ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

祖母と、受験と。

 病床に臥すと、やけに空が綺麗に見える。何もすることなく、ただベッドからぼーっと晴空を見上げる。今日は少し寒そうだ。あまりじっとしているのも暇なので、病院内のコンビニにでも行こうと思い立った。部屋を出て、真っ直ぐエレベーターへと向かう。廊下を歩くと、突き当たりに普通の病室とは見るからに異なる病棟があって、ターミナルケア(終末期医療)が行われている。何やら賑やかなのは、ハロウィンだからだろうか。シューマントロイメライが聞こえてくる。ホスピスのハロウィンはどこか寂しげな気がした。患者さん達にとっては、これが最後のハロウィンになるのかもしれない。車椅子のおばあさんが紙でできたキラキラの円錐の帽子を被っているのを見て、どうしてか祖母を思い出してしまった。あれから1年が経とうとしていた。

 

 昨年の晩秋、確かあれは心地よい小春日和だった。日中長袖を着るかどうか迷う、そんな何とも言えないほんわかとした日だった。柔らかな陽射しに誘われるようにして、祖母は静かに、安らかに、息を引き取った。末期癌だった。棺の中で、祖母は綺麗な顔をしていた。笑顔が絶えず、声が大きく、ちょっと太っていて、大の虎ファンで、味付けの濃い料理が大好きな、もう大阪のおばちゃんの権化とでも言わんばかりの人だった。しかしそのときばかりは、凛とした美しい顔をしていた。最初で、そして最後の顔だった。祖母の家に行くと、小さい頃からいつも決まって玄関先で抱きしめてくれた。あれはちょっと暑苦しかった。死化粧をされた頰を触ってみた。あのときの温もりは、もうそこにはなかった。酷なほど冷たかった。棺の中の祖母は痩せていて、何だか小さく見えた。ばあちゃんよく頑張ったね、とだけ言った。あとは言葉に詰まった。泣くのは堪えた。目を閉じると少し落ち着いた。

 

 亡くなった人を前に涙するのは、個人的にはあまり好きではない。別に悼む感情が欠如しているわけではないし、悲しいのは悲しい。でも何というか、通夜も葬式も告別式も、その人といられる最後の時間なんだから、最後くらい、ありがとうと笑顔で言いたい。

 

  "The highest tribute to the dead is not grief but gratitude." とは、いわゆる名言とされている米国の作家の言葉。"死者に対する最高の手向けは、悲しみではなく感謝である"。何故かは分からないけれども、これは理屈なしで正しい気がする。的を射ているというか、うまく言えない部分を的確に表現しているというか。

 

  極論を言うと、悲しんだら亡くなった人が往生できないような気もする。兎にも角にも、火葬炉の鋼鉄の扉が閉まるまでは、そのときまでは、極力笑顔でいようと心掛けた。少々不謹慎だったのかもしれないけれど、泣きながら感謝することは難しかった。

 

 いつかの入試問題だったかで、死に関する随筆があった。若い頃に目にする死は衝撃が大きい、しかし老いてからはそうもいかない。毎度毎度死を悼んでいては心が持たない。死を温かく見守るのだ、と。それでいいんじゃないかと思う。少なくとも自分の場合は参列者が笑顔でいてくれた方がいい。悲しまれたら、それこそ文字通り立ち往生するかもしれない。堪えきれない涙は致し方ないが。"亡くなってしまって悲しい" よりは "今までありがとう" のほうが美しい。

 

 喪主は親父だった。生前の思い出のビデオの後、最後の挨拶をするとき、親父は泣いていた。泣くのを見たのは祖父を亡くしたあのときだけだった。これはまずかった。そうか、もう親はいなくなってしまったのか。こらえようとしたものの、少しだけ涙が頰を伝って落ちてしまった。

 

 その2週間ほど前、余命宣告を受けた祖母とターミナルケアの病棟で最期に交わした約束があった。僕は絶対に京大に行くと誓った。受験を気にかけてくれていたから。モルヒネを打たれて祖母は少し夢うつつだったが、それでも、もう骨と皮だけになった両手で僕の右手を優しく包んでくれた。確かな血の温もりを感じた。そこから数ヶ月は気が狂ったように勉強した。それが、本当に最期の約束になってしまったから、それしか約束できなかったから、やるしかなかった。

 

 そうして長い長い冬を乗り越え、春を迎えた。高校を卒業した。

 

 

 そしていま僕は、高3の春には半ば諦めかけていた京大にいる。当たり前のような日々は、やはり、あのとき祖母がいたからこそ実現したのかもしれない。心から感謝しなければ。それが最高の手向けになるのであれば尚更。退院したら、お墓に手を合わせに行こう。ついでに運転免許証も見せてあげよう。

 

 コンビニから戻ってくると、トロイメライはもう終わっていた。先ほどのおばあさんは犬と戯れている。命の灯火が消えようとしているその最期の時を、彼女もまた精一杯生きているのだ。そんな状況下で、それでもなお人に力を与えられる。そんな祖母を僕はいつまでも誇りに思う。いい人だった。そして僕の記憶の中では今なお力強く生き続けている。

 

 病室が5階の555号室なの、ばあちゃんのせいかもね。じいちゃんが55-55のセルシオ乗ってたから。違うかな。まぁいいや。

 

 ばあちゃん、ありがとう。そしてこれからもよろしく頼みます。まだまだ生きねば。長い長い冬が、今年もやってくる。病室の窓から、1羽の鷹が大きく弧を描いているのが見えた。冬支度だろうか。晩秋の空は天高く、そして今にも吸い込まれそうなほどに澄み切っていた。

