ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

ハタチ

 

 街の中で親と子が仲睦まじくしているのを見て涙が溢れてきたのは、何かを思い出したからでも、もう戻れないからでもなかった。単にその現実が、19歳だった自分にとって重すぎただけだった。

 

  pHが5〜2の毒物を飲みながら過ごす日々がどれほど苦痛でどれほど孤独であったか。生きようとする自分の細胞が殺されていくのをひたすらに耐えるその工程がどれほど長くて重いものだったか。その烈しさは筆舌に尽くし難い。しかしながら今日となっては過去。遠い昔の痛みを感じることは僕にはできない。いや、おそらく誰一人としてできない。肉体的な痛みというのは今この瞬間においてのみ、そして自身の内部にだけ、存在しうる。

 

 でもあの当時の精神的な苦痛は今日でも蘇ることがあり、気がつけば僕は病室のベッドに横たわっている。真っ白なシーツと消毒液の匂い、微かな機械音、無機質なカーテン。あれは天国の装いをした地獄だった。寝たくても寝られない、食べたくても食べられない、歩きたくても歩けない、‪吐きたくても吐けない、死にたくても死ねない。僕にできたのは、ただ規則的に呼吸をすることと、管を伝って腕の中に入っていく毒を見つめることだけだった。

 

 妊孕性  ーこの字は読めないままで良かった。この言葉を使うことのない人生が良かった。僕は将来幸せでなくてもいい、金持ちでなくてもいい。ただ、いつか自分の子供と酒を飲めたらいい。そう思っていたし、今でも思っている。そんな些細な楽しみでさえ、毒物は奪っていった。

 

 妊孕性 ーにんようせい。妊娠のしやすさ。若年者のがん治療では、この妊孕性の温存が最優先される。毒物は、精子卵子も破壊してしまう。

 

 僕は精子保存ができなかった。原因は分からない。そして保存に失敗したまま、毒物の投与が始まった。精神がおかしくなりそうだった。「あなたは、死にます。万が一生きながらえたとしても、子供を持つことは許されません」神は僕にそう囁いた。

 

  昨日、家に届いていた2つの葉書を消費した。成人式のお知らせの葉書と、日本脳炎の予防接種の葉書。

 成人式の葉書には、午前の部の出席欄に丸をつけてポストに投げ入れた。日本のシステムの下では、20年間生きていれば、善人であろうが悪人であろうが勝手に成人する。これまで何億人、何十億人の日本人が成人してきた。その何がめでたいんだ、と毎年のように荒れる北九州の成人式のニュースを見ては感じていた。

 けれども、必死に生きながらえた今となって思うのは、その節目がさも当然のように流されてはならないということだった。20という数字は、思っていたよりも祝うべきものであった。

 

 もう一方の葉書、こちらは20歳未満無料の予防接種のお知らせだったが、それを10代最後の日に受けた。日本のシステムでは前日に歳をとることになっているから、厳密にはアウトかもしれないが、何も言われなかった。

 予防接種は昔からかかりつけの小児科で受けていた。母子手帳を持って、数年ぶりに訪れた。

 

「久しぶりだね」先生は僕のことを覚えていた。僕の比較的小さな身長をまじまじと見て「大きくなったね」と言った。問診票の既往歴「胚細胞腫瘍」には触れられなかった。聴診器を手術跡に当てると、彼は大きく頷いた。

 

 予防接種後は20分間安静にするのが医療機関の鉄則で、僕は母子手帳に最後になるであろう判子を押してもらった後、待合室で過ごした。生前から使われてきたボロボロの母子手帳を開くと、母親の字で色々なことが書いてあった。20年の歳月が数ページに詰まっていた。

 

【出生時】

体重 2955g

身長 48.0cm

 

【保護者の記録】

1歳、輪投げ、絵本が好き

2歳、両足ジャンプが得意

弟が生まれ少々赤ちゃん返りしている

3歳、ピアノを始める

4歳、パズル、お絵かきに夢中

5歳、弟が可愛く、世話をよくしてくれる

6歳、自分の名前や手紙を書いたりする

 

