きるだろうか。

 

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なんで俺なんだろう。

この数週間で気が狂うほど繰り返した。

 

 

どうしてあなたが。

この数週間で誰しもがそう言った。

 

この世には唯一解の用意された疑問と、複数の理由ないし選択肢が用意された疑問と、答えることのできない疑問の、3種類がある。

 

「人はなぜ死ぬのか。」

 

この問いに対する普遍的な解などは存在しない。ただ一方で、複数の要因を考えることは如何にも容易い。あなたの祖母はなぜ亡くなったのですかと聞かれて、癌です、と答えるのは実にスムーズで自然な流れである。生物学的観点を持ってすれば、この問いに答えることはそう難しくはないだろう。

 

ところがそう簡単に答えられないものもある。

 

「人はなぜ生きるのか。」

 

先ほどの問いと似たような外見をしているが、これは全くの別物である。この問いに対して流水のごとく答えられるのは新興宗教の教祖くらいなものだろう。哲学の根本とも言えるこの問いに、人類は何千年も挑み続けてきた。しかしながら、この問いに答えることは決してできないのである。どこまで突き詰めてもその先があるのだ。地平線の先に辿り着いても、また新しい地平線が広がるだけ。「円周率は幾つですか」という終わりなき問いに対してπという記号を付与するのとはわけが違う。「人はなぜ生きるのですか」という終わりなき問いに一般解を見出そうとすることはもはやナンセンスなのかもしれない。

 

 

 「どうして俺が癌にならなきゃいけないんだ。」

 

 タバコも吸わない。酒も飲まない。栄養バランスも悪くない。運動して肉体も維持し続けてきた。ストレスもちゃんと発散しているつもりだった。それなのに、どうして、どうして俺なんだ。

 

 

 

 「どうして俺が癌にならなきゃいけないんだ。」

 

 何遍も何遍も繰り返して、ようやく気づいた。この問いも同じく、もはやナンセンスなのかもしれない。

 

 僕は、人生とは偶然の産物であり、それでいて必然の産物であると考えている。「偶然のような必然」と「必然のような偶然」。それは「運命のような奇跡」と「奇跡のような運命」、とも言い換えられるかもしれない。

 

 未来はある範囲で決定している。これが僕自身の考える「必然」である。例えば、日本にいるあなたは1時間後にアメリカに行くことはできない。そこには様々な制約が働いている。現代の技術では1時間で太平洋を横断するのは不可能であるし、交通の便のせいで1時間後には空港にさえ辿り着いていないかもしれないし、今夜避けられない用事があるかもしれないし、そもそもパスポートを持っていないかもしれない。ある与えられた状況下においてしか、選択肢は発生しない。あなたに「1時間後にアメリカに行く」という選択肢は存在しないのである。こうやって選択肢を狭めていくと、取りうる選択肢は限られてくる。あなたは多分10秒後もこのブログを読み続けるという選択肢をとってくれているだろう。ありがとうございます。これが「必然」。

 

 逆に「偶然」とは何か。僕は、人間の意志は自由だと考えている。そこにある程度の宗教的、社会的、倫理的背景が働くとはいえ、我々には思考を創造する自由が与えられている。ある有限の選択範囲の中で、無限の思考を創造する。そのとき、ある「必然」の範囲内から「偶然」が生まれる。ある定まった「運命」の枠組みから、とんでもない「奇跡」が生じる。人生は、その繰り返しなんじゃないか。スマホを手に取るという選択肢と、課題をやるという選択肢と、とりあえず寝るという選択肢があって、スマホを見る。そんな些細なことさえも、偶然のような必然で、必然のような偶然。一瞬前の自分が確かに存在して、そして何らかの「必然」と「偶然」によって今ここに「自分」が存在する。現在の自分というのは、過去の自分にとっての「必然」の範囲内から生じたものであり、そして「偶然」にして今ここにいるんじゃないのか。

 

 

「どうして俺が癌にならなきゃいけないんだ。」

 