公平≠公正 〜陸上競技にみるスポーツ倫理〜

 日本が男子4×100mリレーで史上初となる銀メダルを獲得し、ウサイン・ボルトがオリンピックとしては自身最後となるフィニッシュラインをトップで駆け抜け歓喜に沸いたその翌8月20日、現地時間21時15分、エスタジオ・オリンピコはまたも熱気に包まれていた。陸上競技女子800m決勝。2位と1秒以上の大差をつけて優勝したのは南アフリカ代表、今期世界ランク1位のキャスター・セメンヤであった。画面に映し出される地球の裏側の白熱した戦いに、僕は釘付けにならざるをえなかった。圧倒的な強さだった。

 

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 2ヶ月後、そんな彼女に関する議論を大学で、しかも法哲学基礎ゼミで扱うなんてことは、予想だにしなかった。ー スポーツと法哲学。一見すると何の関係もない二者の衝突が、トップアスリート達の間で新たに生じつつある問題を浮き彫りにした。

 

 "先天的に男性ホルモン値が異常に高い女性が、陸上競技に女性として出場することが許されるのか"。彼女を取り巻く議論を端的に示すとこのようになる。恥ずかしながら、僕はこんな議論が水面下で激化していることは微塵も知らなかった。この問題が裁判にまで発展したことを知って驚きを隠せなかったのは、言うまでもない。

 

 もう少し詳しく話すと、セメンヤはアンドロゲン過剰症であり、男性ホルモンの一種であるテストステロンの分泌が通常の女性の3倍ほど多いそうだ。これが発覚したのは2009年、彼女が世界陸上ベルリンで金メダルを取った直後の性別検査である。声が低く、筋肉質な18歳の無名選手が圧倒的勝利を果たしたのだから、疑いをかけられるのは避けられなかった。

 

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 国際陸上競技連盟(IAAF)は金メダル剥奪こそしなかったものの、実質的な両性具有と判断し、彼女に出場自粛の強い圧力をかけた。実際、両性具有と判断されて競技人生を断たれた選手は過去に4人もいるようだ。メダル剥奪は数え切れない。これに反発して大会出場を強行し続けた彼女は、自国の南アフリカ陸連から公式に出場停止処分を受ける。彼女にとっては走ることだけが喜びであり、競技の場を奪われ苦悩の日々を送ったという。彼女が復帰を果たしたのはそれから約一年後であった。スポーツ仲裁裁判所は、テストステロン値と競技力の比例関係の明確な証拠がないとして、IAAFを退けたのである。しかしながら、議論は終わらなかった。

 実のところ、彼女に圧力をかけたのはIAAFだけにはとどまらなかったのだ。陸上競技関係者をはじめ、一部のトップアスリート達までもが、彼女を猛烈に批判したのである。そしてそれは今なお解決していない。リオオリンピック800mで6位に入賞したリンゼイ・シャープは、大会後にメディアの前で現状改善を訴えた。同じように考える選手は、数多くいるのである。

 

 ここまで書くと、キャスター・セメンヤが大多数の非人情な人々と対立している構図を想像してしまうだろう。しかしながら、彼ら彼女らがそう発言してしまうことには、それなりの背景があるに違いない。

 

 思うに、この問題の根源のひとつとして考えられるのは、世界アンチドーピング機構(WADA)が2004年から施行している "Whereabouts System" じゃないだろうか。これは言わば、世界のトップアスリートに行われる抜き打ちドーピング検査である。彼らは、自身の予定を3ヶ月毎にADAMSと呼ばれるWebページ上に提出することを義務付けられ、365日どこにいるかをWADAに把握されている。そしてある日、検査員がいきなり訪問してくる。夜中就寝していようが御構い無しであることは、よく知られている。

 

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 完全なる公平性を担保するために365日監視下におかれる。風邪薬でさえ、迂闊に飲むとメダルを剥奪されてしまう。そんなトップアスリート達が、男性ホルモン値が高い彼女に対して黙っていられないのも当然ではないかと思ってしまう。テストステロン値を手術によって下げることが出来るのに、どうしてその措置を取らせないのか、と。それが先天性であるか後天性であるかは、他の選手にとって問題ではないのだ。

 

 ここで議論となるのは、公平性と公正性である。要は、平等化することが必ずしも倫理的に正しいとは限らない、ということだ。一方で現在のスポーツ界では、公平であることこそが公正である、という過剰認識があるのではないだろうか。その根源がWhereabouts Systemを始めとする、"ガチガチの公平性担保機構"であると思われる。

 

 ここで言う「スポーツ」とは何なのか。sportとはdisport(気晴らし、遊び戯れ)を語源とするそうだ。ならば、disportをsportたらしめるのは「ルール」であろう。規則に反する不正なく、正々堂々と競うのがsportである。ただ、「不正なく」とは言ったが、不正の対義語はあくまでも「公正」であり、「公平」ではない。しかし現在のsportにおける認識は、「不正がない」=「公平・平等である」という意識が強すぎる気がする。

 

 テストステロン値を抑えて人工的に公平性を作り出すことが公正なのであれば、逆を一度考えてみればいい。例えば、テストステロン値が極端に低い男性がいたとして、そのホルモンバランスを操作する。男性ホルモンをもっと分泌させる。これも公平のためにやるのだから、公正となるのだろう。黒人の屈強な肉体が欲しいがために、白人が遺伝子操作を行う。さらには、身長が平均より低いことを理由に膝下の骨延手術を行う。これらだって、公平性の担保のためにやるのだから、その考え方に則れば公正となるのだろう。

 

 いや、なるわけがない。

 

 身体の先天的不利性を人工的に操作して公平化するのは不正なのに、先天的有利性を公平化するのは公正。そんなことがあってはならないと思うが、現に今そうなっているのである。

 

 「人間として女性である」ことと「競技者として女性である」ことは、昔は同値であった。一方Intersexの概念が存在するようになってからは、それが同値ではなくなったが、このことは理解できる。XXとXYの2種類で定義するのはもう古い。ただ、出る杭のみを打って整地する行為が正義とでも言わんばかりに公然と行われることに対しては、理解を示すことはできない。その鉄拳制裁行為は、グレーゾーンというよりむしろ不正ではないのか。オリンピック憲章の原則にも反しているのではないか。