 

 ページをめくっていると、待合の扉が開いて若い母親が入ってきた。母親の腕には幼子が抱かれていた。その子も予防接種を受けたのだろう。小さな命は、僕を丸々とした目で見つめた。僕はその瞳に微笑み返した。1歳前後の子だった。この子にもし自分の血が入っていたら、その可愛さはさらに何倍にもなるのだろう。愛くるしいその目は、しかしながら、微笑む僕にこう囁いた。「あなたは運良く生きながらえたけれど、子供を持つことは許されません」

 

 

 僕自身の妊孕性が果たして失われてしまっているのかどうか、それは知らない。失われていない可能性も十分にある。僕が受けたBEP療法はリスク分類で言うと30%〜70%の中リスク群に相当する。検査すればすぐにわかるけれど、怖くてできない。もし検査で現実を叩きつけられたら、僕はその勢いで死んでしまうかもしれない。自分の子供とお酒を飲む、そんな夢をまだ見続けていたいから、一縷の望みにかけて、僕は検査をしない。子供と一緒に過ごせないのなら、生きていても仕方ない。少なくとも今はそう思う。

 

 もう二度と上書きされることのないであろう母子手帳を静かにカバンに入れ、 雫の降りしきる大通りを傘を広げて大学に向け歩いた。10代が終わる日は朝から雨だった。それでも、講義を終えて建物から出たとき、夕刻の西の空は透き通るような茜色に染まっていた。人生とは、そういうものだと思い知らされた。

 

 信号待ちをしながら子供の手を握る父親がいた。ママチャリの前かごに乗せた子供に話しかける母親がいた。僕には、ただ手の届かないそれを微笑んで眺めることしかできなかった。

 

 ここまで20年、何はともあれ生きてきた。生きていることの喜びと、生きていくことの難しさを同時に感じながら、星空を見上げた。今朝の雨予報も嘘だった。20回目の誕生日を迎え、食卓を囲んで親と酒を飲みかわした。うまかった。うまかった。泣きそうになるほどうまかった。食後のケーキを食らいながら、アルコールの余韻と幼子の瞳は、いつまでも頭蓋に響いて離れなかった。

 


 名神高速新名神高速、名阪国道を初心者マークで飛ばし、さらに山道を延々と抜けて辿り着いたのは、三重と奈良の県境だった。立派な平屋建てと金魚の泳ぐ池、見渡す限りの緑。記憶のある限りでは、初めて訪れた。ここで生涯を過ごした曽祖母は、僕の退院直前に亡くなった。享年百九歳であった。

 田舎と言うにもしっくりこない。さらに上を行く表現が必要な、そんな場所だった。コンビニはおろか、電波さえ入らない。「いちばん近い自販機まで数キロある」と初めて会った同い年の再従兄弟が教えてくれた。

 曽祖母の初盆供養。白い布のかかった精霊棚には、故人の遺影が置かれ、その周りを色とりどりのお供え物が囲んでいた。知らない人も多くいた。この人はじいちゃんの兄弟の息子さんの奥さんで、こっちが娘さん。初めまして。こちらこそ初めまして。云々。こっちは誰々ちゃんの家族。再従兄弟の従姉妹の子供?ほら〇〇、挨拶は?ー 〇〇です。可愛いね、いくつ?ーろく。6歳かぁ。何て言う関係になるんだろう、調べようかな。あぁ、電波が入ってないわ。云々。

 昼前に弁当が20箱ほど届き、あらかじめ用意されていた数十本のビールと日本酒は瞬く間に空き瓶の山となった。「この家系は代々酒呑みや、あんたんとこの爺ちゃんもよお飲んどったでぇ。」「昔はみんなここで飲んでそのまま車乗って帰っとったしな、えらい時代や。」「せやせや、あれ一回事故したで。」「一回ちゃうちゃう、もっともっと。」自分から見て誰なのかよく分からないおっさんが赤い顔で調子よく喋る。「ボウズ、飲むか?」「いや、ノンアルコールでいいです。」「飲みたいやろォ。」「こらこら、運転手やのに勧めたらいかんがな。」