 現在の自分を否定するということは、即ち一瞬前の自分を否定することであり、一瞬前の自分に起因する「偶然」と「必然」を嘆くということである。要するに現状自己否定の行為は、あらゆる瞬間に遡って自己を否定することであり、自分自身がこの世に生を受けてから今現在まで過ごしたあらゆる時間を否定することになる。生まれてこなければ癌にならなかったのだから。僕はそういう生き方をしたくはない。

 

 僕は、偶然にして癌になったし、そして必然的に癌になった。検査で偶然発見されたし、必然的に発見された。それは紛れも無い事実であり、19年間、いやもっと先代からの、ありとあらゆる偶然と必然の因果によって、今ここに癌と闘う自分がいる。あなたがこのブログを読んでくれているのも、僕自身と何らかの繋がりがあるからだろうし、その出会いさえも何らかの必然であって、そして偶然であったはずなのだ。偶然と必然の産物であるあなたの人生があって、同じく偶然と必然の産物である私の人生があって、それが何らかの因果によって、多かれ少なかれ交点を持っている。運命のような奇跡であって、奇跡のような運命。そこにはもう、人智の到底及ばぬような大きな力が働いているとしか思えない。偉大な存在にのみ為せる業である。それを「神」と呼んでもいいかもしれない。「神」と呼称すべき光に充ち満ちた存在を感じざるをえない。

 

 崇高たる力を前にすれば、「人はなぜ生きるのか。」などという問いが、いかに愚かなものであるかが分かるだろう。

 

 主治医の名前を検索していると、彼の書いたブログを発見した。

人の生きる意味なんてない、とにかく自分に与えられた時間、境遇を一生懸命生きるのみ。

 この一文を見たとき、これこそが本質だ、と強く感じた。直感的に、それでいて疑うことなく、真理だと思った。人に生きる意味なんてものはない。「生きる意味」という空想概念を追い求めようとするからこそ、「生きる意味を見失う」なんてことがあっさりと言えてしまうのである。生きるということ、その行為には意味なんぞ付与することのできない尊さがある。何が「生きる意味」だ。何が「不幸」だ。偶然と必然、その大いなる自然の潮流に身を委ねて生きているということ、それだけでいいじゃないか。途方もなく素晴らしいじゃないか。無数の選択肢から生まれた、運命のような奇跡のような、「人生」という名の一本道。神のみぞ知るその偶然と必然のあらゆる因果に、今、心からの感謝をせねばならない。生きる、ということの本質は、この与えられた「運命」を噛み締め、今ここにいるという「奇跡」に歓喜することなのだから。

 

 ありがとう。

 僕は今、本当に幸せだ。

 

 

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無題

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

癌を宣告された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 癌なのか。

 がん、か。

 俺は癌患者になってしまったのか。

トービョーセイカツとやらが始まるのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 状況をすぐに飲み込めるほど精神が発達しているわけがない。たとえ仙人といえども、ひとたび癌と聞けばその温厚な目をかっと見開くであろう。

 

 何が起こっているのか。巧妙に仕組まれた壮大なドッキリなのか? いや、そうだこれは夢に違いない。とんでもない夢だ。胸糞悪い。何だこれは、何の仕打ちだ。

 

 俺は今まで真面目に生きてきただろう、なぁ。一体何のバチが当たったっていうんだ。不公平じゃないか。

 

 わけの分からぬまま、英単語を習いたての中学生のごとく、何度も何度も"がん"の2文字を繰り返す。がん、がん、がん...  そう繰り返すうちにこの二文字が意味を失ってくる。異様な負のオーラを放っていたはずの名詞が、単なる擬音語のように聞こえてくる。何だ癌か、と呟いてみる。

 

 

 一度すとんと腑に落ちたような心地よい感覚が駆け巡る。ショート寸前にて思考は停止し、ここで一旦は安堵する。しかしながら、やはりどうも心の奥の方が受け付けないようで、もう一度跳ね返って戻ってくる。この作業がぐるぐると続く。非建設的なループは終わらない。先が見えない。

 

 全く理解できない。

 

 どうして自分なのか。

 

 

 癌は日本人の死因第一位に長年君臨してきた。前回のブログにも書いたが、祖母も癌に侵されて昨年この世を去った。自分もいつかは侵されるのだろうと心の片隅ぐらいには思っていた。

 

 

 だが流石に早くないか?