 

・スポーツの実践はひとつの人権である。何人もその求めるところに従ってスポーツを行う可能性を持たなければならない(第八条)

 

 セメンヤの人権は今、大きく揺れている。先天的アドバンテージを殺さなければならない理由は存在しない。高い運動能力や心肺機能、高身長。男性ホルモンの値が高いことは、これらと同じレベルで扱ってもいいはずである。たとえそれが病気だとしても。

 

 平和の祭典オリンピックは冷戦状態にある。自身の肉体の限界、さらには人類の肉体の限界を競う最も純粋で美しい競技の世界に、どうしてこうも外部から限界値を下げさせる圧力が生まれてしまうのか。1/100秒。1cm。どうしてこう「差をつけて」勝敗を決する競技のために、人権を軽視してまでも「個人差を極限までなくして平等化」するのか。そのジレンマに、僕は納得がいかない。

 

「セメンヤが、陸上競技に女性として出場することは許されるのか」。この問いに対しては、しかしながら、僕はYesだと明言することは出来ない。それぞれにそれぞれの言い分があり、それは倫理的にどうであるかはさておき、必ずしも筋が通っていないとは言えないのだ。ある選手は言う。「セメンヤには絶対に勝つことはできない」と。別の選手はこう言う。「彼女もまたハードなトレーニングを日々やっているのだ」と。何かを取るには、何かを捨てなければならないのかもしれない。この問題は非常に大きな問題だか、解決策は見出せないような気がする。少なくとも現行システムの上では。自分達に出来ることは何ひとつないのである。歯がゆい。ただただ、このような問いを生み出してしまった、そして解決出来ない状況に持ち込んでしまった、そんな「背景」の存在に対して、嘆くばかりである。ひょっとすると、この問題はセメンヤが世界ランク30位なら起こらなかったかもしれないし、国家を背負っていなければ起こらなかったかもしれないし、身長が突出して高いなどといった状況なら起こらなかったかもしれない。サッカーや野球といったチームスポーツならなおさら起こらなかったかもしれない。そして、そう考えられることこそが一番の問題なのかもしれない。

 スポーツはついに細部の細部まで規定しなくてはならない局面を迎えているのだ。いや、厳たる規約があってさえも、ロシアの国ぐるみドーピングのような事例が起こるのである。各々が自分の医学チームを持つまでになったトップアスリートらの競技は、徹底した公平性担保機構が存在しなければ成り立たない時代になってしまったのだろう。スポーツ科学の発展は功罪相半ばしているのだ。「純粋に競うスポーツ」なんてものは、もはや絶滅してしまったのかもしれない。スポーツの美しさは、その基幹部分が既に壊死してしまっているのかもしれない。どこまでが競技なのか。果たして何を、何のために競うのか。その意味さえも分からなくなってしまいそうである。スポーツとは一体何なんだ?

媒体という悪霊 ②

( 媒体という悪霊① はこちら

 

 辞書の大御所とも言えるOxford英語辞典は、毎年11月にその年を象徴する単語を発表している。どうやらこれは、英国版の流行語大賞に相当するらしい(但し日本とは異なり大賞となるのは一語のみだが)。昨年は "emoji"だったようだ。日本語がイギリスの流行語大賞を受賞していたなんて知らなかった。ちょっと面白い :)

 

  受賞語をざっと見てみると、その中のひとつに "selfie"(自撮り)があった。2013年の大賞だ。どうやら、世界的に見ても自撮りが流行し始めたのは3年ほど前のことらしい。意外と最近なんだな、と驚いた。そう思ってしまうということは、日本においても、この3年で自撮り文化が既にある程度深い根を張って定着したということであろう。

 

 やはり自撮りが好きな人は女性に多いようである。そんな彼女らの自撮り好きに対して揶揄する人々もやはり一定数いる。自分はというと、基本的にはどちらの側にも属さないし、それらを肯定するわけでも否定するわけでも勿論ない。単なる第三者的傍観者のつもりである。ただ、彼女ら(彼ら)の「静止画を撮る」ないし「動画を撮る」という行為の目的の不明確性に対しては、少し疑問を抱いてしまう。撮影という行為が、あらぬ方へ転がっていってしまっているような気がするのだ。

 

 そもそも撮影という行為の目的とは何なのか。諸々あるだろうけど、根本的にはやはり"眼前の情景を瞬間的に切り取って、半永久的に保存すること"くらいなものだろう。動画の場合でもあらかたこんなところだと思う。撮影の本来の目的は「記録」であったはずだ。昔の人々が目指したのは、記録媒体としての器具の発明だろう。

 カメラの歴史を紐解いて行くと、ざっと1000年前にまで遡ることが出来るようだ。そして、写真撮影の端緒となるものが誕生したのは長らく後、200年前のパリらしい。当時は撮影だけでも1枚あたり8時間以上かかったようで、現像にも高度な技術を要した。無論、大衆に手の届くような代物ではなく、庶民がカメラを手にするようになったのは20世紀に入ってからのことらしい。一方戦後になると、急速にフィルムカメラが普及していった。デジタルカメラはというと、なんと平成になってからようやく店頭に並んでおり、そんな長い長い歴史のほんの一端にすぎないと言える。ちょうど自分達が生まれた頃がフィルムカメラの全盛期であり、デジカメの販売がフィルムカメラのそれを上回ったのはつい最近、2005年のことだそうだ。これには本当に驚いた。

 

 そういえば幼い頃、家の近くにカメラ屋があった。あの頃、まだデジカメは家になかった(その店はデジカメの普及と共に潰れた)。親が現像されたフィルム写真を取りに行くのに何回か付いていったのを覚えている。フィルムカメラは、慎重に撮影しなければならなかった。現像されるまでどんな風に撮れたか分からないし、失敗したからといって消去することも出来ない。撮れる枚数もある程度限られている。無闇矢鱈に撮りまくることなど言語道断であった。