 机に連なった食べ物が、次から次へと手をつけられてなくなっていった。「元気に飲んで食べて、それが先祖のいちばんの供養ヤァ。」




 先日、兵庫の父の実家にも行った。祖父と祖母の盆供養をした。そのときのお経の後の坊さんの説法を思い出した。

「お盆というのはね、もともとは餓鬼道からの救いなんです。釈迦の弟子の目連が、餓鬼道に落ちて苦しんでいるお母さんを救おうと釈迦に教えを請いたんですね、そうして供養したのが、今の盆の始まりなんです。ですから、食糧に飽いた昨今こそ、やはりその恵みに感謝することを忘れてはならない。手を合わせるっちゅうのはそういうことやと思いますね。」

 目の前に並べられた酒と弁当は、瞬く間に我々の腹を肥やしていった。坊さんの言うように、それは当然ではなく、手を合わせるべきものなのだろう。我々が手を合わせるのは、何かを祈るとき、請うとき、謝るとき、そして飯を食うときだ。回数で言えば最後が圧倒的に多い。手を合わせなければ我々は生きてはいけない。

 


「ここは昔は田んぼとか畑やった」。蝉の鳴き声をかき分け墓参りに行く途中、父に教えてもらった。父の指差すその先には、荒れた山林が広がっていた。半世紀も経つとこうも変わるのかと思った。かつては自給自足の生活をしていた社会も、その影を残してはいない。食を自らの手で作らぬ我々は、坊さんの説法によると「餓鬼を忘れている」のだそうだ。先祖を弔うことだけでなく、恵みに感謝すること、それが盆なのだと知った。


 墓は山の上にあった。かつては土葬だったそうで、墓石ではなく木の墓標が土に刺さっている。区画なんてものも一切ないし、自分が立っているところの下に遺体があることを否定できない。曽祖母は火葬だったが、見た目は土葬と同じだった。曽祖母の横の墓標は、木が朽ちて黒くなり、文字が書かれていた形跡さえなくなっていた。根元はボロボロになり、あと一回大雨が降れば倒れそうだった。「ここらへんがうちの家の人やし」「ここは誰?」「爺ちゃんか、婆ちゃんか、あれ、どっちや、どっちかやわ。」「木に書いた文字は20年経つと消えるからねェ。」

 朽ちていく墓というものを初めて目の当たりにした。輪廻転生を強く意識させられるものだった。磨かれた墓石の対極とも言えるこの墓標は、一方で、どこか人間味のある不思議な存在だった。「ビールかけたって、好きやったから」「お墓にビールかけるんですか?」「いつもそうしてるで、ほら爺ちゃんビールやで」「うまいうまい言うてるわ」『ワハハハハ』
 ビールなんかかけるから腐るんじゃないか、なんて思うのもナンセンスだろう。とりあえず地面を泡だらけにしておいた。中身が尽きたところで缶を置き、先祖と恵みに、静かに手を合わせた。


 そのとき、ふとある考えが脳裏をよぎった。



 僕はこうして手を"合わされる"側の人間だったのかもしれない。



 この一瞬、鳥肌が立った。あの感覚は、恐怖というよりもむしろ畏敬であった。何か人智の及ばぬ荘厳なものに遭遇したときのそれだった。僕はもしかすると死んでいて、経を詠まれ手を合わせられる側の人間であったのかもしれない。いや、十二分にその可能性はあった。手を合わす人間と、合わされる人間、その全てがこの山の上に集まっていた。



 墓参りを終えて家に戻ると、居間のテレビから、甲子園の試合終了を告げるサイレンが聞こえた。ひと夏の終わりが、線香の匂いの漂う広々とした和室に粛然と鳴り響いた。そう言えば、あのサイレンは空襲警報と同じだった。戦時中は間違えぬようにサイレンではなくラッパだったと言う。サイレンを聞いて夏の甲子園を感じられる今は、平和そのものなのだろう。今日は終戦記念日だ。「先祖を弔い、恵みに感謝する」。お燐を鳴らして静かに手を合わせた。しばらく談笑したのち、親族に別れを告げてからこの家を後にした。