 祖母のお見舞いに行った、まさしくその病院に、ちょうど一年後、自分が入院する。同じく癌で。

 

10代で癌なんてドラマとかのイメージ。あるいは自己とはかけ離れた遠い世界のドキュメンタリー番組。自分にとっては、もはやフィクションの世界の出来事だった。それが今、もう既に身体を蝕んでいる。自分の体の中で、自分の細胞が、わけの分からない突然変異によって無秩序の増殖を開始し、自らが自らを侵している。その勢いはとどまることを知らない。転移さえしている。どうしてそんなことをするんだ。殺すのか。気が狂っているのか。やめてくれ、頼むからやめてくれ。

 

 恐ろしいのは何一つと言って自覚症状がないことである。朝起きて、普通に飯を食って、大学に行って、友達と講義を受ける。バイトして帰ってきて飯を食って風呂に入って寝る。そんな普通の生活をしているところに突如として癌を宣告されるのである。青天の霹靂。晴れ渡る青空から鳴り響く雷鳴に、身震いさえすることができない。ただ呆然とその場に立ち尽くすばかりである。日常が非日常へと瞬く間に変貌するとき、人は茫然自失として、事の成り行きをただ眺めることしかできない。未曾有の光景に理解が及ばないのである。

 

 

 やはりどうしても癌には「死」の形象が伴う。それは当然といえば当然なのかもしれない。

 

 勿論これまでは、自分の描く人生に「死」など存在していなかった。存在しえなかった。 10代で死を意識しながら生活する方がおかしい。

 

 人生の延長線上、地平線の遥か彼方に、終着点が存在することくらいは分かっていた。そこから先は宗教的な世界観を持つことも分かっていた。それは子供の頃から知っていた。諸行無常、盛者必衰。不老長寿の薬などこの世に存在しない。永遠の命など神も仏も与えない。しかしそれを自分自身に還元して考えることは不可能であった。自分の命に終わりがあることを知っているつもりになっていただけで、実のところ何も分かっていなかった。終着点の方へ視線をやったことなど無に等しい。もしかすると凝視したところで見えるものでもなかったかもしれないが。

 

 ただ、そうやって脇目していたのがいけなかったのかもしれない。日常の雑事に気をとらわれてしまっていた。現在地の足元、その近傍ばかりを気にしていた。

 ふと視線を前方に戻せば、「死」が視界に佇んでいた。

 

 人生は「死」に向かって歩くものだとばかり思っていた。しかし、時に「死」は自らの足でこちらに向かってくる。走ってくる。顔色ひとつ変えない圧倒的なスピード。知らぬ間に、彼は着実に忍び寄っていた。「達磨さんが転んだ」のイメージかもしれない。獣のような低姿勢で脇目もふらずに来る。彼を意識せぬ時間が長いほど、彼は加速する。背を向けると喰いつかれる。

 

 彼は決して笑うことはない。一方で手招きをするわけでもない。ただ無表情のまま、静かにこちらを見つめている。「死」と命名された唯一無二の絶対的存在。無双。古今東西、この世に生きとし生ける万物において彼にかなうものなど皆無である。

 

 この世に生を受けたものは必ず死ぬ。この自然の摂理は十分に理解していた。しかしながら、自分の人生の延長線上に「死」が存在するということには気づかなかった。一般論を具体例に落とし込む、そんな演繹的な考え方には長けていない。これまで、自分の人生に終わりを考えることも、考えさせられることもなかった。だからこそ彼が現れたとき、初めて目にするその姿を、認識することさえできなかった。彼の存在は知っていた。しかしながら、何が起こっているのか全く理解できなかった。青天の霹靂。

 

 生と死は紙一重な気がした。あなたも私も、明日生きている保証はどこにもない。しかしこれだけ書いていても、やはり自分の生が死と隣り合わせにあることすら理解できない。

 

昨日生きていた。

今日も生きている。

だから明日も明後日も1年後も、そしておそらく10年20年先も当然のように生きている。

 

 こんな帰納法が成り立つのなら生は永久不滅である。そんなわけがない。愚かな甘い甘い考えで、人は毎日を生きているのである。 馬鹿馬鹿しい。あなたが明日死なないことを何処のどいつが保証してくれると言うんだ?