 

 そんなカメラだったが、デジカメが普及し、ちょうど20年ほど前からは、撮った写真をその場で確認・消去出来るようになった。パソコンに取り込んで無尽蔵に保存することも可能になった。

 

 2000年代になると、携帯電話が急速に普及し始めた。画像加工の元祖であるプリクラが大ブームとなるのもこの頃である。そしてついに、携帯電話にもカメラ機能が搭載された。"写メール" サービスが始まった。情報化社会が急速に発展するとともに、いつでもどこでも簡単に写真や動画を撮り、保存し、送受信することが可能になった。これは長い長いカメラ史からすれば大事件かもしれない。

 

 そして2007年、突如として世界にスマートフォンが登場した。かのiPhoneである。日本では翌年から発売が開始され、同時にAndroid搭載スマホも店頭に並び始めた。スマホ市場は世界中で急速に拡大していった。シャッターを切る、なんて言葉はもはや似合わない。画面上に形とばかり表示されたボタンに触れるだけで、静止画も動画も撮れる時代が到来した。そして、その簡便性に追い討ちをかけるようにSNSが誕生した。「記録」のみだった撮影の目的は、いつしか「発信」に焦点が当たるようになり、それは年々ますます多様化しつつある気がする。

 

 SNSにアップロードするべく、「ある出来事が起こったことを記録する」のではなくて、「ある出来事を誰かに知ってもらいたくて発信する」。そんなところが"発信"の始まりだった。それが少しずつエスカレートし始めた。「あるイベントに参加したこと」を記録するのではなく、「あるイベントに参加した自分」を発信する。無尽蔵の保存容量と撮影の簡便性にかこつけて、思考停止のままほとんど反射的にスマホを取り出して撮る。自撮りだけにとどまる話ではない。眼前の情景に対して向けられるのは、真の興味・関心ではなく握られたスマホのレンズだ。あれよあれよと言う間に撮る、撮る、撮る。そこに意思はほとんど働かない。気づかぬうちに手が伸びる。さらなる自己顕示欲、そして承認欲によって人々の発信欲はますます駆り立てられていった。

 そんな状況を上手く利用したのが写真加工アプリであろう。それも、写真をより美しく見せる目的から、ついには自身をより美しく華やかに見せる目的へと瞬く間に変遷していった。カメラが発明されて200年。ついに、発信される写真や動画には、数多くの虚偽が混じるようになった。

 

 先程も述べたが、自分は決して自撮りや写真加工を否定しているわけではない。それらは、善し悪しはさておき、写真の在り方のひとつだとは思う。問題なのは、それが思考停止のまま行われていることである。ただひたすら撮る、ないし加工するのは当人の勝手かもしれないが、実際にその対象物を自分の目で見ているのだろうか。無闇矢鱈に撮ることは果たして何を目的としているのだろうか。珍しい出来事に遭遇したとき、友人らと楽しい時間を過ごしたとき、その場で静止画を撮らなければ、動画を撮らなければ、後から悔やんでしまう。静止画や動画でしかその瞬間を、その光景を、残せない気がしてしまう。そんな人はもう自身の目が働いていないのかもしれない。いや、ひょっとすると自分もそうかもしれない。

 

 美味しいパンケーキを食べた。大好きなアーティストのライブに行った。山頂から日の出を見た。 そんな瞬間は、誰でもシャッターを切りたくなる。そりゃあそうだ。でもそうやって、その情景がデジタル情報として半永久的に保存されることに胸を撫で下ろして安堵し、自分の目に直に焼き付けるということを怠ってはいまいだろうか。写真や動画として保存されるのは、前回のブログにも書いた「影」の部分だ。歓びの影、興奮の影、美しさの影。その影ばかりに意識が向いて、肝心の対象物をそのまま裸眼で見ることを忘れてはいまいか。カメラという媒体の存在が、それを邪魔してはいまいか。

 

 誰しも経験したことがあるだろうが、数年前の何気ない日常の記憶がまるで昨日のことのように想起されることが、やはり自分にもある。それは別に写真や動画に収めたわけではないのに、鮮明に蘇る。視覚だけではない。聴覚や触覚、場合によっては嗅覚、味覚などと、五感に蘇る。あれは何なのか。いや、あれこそ「自分の目に焼き付ける」ということではないのだろうか。カメラないしスマホを握り続けていては、それが上手く行えない気がする。

 

 かの有名な今は亡き写真家・星野道夫は、かつて以下のように語ったそうだ。

頬を撫でる極北の風の感触、夏のツンドラの甘い匂い、白夜の淡い光、見過ごしそうな小さなワスレナグサのたたずまい…。ふと立ち止まり、少し気持ちを込めて、五感の記憶の中にそんな風景を残してゆきたい。何も生み出すことのない、だた流れてゆく時を大切にしたい。

 写真を撮ることを生業としていても、やはり情景は心の記憶に残していきたいと考えるのである。いくら上手い写真を撮ろうと、美しく加工しようと、それは影だ。さらには虚偽だ。

 

 現代人は、カメラのレンズを通してしか事物を記憶出来なくなってはいないだろうか。もし仮に今そうでないとしても、まだスマホが世に出回り始めて10年も経過していないのである。これから先、ますますカメラの性能が発達し、カメラの在り方が千変万化していく中で、裸眼で事物を観察し、そして記憶する人間本来の能力に、陰りが見え始めることは決してない、などと断言出来るのだろうか。静止画や動画はあらゆる瞬間において撮ることが可能であり、あらゆる瞬間において見返すことが可能である。しかしながら、その簡便さが本来の豊かさを奪い取ろうとはしていないだろうか。

 