 

 

 死んだ者も生きている者も、昔からの馴染みも初めて顔を合わせる者も、歳月を超えてこのひとつ屋根の下に集まり、そしてまた各々の家に帰る。朽ちた墓標とビール瓶、庭の金魚、サイレン、線香の匂い。日本の盆が、ここにはあった。エンジンブレーキを効かせ、ゆっくりと細い山道を下る。酒を飲んだ親父は車の後部座席で赤い顔をして寝息を立てていた。夕暮れの山々にはヒグラシが木霊していた。

 

 

 

 

僕達は生きていて、彼女は死んだ。

定められた運命だったのだろうか。

僕達の心臓はまだこんなに脈打っているというのに、彼女の心臓は跡形もなく灰になった。

 

 

癌が、また一人の人間を殺した。

 

 

「愛してる」。

その一言を絞り出して、1人の女性がこの世を去った。

 

その一言「愛している」と言って. . .  そのまま. . . 旅立ちました . . . 。
「愛してる」の「る」が聞こえたか、聞こえないか. . . ちょっと分からないですけど. . . 。

 

 夫はそんな日も淡々と二公演をこなし、ブログを何度も更新した。それでも、記者の前で話す1人の歌舞伎役者の姿は、どこか孤独に感じられた。「いつもと変わらぬ」と題したその日のブログにはこう綴られていた。

 

どんな事があろうと、
舞台。


役者になるとは
そういう事なのかもしれません。

 

 

 思い出したのは、浅田次郎の「鉄道員(ぽっぽや)」だった。北海道のローカル線の終着駅で、娘が死んだ日も、最愛の妻を亡くした日も、怯むことなく旗を振り続けた駅長の姿に、彼が重なる。

 

ポッポヤはどんなときだって、げんこのかわりに旗をふり、涙のかわりに笛をふき、大声でわめくかわりに、歓呼の裏声をしぼり出さなければならないのだった。
ポッポヤの苦労とは、そういうものだった。

 

 彼女の死と、彼の言葉は、重く深く、それでいて優しくのしかかってくるものだった。

 僕自身は闘病中、幾度となく彼女のブログを読んだ。闘病記を始めたきっかけも、彼女のブログだった。強く生きる姿に、どれほど後押しされたことだろうか。

 

人の死は、病気であるかにかかわらず、
いつ訪れるか分かりません。
例えば、私が今死んだら、
人はどう思うでしょうか。
「まだ34歳の若さで、可哀想に」
「小さな子供を残して、可哀想に」
でしょうか??
私は、そんなふうには思われたくありません。
なぜなら、病気になったことが
私の人生を代表する出来事ではないからです。
私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、
愛する人に出会い、
2人の宝物を授かり、家族に愛され、
愛した、色どり豊かな人生だからです。
だから、
与えられた時間を、病気の色だけに
支配されることは、やめました。
なりたい自分になる。人生をより色どり豊かなものにするために。
だって、人生は一度きりだから。

                                   (BBCへの寄稿より)

 

 彼女の苦しみは決して分からないけれども、彼女が死んだからといって可哀想だとは思わない。思ってはならない。そう思って欲しくはないと彼女が言っていたのだから。"一度きりの人生" を他人から可哀想だなんて言われる方が可哀想だと思う。(34)と記された数字を見て、若いのにね、なんて言うコメンテーターなんかぶん殴ってやりたかった。愛する家族に自宅で看取られて、最期に「愛してる」と伝えられて、それは彼女が望んだ形での幸せだったんじゃないですか。

 

 

 

 先日、入院時に仲良くなった患者さんから、京大病院に外来診療に来たよと連絡があった。講義は午前で終わったので行ってみると、別の患者仲間も来ていた。久々の近況報告に話が弾んだ。しばらくすると、ポータブルの呼出受信機のベルが鳴った。

 

 