 

 生は脆い。直立不動の一輪の花は、いとも簡単に根元から折れて朽ち果てていく。

 

 生きているということ。その儚さゆえに「生」は美しいのだということを、もしかすると癌は教えてくれようとしているのかもしれない。1日を大切に生きろというメッセージなのかもしれない。

 

 これからは「死」から目を離せない生活が続くであろう。そしてじりじりと詰め寄られてきた距離を、苦しさに耐え、痛みに耐え、また少しずつ離していかねばならない。筆舌に尽くしがたいほどの苦痛が全身を襲う日も来るであろう。だか、それでも最適な方法を医師が指南してくれるのだ。不安要素は最早ない。

 

 信じるのみである。

 死を臆することは彼を有利にしてしまうかもしれない。

 

 数ヶ月で終わるのか、はたまた数年、数十年かかるのか。

 闘病。相手も本気であるならばこちらも本気になるしかない。ふざけるな、姑息に忍び寄ってくるなんていい度胸じゃないか。

 

強く生きてやる。生きながらえてやる。俺はひとりじゃないんだ。

死んでたまるか。

 

指一本たりとも触れさせやしない。

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祖母と、受験と。

 病床に臥すと、やけに空が綺麗に見える。何もすることなく、ただベッドからぼーっと晴空を見上げる。今日は少し寒そうだ。あまりじっとしているのも暇なので、病院内のコンビニにでも行こうと思い立った。部屋を出て、真っ直ぐエレベーターへと向かう。廊下を歩くと、突き当たりに普通の病室とは見るからに異なる病棟があって、ターミナルケア(終末期医療)が行われている。何やら賑やかなのは、ハロウィンだからだろうか。シューマントロイメライが聞こえてくる。ホスピスのハロウィンはどこか寂しげな気がした。患者さん達にとっては、これが最後のハロウィンになるのかもしれない。車椅子のおばあさんが紙でできたキラキラの円錐の帽子を被っているのを見て、どうしてか祖母を思い出してしまった。あれから1年が経とうとしていた。

 

 昨年の晩秋、確かあれは心地よい小春日和だった。日中長袖を着るかどうか迷う、そんな何とも言えないほんわかとした日だった。柔らかな陽射しに誘われるようにして、祖母は静かに、安らかに、息を引き取った。末期癌だった。棺の中で、祖母は綺麗な顔をしていた。笑顔が絶えず、声が大きく、ちょっと太っていて、大の虎ファンで、味付けの濃い料理が大好きな、もう大阪のおばちゃんの権化とでも言わんばかりの人だった。しかしそのときばかりは、凛とした美しい顔をしていた。最初で、そして最後の顔だった。祖母の家に行くと、小さい頃からいつも決まって玄関先で抱きしめてくれた。あれはちょっと暑苦しかった。死化粧をされた頰を触ってみた。あのときの温もりは、もうそこにはなかった。酷なほど冷たかった。棺の中の祖母は痩せていて、何だか小さく見えた。ばあちゃんよく頑張ったね、とだけ言った。あとは言葉に詰まった。泣くのは堪えた。目を閉じると少し落ち着いた。

 

 亡くなった人を前に涙するのは、個人的にはあまり好きではない。別に悼む感情が欠如しているわけではないし、悲しいのは悲しい。でも何というか、通夜も葬式も告別式も、その人といられる最後の時間なんだから、最後くらい、ありがとうと笑顔で言いたい。

 

  "The highest tribute to the dead is not grief but gratitude." とは、いわゆる名言とされている米国の作家の言葉。"死者に対する最高の手向けは、悲しみではなく感謝である"。何故かは分からないけれども、これは理屈なしで正しい気がする。的を射ているというか、うまく言えない部分を的確に表現しているというか。