 「真ヲ写ス」と書いて、「写真」。もともと、「真」とは「人の姿」を意味したそうで、古来、写真とは肖像画のことを指したようだ。それが今となっては、写された「真=姿」さえ加工に加工が重ねられて「偽」となってしまっているのだから、皮肉なことこの上ない。

 

 真を写さぬことが可能となった媒体は、そして人々に無意識的・非目的的に使用されるようになった媒体は、満を辞して暴走を始めたのである。ああ何たるや、これこそまさに現代社会の直面する「文字禍」ではないのか。媒体の精霊によって本来の姿が蝕まれていく。ゆっくりと、しかしながら確実に。その着実性のために我々は全く変化に気がつくことができない。前回と構図が全く同じではないか。

 

 便利な媒体は悪霊である。進行性の癌のごとく、知らぬ間に身体を蝕んでいく。その脅威に気づく頃にはもう時既に遅し、レンズを通してしか世界を認識できなくなっているかもしれない。星野道夫氏のように、裸眼でありのままの姿を観察するよう常に心に留めている必要があるのではないだろうか。レンズ越しに世界を見るときは、目的的に撮影するべきではないだろうか。そうせぬ限り、我々を待つのは媒体の餌食となる運命だろう。静止画も動画も、「記憶を引き出すのに役立てるツール」くらいに捉えておいた方がいいのかもしれない。記録は記憶にはなり得ないのだから。両者は似て非なるものだ。

 

 目の前の情景にシャッターを切ることは全くもって否定しない。加工も決して否定しない。その行為をする必要があるかどうか自問すべきだ、というわけでもない。ただ、薄っぺらい二次元情報としての影を追う前に、今一度、眼前の情景を心の中に、五感と共に、深く刻み込むよう意識したいものだ。それは長い年月を経ていつしか自身に還元されることだろう。鮮明な記憶として。脚色のない、ありのままの過去として。

 

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媒体という悪霊 ①

 山月記の著者である中島敦の作品のひとつに、「文字禍」というものがある。僕はこの作品に2度出会った。1度目は中2の頃。塾の先生から中島敦を勧められて読んだ。あのときは、まだ作品の風刺がよく分かっていなかった。2度目は高3の頃。京大の過去問に出てきて、1度目とは全く異なる印象を受けたのを覚えている。

 物語のあらすじはこうだ。ナブ・アヘ・エリバ博士が、文字という「単なる線の集積」に意味を付与して記号化するのは文字の精霊であるという発見をし、人々はこの精霊に侵されていると警鐘を鳴らすものの、自身も文字の精霊の餌食となり、ついには死んでしまう。古代オリエントに起こった文字の禍(わざわい)の物語を通して、現代社会を痛烈に批判している。

 

 文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓も智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。近頃人々は物憶えが悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。

 

  中島敦の批判するところはすなわちこうだ。文字のなかった時代、人々は事物に対して感性や知恵を直接交わらせていた。しかしながら現代では、事物と感性ないし事物と知恵の間を、言葉という悪霊が媒介している。文字という便利な媒体によって、本来有していたはずの豊かさが失われてしまったと言うのである。

 

 最近、それをつくづくと感じさせられた出来事があった。かなり極端な例かもしれないけれど、ちょっと書いてみようと思う。

 

 つい先日のこと。流行りに乗っかって、友達数人で君の名は。という映画を観に行った。大ヒットしているというだけあって、良い意味で期待を完全に裏切ってくれた素晴らしい映画だった。自分の語彙力では形容しきれない作品だった。

 

 その作品のポスターのうち、酷すぎるものがある、と最近twitter2chで話題になっていた。ここに写っているものがそれだ。

 

 

 流石にこれは誰が見てもひどいと言うだろう。感想の稚拙さに作品が泣いている、という意見もあった。けれども、文字の霊に侵されてしまったがゆえに、そう思わない人もいるのかもしれない。でなければこんなポスターなんか生まれないのだから。少なくともこれを作った当人は、そういうことなのだろう。

 

 日常的に言葉を媒体として使用している以上、事物に対して何かを感じ取ろうとするときは、媒体がしっかりしていなければならない。恐ろしいのは、有する語彙が稚拙なものしかなければ、事物そのものまで貧しくさせてしまうということである。稚拙なフィルターを通過した事物は、原型をとどめるはずがない。いくら素晴らしい映画を観たとしても、それが脳に届く頃には質の落ちきったものになっていることだろう。これは当人には気づけない。

  

 こんな例ではどうだろうか。下の写真のような、海を真紅に染めながら水平線の彼方に沈む夕陽を眺めている、という光景を考えてみる。

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 中島敦が言うには、文字のなかった時代、人々はこの風景をそのまま捉えることができたそうだ。その感覚は、残念ながら文字を知ってしまっている自分には到底理解しきれない。では僕達現代人は、この風景を見てどう思うだろう。綺麗だ、美しい、幻想的だ、雄大だ。でも、そうやって感じる思いは、全て言葉を介して得られたものだ。つまり、この風景は"綺麗な、美しい、幻想的な、雄大な" 風景として、"自身の言葉を介して"認識される。どう足掻いたって、事物と人との間には言葉が介在してしまう。

 

 言語が先にあって、そうしてはじめてそれを認識できるというのは、実際のところ、認知学においてよく言われる有名な話だ。例えば、我々はイヌイットのように雪に対して52の異なった表現を用いることは出来ない。52もの雪の違いを理解することは出来ない。

 

 では、先ほどの風景を見て得られる感想が、先に挙げたポスターのような "ぐわぁ-!すごすぎる。" といった稚拙なものだとどうだろうか。結果は言うまでもない、お察しの通りだろう。すなわち、何かを感じ取ろうとするとき"言葉を介する"というワンクッションがあることによって、その言葉が稚拙であればあるほど、そこから得られるものもどんどん質の悪いものとなるのだ。

 

 では語彙力をつければつけるほど良いのだろうか。無論、稚拙な語句を使うよりは幾分かマシだとは思うけれども、中島敦は、そこに疑問を投げかける。

 