 彼らの診察を待つ間、病院3Fにある図書コーナーで時間を潰した。棚を見ていると、ある一冊の古びた本が目に止まった。昭和53年発行、題は「死を見つめて」。最後のページには赤い字で「廃棄」と書かれていた。文字は黄ばみ、ハードカバーの装丁はボロボロになっていた。

 

その本を手に取ったのは、僕自身が、死を見つめることを望んでいたからかもしれない。退院してからは死が遠ざかっていた。ブログを2ヶ月も更新しなかったのは、紛れもなくそういう理由だった。自分も、患者仲間さん達も、「生きている」のである。多少の不自由があるにしろ、さも当然のように生きている。ある人は2年生存率が50%をきっていたし、ある人は僕と同じ年齢で両肺移植を受けていた。そしてそうした背景には、患者と同じ歳頃の、夢半ばで脳死したドナーがいたはずだった。

 あるいは僕自身も、半年後死ぬことを半ば覚悟していた。20歳まで生きられたらいいな、なんて思ったこともあった。それなのに、あれだけ待ち望んだ「当たり前の日常」は、平然と過ぎ去っていく。こんなにも生きたかった今日は、雑踏に紛れていく。

 

 

 深刻な病におかされて、僕達は生きている。その一方で、彼女は亡くなった。昨年9月に夫が妻の乳がんを公表したとき、5年生存率は、おそらく自分と同じくらいだった。今日という日を彼女は切実に生きたかっただろうし、僕達は今日を何食わぬ顔で生きている。

 

 

 遺された夫と子が強く生きようとする一方で、僕達は一体何をしているのだろうか。

 

 

 愛すべき世界でもう生きられないということ、愛する家族を失うということ、そんなもの何も知らなかった。

 

 

 まお、|ABKAI 市川海老蔵オフィシャルブログ Powered by Ameba

 

 胸が痛む。

 

 

 本のページをめくっていると、こんなことが書いてあった。

 

 太宰治は、「優しい」という字が、「人」ベンに「憂い」と書く、と言う。ひとに対して優しいのは、自分の中に憂いを持つ者だけである。憂いによって憂いが癒されるのである。

 

愛する者の死に直面する、その日が来たならば、優しい人間となろう。今日の自分の憂いを憶えないならば、明日、人に対して優しくなどあり得ないだろう。愛する者を失うという憂いと傷とを、じっと嚙みしめよう。人が人を真剣に愛したという重み、そこに生死を超えた永遠がある。

 

 夫は、妻がなくなった日のことを「人生でいちばん泣いた日」と綴った。その憂いは、癒されることのない傷なのだろうか、僕には分からない。

 それでも、人を憂えることが優しさであり、そういう優しさこそが愛であるとするなら、彼女の最期の言葉は、「愛してる」のその一言は、いつかきっと、憂える彼を優しい心地にいざなうことだろう。そうあってほしい。

 

 彼はブログに「優しさは愛」だと綴っていた。愛と憂い、憂いと優しさ、優しさと愛。

 

 

 昨年のブログの中で、彼女はこんなことを書いていた。

何の思惑もない優しさが
この世界にも、まだたくさんある。
たくさんあるけれど、
出会うのは難しい。
ほんものの優しさ。

 

 彼女が出会った夫は、そういう優しさを持つ夫だったのだろう。そして彼の憂いは、子への優しさへと移ろい、時間をかけて再び愛へと変わるに違いない。憂いこそ優しさであり、優しさこそ愛であるのだから。

 

そして何もない時間|ABKAI 市川海老蔵オフィシャルブログ Powered by Ameba

 

 人生が長いか短いかなんて、そんなものどうだっていい。生きた年数を評価するくらいなら、平均寿命なんて知らない方がいい。ステージⅣを宣告されて、余命を宣告されて、最期の時間を家族と過ごすことを決めて。それでも「奇跡はまだこれから起こるんです」と信じる夫と、母想いの2人の子供に支えられて。それはある意味では、ある人にとってみれば不幸なのかもしれないけれど、僕にはそう思うことはできない。僕の祖母は癌で亡くなる直前まで笑っていた。強く生きていた。僕自身は、癌になってから初めて生きることの素晴らしさを知った。生かされていることを実感できた。あるいは、そういう経験があったからこそ言えることなのかもしれないけれど、彼女は、周りの人々に恵まれ支えられ、そうして本当に幸せな人生を歩んだのだと思う。