 

  極論を言うと、悲しんだら亡くなった人が往生できないような気もする。兎にも角にも、火葬炉の鋼鉄の扉が閉まるまでは、そのときまでは、極力笑顔でいようと心掛けた。少々不謹慎だったのかもしれないけれど、泣きながら感謝することは難しかった。

 

 いつかの入試問題だったかで、死に関する随筆があった。若い頃に目にする死は衝撃が大きい、しかし老いてからはそうもいかない。毎度毎度死を悼んでいては心が持たない。死を温かく見守るのだ、と。それでいいんじゃないかと思う。少なくとも自分の場合は参列者が笑顔でいてくれた方がいい。悲しまれたら、それこそ文字通り立ち往生するかもしれない。堪えきれない涙は致し方ないが。"亡くなってしまって悲しい" よりは "今までありがとう" のほうが美しい。

 

 喪主は親父だった。生前の思い出のビデオの後、最後の挨拶をするとき、親父は泣いていた。泣くのを見たのは祖父を亡くしたあのときだけだった。これはまずかった。そうか、もう親はいなくなってしまったのか。こらえようとしたものの、少しだけ涙が頰を伝って落ちてしまった。

 

 その2週間ほど前、余命宣告を受けた祖母とターミナルケアの病棟で最期に交わした約束があった。僕は絶対に京大に行くと誓った。受験を気にかけてくれていたから。モルヒネを打たれて祖母は少し夢うつつだったが、それでも、もう骨と皮だけになった両手で僕の右手を優しく包んでくれた。確かな血の温もりを感じた。そこから数ヶ月は気が狂ったように勉強した。それが、本当に最期の約束になってしまったから、それしか約束できなかったから、やるしかなかった。

 

 そうして長い長い冬を乗り越え、春を迎えた。高校を卒業した。

 

 

 そしていま僕は、高3の春には半ば諦めかけていた京大にいる。当たり前のような日々は、やはり、あのとき祖母がいたからこそ実現したのかもしれない。心から感謝しなければ。それが最高の手向けになるのであれば尚更。退院したら、お墓に手を合わせに行こう。ついでに運転免許証も見せてあげよう。

 

 コンビニから戻ってくると、トロイメライはもう終わっていた。先ほどのおばあさんは犬と戯れている。命の灯火が消えようとしているその最期の時を、彼女もまた精一杯生きているのだ。そんな状況下で、それでもなお人に力を与えられる。そんな祖母を僕はいつまでも誇りに思う。いい人だった。そして僕の記憶の中では今なお力強く生き続けている。

 

 病室が5階の555号室なの、ばあちゃんのせいかもね。じいちゃんが55-55のセルシオ乗ってたから。違うかな。まぁいいや。

 

 ばあちゃん、ありがとう。そしてこれからもよろしく頼みます。まだまだ生きねば。長い長い冬が、今年もやってくる。病室の窓から、1羽の鷹が大きく弧を描いているのが見えた。冬支度だろうか。晩秋の空は天高く、そして今にも吸い込まれそうなほどに澄み切っていた。

公平≠公正 〜陸上競技にみるスポーツ倫理〜

 日本が男子4×100mリレーで史上初となる銀メダルを獲得し、ウサイン・ボルトがオリンピックとしては自身最後となるフィニッシュラインをトップで駆け抜け歓喜に沸いたその翌8月20日、現地時間21時15分、エスタジオ・オリンピコはまたも熱気に包まれていた。陸上競技女子800m決勝。2位と1秒以上の大差をつけて優勝したのは南アフリカ代表、今期世界ランク1位のキャスター・セメンヤであった。画面に映し出される地球の裏側の白熱した戦いに、僕は釘付けにならざるをえなかった。圧倒的な強さだった。

 

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 2ヶ月後、そんな彼女に関する議論を大学で、しかも法哲学基礎ゼミで扱うなんてことは、予想だにしなかった。ー スポーツと法哲学。一見すると何の関係もない二者の衝突が、トップアスリート達の間で新たに生じつつある問題を浮き彫りにした。

 