 物語の中でナブ・アヘ・エリバ博士は、ゲシュタルト崩壊(彼はそれを分析病と呼ぶ)を経験した後に、こうも述べているのだ。

 

今まで一定の意味と音とを有っていたはずの字が、忽然と分解して、単なる直線どもの集りになってしまったことは前に言った通りだが、それ以来、それと同じような現象が、文字以外のあらゆるものについても起るようになった。彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。人間の身体を見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。もはや、人間生活のすべての根柢が疑わしいものに見える。ナブ・アヘ・エリバ博士は気が違いそうになって来た。文字の霊の研究をこれ以上続けては、しまいにその霊のために生命を取られてしまうぞと思った。

 

 語彙が発達すると、逆にその事物を論理的に捉えようとしてしまう。例えば映画を観て、この場面はこういう伏線で、ここはこれを暗示していて、だからこの作品は非常に面白い!というのは直接的な感性とは少し違うような気がする(否定はしないが)。また、黄昏に染まる風景を見て、"世界中のすべてが赤く染まっていた、まるで特殊な果汁を頭から浴びたような鮮やかな赤だった(ノルウェイの森より)" なんて思うのも、文学作品の中だけで充分こと足りるだろうし、"大気に散乱されにくい長い波長の光が届いているんだ" なんて考えるのもここではナンセンスだろう。

 

 もしかすると、 一般的に美しいあるいは素晴らしいと言われるような事物に対する表現としては、「言葉に出来ない」くらいが丁度いいのかもしれない。「やばい!」であったり「感動した!泣ける!」であったり、取り敢えずその辺から適当な言葉を摘んできた、というような表現や、上に挙げたような分析的すぎる表現等は、その事物の持つ本来の姿を殺しかねない。それは芸術作品や風景に限らず、人の心を動かしうる万物に対する表現すべてに関係する。北島康介選手の発した「何も言えねぇ」がどこか純粋な響きを持つのは、自身の感じたことを下手に形容していないからかもしれない。"歓び"を言葉で適当に形容してしまうと、"歓びの影"になりかねない。

 言葉によるバイアスを極力減らして、裸眼に近い状態で接することができれば、それが結果的にはいちばん対象物を吸収できる気がする。少なくとも、"ぐわぁー!すごすぎる。" なんて発してしまった日には、もう末期だ。どうしようもない。ナブ・アヘ・エリバ博士と同様、為すすべもなく文字の霊に生命を取られてしまう運命が待っていることだろう。

 

 現代では、言語化しがたい感性を何とか言葉で表現しようとすることが、さも正義であるかのように捉えられている。しかしながら、果たしてそれは本当に良いことなのだろうか。言葉に出来ないものは言葉に出来ないままでもいいんじゃないだろうかと思ってしまう。全てを言葉にして発信する必要はないんじゃないだろうかと考えてしまう。何というか、自分達人間が、知らず知らず文字の精霊に毒されているような気がしてならない。

夏の日

 またあの夢を見た。田圃の畦道を落ちそうになりながら駆け回って遊ぶ、そんな夢だ。胸のすくような爽やかな青空の広がる盛夏だった。冴え冴えとした鮮緑の稲が陽射しを反射して眩しいほど輝いている。僕は誰かの背中を追いかけて走っていた。それなのに、気がつくと、いつの間にか誰もいなくなっていた。静まった田園に、ひとり、突っ立っていた。

 

 いつもここで終わってしまうのか、それともそこまでしか記憶がないのかは定かでない。

 

 毎日バカのひとつ覚えみたいに駆け回ったのなんて、もう10年も昔の話だ。あの頃は、毎日が飛ぶように過ぎた気がする。家を飛び出し、通学路を走って行って、朝から校庭で遊んだ。授業で寝るなんていう概念は欠片もなかった。給食を早食いして、一目散に外に駆け出した。放課後は学童クラブに行くなりランドセルを放り投げて校庭に出た。休みの日は、近くの神社で砂利を蹴散らしながら駆け回った。田んぼの脇を自転車でかすめて走った。夏休みが待ち遠しくて仕方なかった。

 

 夏休みは、非日常の楽園だった。遊ぼうと考える前に遊んでいた。宿題そっちのけで友達の家に向かったし、学校のプールが解放される日は欠かすことなく行ったし、神社の夏祭りの日は門限を過ぎるまで遊んで怒られた。景品欲しさから地域のラジオ体操にも毎朝参加した。週に2回ほど、近くで花火が上がった。ドンドンと音がし始めると、いつも家を飛び出して見に行った。暇ができれば自由研究に没頭した。暑い日は川で泳いだ。何もかもが、純粋な気持ちで楽しめた気がする。ココロもカラダも、疲れを感じている余裕すらなかった。

 

 あれから10年の月日が流れた。夏は、勉強と部活に追われるようになった。忙しかった。

 「忙しいは、"心(忄)を亡くす"と書く。」高校時代の恩師が言っていた。「だから極力使わない。」

 夏は、充実していたけれど、大切な何かを忘れているような、失っているような、心の中では少し物足りない気がしていた。10年という月日が、何もかも変えてしまったのかもしれない。自分自身も、この町も。あの夏、駆け回った家の周りの田畑は、どっぷりと土を入れられた後、どれもこれも同じ形をした、味気ない新興住宅地になってしまった。花火は、そんな建物の陰に隠れてしまい、輝きを失った音だけが聞こえてくるようになった。川の護岸は、のっぺりとしたコンクリートで整備されてしまった。夜道を仄かに照らしていた蛍が消えた。そういえば、外で遊ぶ小学生も皆目見かけなくなった気がする。少しずつ、あの夏が昔になろうとしていた。

 