 "先天的に男性ホルモン値が異常に高い女性が、陸上競技に女性として出場することが許されるのか"。彼女を取り巻く議論を端的に示すとこのようになる。恥ずかしながら、僕はこんな議論が水面下で激化していることは微塵も知らなかった。この問題が裁判にまで発展したことを知って驚きを隠せなかったのは、言うまでもない。

 

 もう少し詳しく話すと、セメンヤはアンドロゲン過剰症であり、男性ホルモンの一種であるテストステロンの分泌が通常の女性の3倍ほど多いそうだ。これが発覚したのは2009年、彼女が世界陸上ベルリンで金メダルを取った直後の性別検査である。声が低く、筋肉質な18歳の無名選手が圧倒的勝利を果たしたのだから、疑いをかけられるのは避けられなかった。

 

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 国際陸上競技連盟(IAAF)は金メダル剥奪こそしなかったものの、実質的な両性具有と判断し、彼女に出場自粛の強い圧力をかけた。実際、両性具有と判断されて競技人生を断たれた選手は過去に4人もいるようだ。メダル剥奪は数え切れない。これに反発して大会出場を強行し続けた彼女は、自国の南アフリカ陸連から公式に出場停止処分を受ける。彼女にとっては走ることだけが喜びであり、競技の場を奪われ苦悩の日々を送ったという。彼女が復帰を果たしたのはそれから約一年後であった。スポーツ仲裁裁判所は、テストステロン値と競技力の比例関係の明確な証拠がないとして、IAAFを退けたのである。しかしながら、議論は終わらなかった。

 実のところ、彼女に圧力をかけたのはIAAFだけにはとどまらなかったのだ。陸上競技関係者をはじめ、一部のトップアスリート達までもが、彼女を猛烈に批判したのである。そしてそれは今なお解決していない。リオオリンピック800mで6位に入賞したリンゼイ・シャープは、大会後にメディアの前で現状改善を訴えた。同じように考える選手は、数多くいるのである。

 

 ここまで書くと、キャスター・セメンヤが大多数の非人情な人々と対立している構図を想像してしまうだろう。しかしながら、彼ら彼女らがそう発言してしまうことには、それなりの背景があるに違いない。

 

 思うに、この問題の根源のひとつとして考えられるのは、世界アンチドーピング機構(WADA)が2004年から施行している "Whereabouts System" じゃないだろうか。これは言わば、世界のトップアスリートに行われる抜き打ちドーピング検査である。彼らは、自身の予定を3ヶ月毎にADAMSと呼ばれるWebページ上に提出することを義務付けられ、365日どこにいるかをWADAに把握されている。そしてある日、検査員がいきなり訪問してくる。夜中就寝していようが御構い無しであることは、よく知られている。

 

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 完全なる公平性を担保するために365日監視下におかれる。風邪薬でさえ、迂闊に飲むとメダルを剥奪されてしまう。そんなトップアスリート達が、男性ホルモン値が高い彼女に対して黙っていられないのも当然ではないかと思ってしまう。テストステロン値を手術によって下げることが出来るのに、どうしてその措置を取らせないのか、と。それが先天性であるか後天性であるかは、他の選手にとって問題ではないのだ。

 

 ここで議論となるのは、公平性と公正性である。要は、平等化することが必ずしも倫理的に正しいとは限らない、ということだ。一方で現在のスポーツ界では、公平であることこそが公正である、という過剰認識があるのではないだろうか。その根源がWhereabouts Systemを始めとする、"ガチガチの公平性担保機構"であると思われる。

 

 ここで言う「スポーツ」とは何なのか。sportとはdisport(気晴らし、遊び戯れ)を語源とするそうだ。ならば、disportをsportたらしめるのは「ルール」であろう。規則に反する不正なく、正々堂々と競うのがsportである。ただ、「不正なく」とは言ったが、不正の対義語はあくまでも「公正」であり、「公平」ではない。しかし現在のsportにおける認識は、「不正がない」=「公平・平等である」という意識が強すぎる気がする。

 