 気がつくと、今年も夏が終わろうとしている。 ふと、6年前の夏休みの美術の課題で、田圃の絵を描いたのを思い出した。どこにあったかなと立ち止まって、作品を置いていた棚を漁ってみた。あった。絵の中の風景は、あの頃のまま、時を止めていた。水の音、風の匂い、そういったものが五感に蘇ってくる気がした。久しぶりにその場所に行ってみようと思い立って、家から自転車を15分ほど北に飛ばした。懐かしい風景が広がっていた。すぐ南側まで新しい宅地が迫ってきていたけれど、この場所はそのままだった。

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 でも、あの絵と何か少し違う気がした。雑草が刈られているとか、稲刈りが終わっているとか、そういう類の違和感ではなかった。多分、自分はこの風景を、淋しさにも似た郷愁の念を持ってしか見ることができない。それはそれでいいのかもしれないけれど、あの頃のように、純粋に眺められなくなってしまった気がした。

 夢の中で追っていたのは、もしかすると、もう決して手の届くことのない、あの頃の夏だったのかもしれない。

 

 今年の夏も、またそうやっていつの日か遠い日々となるのだろうか。今日の風景もなくなるのだろうか。今の自分も、大きく変わってしまうのだろうか。夢に見るようになるのだろうか。やけに孤愁に溺れさせられてしまう、今日はそんな夜更けなのかもしれない。少しずつ秋めく夜風が、音も立てずに吹いている。風に誘われてちゃらちゃらと簾が揺れている。窓辺に響く透き通った風鈴の音も、あの頃と変わらないような、でもどこか違うような、そんな感じがした。

 またいつか、あの夢を見そうな気がする。

 

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喜びの矛先

 「高校生」とか「制服」とかいうワードに心が少しばかり反応してしまうのは、まだあの夏から抜け出せていない部分があるのかもしれない。軽トラで木材を運んでもらい、汗水垂らしてネジを締めまくり、ストーリーで揉め、予算に苦しみ、久々に喧嘩し、そして久々に嬉しさから泣いた。そんな夏から、気がつくともう1年が経ってしまったという事実を、今日母校の文化祭を訪れてまざまざと感じさせられた。相変わらず、夏の暑さに負けないくらいの熱気が、吹き抜けの校舎に充ち満ちていた。

 

 文化祭なんて、正直どうでも良かった。2年間はそうやって過ごしてきた。自分にとっては部活の方が大事だった。クラス単位で優劣を競うたかだか40分の劇に、貴重な夏休みを費やすのは時間の無駄にしか思えなかった。「賞がどうした、賞が何になる。」そう思っていた。

 

 高3の夏も、同じはずだった。部活を引退したから勉強一筋で行くつもりだった。人生がかかってるんだ、遊んでられるか、と言い聞かせていた。でも知らず知らず、クラスの空気感にのまれてしまった。馬鹿にされる本気と馬鹿にされない本気があると思うけれど、明らかにあれは後者だった。本気になっている人をみると、ついつい一緒になってやってしまう。

 

 もちろん、最初はクラスもバラバラだった。当たり前だろう。腐ってもいわゆる自称進学校なんだから。高3の夏に勉強に専念したいと考えるのはごく普通だ。やりたい人だけでやるのが文化祭だ、という風潮がないこともなかった。流れを変えたのは、ある中心メンバーの一言だった。

 

「勉強忙しいのは知ってるよ。でもさ、あと少しやん。文化祭、全員でやろうよ。全員で。」

 うる覚えだが、こんな類のことを喋っていた。

 

 目標に向かってひとつになる。そんな経験は、貴重だと思うけれど、でもやろうと思えばいくらでもできる場所は存在するはずだ。部活動、ボランティア団体、企業のプロジェクトチーム。でもそういったメンバーは、"集まるべくして"集まったメンバーなんじゃないのか。最初から、"志を同じくして"集まったメンバーなんじゃないのか。

 

 あのクラスは、違った。文化祭のために集まったメンバーではない。だからまずそこに向かうところから始めなければならなかった。向かうべき一点の含まれていない平面上に集められたメンバーだから、普通ならその一点にたどり着けずに平面上を狼狽することになる。ある一点に向かうには大きなエネルギーが必要になる。

 

 くすぶっていたところに火をつけるきっかけになったのが、あの発言だったと思う。大きなエネルギーが生まれた気がした。四分五裂のクラスに、少しずつ、光が見えてきた。何かに導かれるような気がした。それは、数十のてんでばらばらな方位磁針にそっとN極が近づいてくるようだった。針が右、左、右と動くうちに、その振れ幅は小さくなった。みんなの視線の方向がある一点に定まってきたときのあの感覚が、忘れられない。どのクラスも、そんな感覚を味わっていたんじゃないだろうか。金賞という一点をクラス全員で見つめるあの感覚を。3年のフロアに広がる気合いは、去年一昨年のそれとは質の違うものだった。

 

 目標到達を直前にして気づくことは多い気がする。必死に走ってきたんだけど、最後の最後に、ちょっとだけ振り返る余裕があった。リハを終えて、これまでが何物にも代え難く楽しかったと思えたし、結果より過程で成長するんだから、結果なんていらないと思えた。もちろん、結果が与えられる前提であのエネルギーが生まれているから、結論から言うと結果は必要なんだろうけど。

 

 本番を終えて、結果なんてもう色んな意味でどうでもよく思えてきた。成果主義なんて糞食らえと思った。

 

 閉会式。全校生徒の前で結果が伝えられた。金賞は、自分達のクラスだった。

 

 その瞬間はもう文字どおり飛び上がるくらい嬉しかった。けれども、一通り余韻に浸ったあと、ほとぼりが冷めてから、ふと感じた。金賞じゃなかったらどうなっていたんだろう。よくよく考えてみると、結果がどうであれ、過程はそれに左右されないんじゃないか。過程によって結果が左右されることはあるとしても、逆は決して成立しない。時間は不可逆だから。

 自分達には、揺るぎない過程があった。それは他のクラスも同じだった。賞なんてあろうがなかろうが、過程に対して素直に喜べるんじゃないか。それを理由に集まった訳じゃないのに、ひと夏を、汗水垂らして、同じ方向を向いて、共に頑張った仲間がいたんだ。市の青少年センターの一室を借りて、制服のまま夜中まで練習したあの日のことが、忘れられない。

 

「賞がどうした、賞が何になる。」

あの頃とは言葉の持つ意味が違う。過程は決して外部から評価することはできない。10年経って振り返って残っているのは、結果ではない。間違いなく過程の方だ。

 

「青春」とでも呼ぶのだろうか。1年前を思い出しながら、夕暮れを天窓に映した結果発表後のアトリウムで、肩を組んで天体観測を唄い狂う高校生を眺めて、受動的な感動に浸っていた。あんな経験は、人生でもう二度と出来ない気がした。時間は不可逆だから。

 

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檻の中の安寧

 最近、ちょくちょく中学時代の友達に会う。懐かしい話が出ると、秋めく風も相まって何だか少し感傷的な心地になる。馬鹿やってた「あの頃」が少し遠くなった気がする。

 僕は地元の公立中学校に通ったけれど、あそこは高校や大学と比べるとちょっと野蛮な環境だったのかもしれない。それ以上でもそれ以下でもないし、別に貶しているわけでもない。「野生的」かと言われると、そうではないような気がする。どこか違う。どちらかと言えば対極にあったんじゃないだろうか。野生ではなく飼育。動物園といったところかもしれない。知らず知らず、檻の中に入れられていた。自分の周りには十人十色、様々な動物がいた。群れ騒ぐ猿、爪を隠した鷹、一声で雀をまとめる鶴、一匹狼、毛並みの綺麗な猫、飼育員に噛み付くゴリラ。賑やかで楽しかったけれども。

 

 檻はそんなに狭くはなかったし、息苦しいと感じたこともなかった。けれども、居心地悪そうにしているやつも一定数いて、中には飼育員を目の敵にする者もいた。それでも、彼らはそれが仕事だから、そいつらを見放したりすることは決してなかった。

 

 一方で、高校での3年間は、動物園ほど騒がしいことはなかった。あそこはいわば保護区のような場所だった。檻は消えていた。その代わり遠くの方に一応とばかりに柵があった。解き放たれて不安はあったけれども、身の危険を感じることは全くなかった。少し離れたの木の陰から、いつも双眼鏡を手に見守ってくれている人達がいた。餌を与えられることはなくなったものの、行動できる範囲が一気に広がったし、何かあれば彼らは手を差し伸べてくれた。

 

 大学はどうだろう。ここは楽園だ。「自由」を謳っている。だからもちろん、柵も、あの見守ってくれていた人影も、もうどこにも見えなくなった。背後には辛うじてまだ親の存在があるけれども、それももうあと数年の話だ。今、少しずつ、大きな世界に足を踏み入れようとしている。「野生」が始まる。

 

 囲いのない野生の世界は、すなわち弱肉強食の世界である。そこには、数多くの危険が伴う。自己の生命は自分で守らなければならない。その中で食糧を己で調達し、配偶者を見つけ、子を守り、そして常に変わりゆく環境に適応せねばならない。周期的に、厳しい冬や渇いた夏もやってくる。自由と引き換えに、危険な世界が待っている。天国は、地獄と紙一重である。

 

 今になってようやく気づかされた。檻や柵は、自分達を逃げ出さないように縛るためのものではなく、むしろ自分達を外の世界から守るためにあったのだ、と。

 

行儀よくまじめなんて クソくらえと思った
夜の校舎 窓ガラス壊してまわった

逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった

                                         ー 尾崎豊/卒業 より

 囲いの中の動物のうちには、"この支配からの卒業"を引っ提げ、自由を求めて檻をぶち壊そうとするものもいる。数年待てばいいものを。自由にはそれ相応の対価が発生する。自由とは、(特に血気盛んな若い者にとっては)非常に危険なものである。

 

 檻や柵を作ることは、支配というより愛に似ているような気がする(愛が一方向に行き過ぎると支配になると思っている)。しかし血気盛んな若者は、愛に気付かない。だから孤独を感じてしまう。目の前の格子にしか焦点があっていないから、外の世界が虹色にボヤけている。檻を破って喜ぶのも束の間、はたと彼らは気付くだろう。自由の恐ろしさに。あるいはそれまでに強者に喰われるか。

 何だか、憲法9条を盾に、血を交えることをも辞さない勢いで自由民主主義を求める人々と構図がよく似ている。彼らは安保を睨みつけているから、平和という虹色の未来が見える。だが、防衛とは、支配ではなく、ある一線を超えない限り「愛」なんじゃないか?支配を危惧して愛までも手放すと言うのか?(但しここでは檻は時間経過とともに消滅することはないが。)まぁいいや、話を戻そう。

 

 檻を作れば、自由の範囲は多少制限されてしまうものの、檻の中に極めて安全な地帯を作ることができる。雲には届かないかもしれないけれど、奈落の谷は塞がれている。動物達は、檻の中のことだけを考えて生きていればいい。そこならいくらヘマをしても許される。檻の中で成長すればいい。ただ、いつまでも井の中にいてはいけない。じきに、檻も柵も消えてしまう。世界に一歩踏み出すことを迫られる時期が、いずれ訪れる。勉強だろうが、部活だろうが、恋愛だろうが、所詮、「あの頃」の懐かしい話というのは、囲いの中の小さな世界の出来事に過ぎなかった。

 

ふと、高校時代の恩師の言葉が浮かんだ。

「狭い世界にとどまるな。早く社会に出ろ、荒波に揉まれろ。」

 檻の中は、航海への準備期間である。早まると、積み忘れが起こる。未熟な船は、荒波に難破することだろう。青い蛙は、大海など知るよしもない。