 テストステロン値を抑えて人工的に公平性を作り出すことが公正なのであれば、逆を一度考えてみればいい。例えば、テストステロン値が極端に低い男性がいたとして、そのホルモンバランスを操作する。男性ホルモンをもっと分泌させる。これも公平のためにやるのだから、公正となるのだろう。黒人の屈強な肉体が欲しいがために、白人が遺伝子操作を行う。さらには、身長が平均より低いことを理由に膝下の骨延手術を行う。これらだって、公平性の担保のためにやるのだから、その考え方に則れば公正となるのだろう。

 

 いや、なるわけがない。

 

 身体の先天的不利性を人工的に操作して公平化するのは不正なのに、先天的有利性を公平化するのは公正。そんなことがあってはならないと思うが、現に今そうなっているのである。

 

 「人間として女性である」ことと「競技者として女性である」ことは、昔は同値であった。一方Intersexの概念が存在するようになってからは、それが同値ではなくなったが、このことは理解できる。XXとXYの2種類で定義するのはもう古い。ただ、出る杭のみを打って整地する行為が正義とでも言わんばかりに公然と行われることに対しては、理解を示すことはできない。その鉄拳制裁行為は、グレーゾーンというよりむしろ不正ではないのか。オリンピック憲章の原則にも反しているのではないか。

 

・スポーツの実践はひとつの人権である。何人もその求めるところに従ってスポーツを行う可能性を持たなければならない(第八条)

 

 セメンヤの人権は今、大きく揺れている。先天的アドバンテージを殺さなければならない理由は存在しない。高い運動能力や心肺機能、高身長。男性ホルモンの値が高いことは、これらと同じレベルで扱ってもいいはずである。たとえそれが病気だとしても。

 

 平和の祭典オリンピックは冷戦状態にある。自身の肉体の限界、さらには人類の肉体の限界を競う最も純粋で美しい競技の世界に、どうしてこうも外部から限界値を下げさせる圧力が生まれてしまうのか。1/100秒。1cm。どうしてこう「差をつけて」勝敗を決する競技のために、人権を軽視してまでも「個人差を極限までなくして平等化」するのか。そのジレンマに、僕は納得がいかない。

 

「セメンヤが、陸上競技に女性として出場することは許されるのか」。この問いに対しては、しかしながら、僕はYesだと明言することは出来ない。それぞれにそれぞれの言い分があり、それは倫理的にどうであるかはさておき、必ずしも筋が通っていないとは言えないのだ。ある選手は言う。「セメンヤには絶対に勝つことはできない」と。別の選手はこう言う。「彼女もまたハードなトレーニングを日々やっているのだ」と。何かを取るには、何かを捨てなければならないのかもしれない。この問題は非常に大きな問題だか、解決策は見出せないような気がする。少なくとも現行システムの上では。自分達に出来ることは何ひとつないのである。歯がゆい。ただただ、このような問いを生み出してしまった、そして解決出来ない状況に持ち込んでしまった、そんな「背景」の存在に対して、嘆くばかりである。ひょっとすると、この問題はセメンヤが世界ランク30位なら起こらなかったかもしれないし、国家を背負っていなければ起こらなかったかもしれないし、身長が突出して高いなどといった状況なら起こらなかったかもしれない。サッカーや野球といったチームスポーツならなおさら起こらなかったかもしれない。そして、そう考えられることこそが一番の問題なのかもしれない。

 スポーツはついに細部の細部まで規定しなくてはならない局面を迎えているのだ。いや、厳たる規約があってさえも、ロシアの国ぐるみドーピングのような事例が起こるのである。各々が自分の医学チームを持つまでになったトップアスリートらの競技は、徹底した公平性担保機構が存在しなければ成り立たない時代になってしまったのだろう。スポーツ科学の発展は功罪相半ばしているのだ。「純粋に競うスポーツ」なんてものは、もはや絶滅してしまったのかもしれない。スポーツの美しさは、その基幹部分が既に壊死してしまっているのかもしれない。どこまでが競技なのか。果たして何を、何のために競うのか。その意味さえも分からなくなってしまいそうである。スポーツとは一体何なんだ?