 

 憂いと優しさと愛とを、本当の意味で知った人生を。

 

「家族に愛され、愛した、彩り豊かな人生」と虚飾なく思えるような、そんな幸せな幸せな人生を。

 

 

 

 

 御冥福をお祈りいたします。

 

 どうか、彼と子が、これからも幸せな人生を歩めますように。

 

 

 

 

 散ればこそ   いとど桜はめでたけれ

     憂き世になにか    久しかるべき

                                 ー 伊勢物語 八十二,  詠み人知らず

 

 

 

 今年も桜が咲いていた。道行く人が思わず立ち止まり上を見上げる、そんな季節だった。入院中、幾度となく歩いた鴨川も、仄かな桃色で彩られていた。凍てつく寒さの中、いたたまれなくて病院を飛び出したあの日の川辺の面影は、もうすっかり東風に吹かれてどこかへ行ってしまっていた。

 

 

 まだまだ退院までは遠いけれど、ひとまず寛解だと告げられて、長かった春への道のりを、少しばかり回顧していた。

 

 

 

 強いね、とよく言われたけれど、決して強くはなかった。強がることには昔から長けていたから、そうしていただけだった。死にますよ、と言われて平気な顔をしているフリをしていた。見栄だけは一人前だった。そのうちにどれが自分の感情なのかを見失ってしまった。

 

  治って良かったね、とよく言われた。自分は確かに見栄を張って笑って頷くけれど、心ここにあらずな気がする。もう笑っているのか口を結んでいるのか、泣いているのか怒っているのか、果たしてどれが自分の感情が創り出した表情なのか分からなくなってしまった。心は無表情のまま、ただ脳に従って、顔だけに物理的な繕いを生み出している気がする。コミュニケーションの潤滑油として、ありもしないところから無理に表情を引っ張ってくる。生ぬるい無造作な皺が、心との温度差を生じる。癌になったとき、自覚が全くなかったように、寛解を告げられたときも、やはり自覚はなかった。全てが無知覚だった。

 

 

 癌に治癒なんてあるのだろうか。寛解と治癒とは似て否なるものだ。再発と併発の影に振り向きながら歩く。

 

 

 

 5年以内に死ぬだろうと思って生きることの恐怖と失望とは、あなたには決してわからない。なぜなら自分にもさっぱり分からなかったからだ。「死」が分からないから、何に対して恐れ、何に対して悲観しているのか、それさえも分からなかった。分からない、ということに対して悶え、怒り、泣いた。ひとつ言えることは、僕自身の癌が再発する可能性は少なからずあり、そして死ぬ可能性も消えたわけではないということである。自分の癌が治癒したかどうかなんて、10年経っても分からない。背水を気にせずどう生きろというのか。

 

 

 

 

 一方で、自分の存在がこの世から消えうることを恐れていたかというと、そうではなかった。人間どうせ死ぬんだから、いつでもいいんじゃない?みたいに考えることもあって、それはある意味では間違っていて、ある意味では正しい。絶対的「死」を超えられるものが今までにあっただろうか?憂き世に何か久しかるべき、とは千年経てど変わらないし、科学が自然を凌駕することは決してない。万物無常、早かれ遅かれいつかはサヨウナラ。じゃあ悲哀の対象はというと、"存在がなくなること"ではなくて、寧ろ、"忘れられること"だった気がする。

 

 

 

 

     -  散ればこそ、めでたけれ。

 

 桜というものは咲いては散るから、その刹那の美しさに気が気でなく振り回されてしまうのだ、と詠んだ在原業平に対して、桜は散るからこそ美しいのですよ、この世に永久に生き続けるものはありません、との返し。それが詠み人を知らぬ冒頭の歌である。

 

 

 桜の美しさが、それ自身が散ることによって担保されるように、生命もまた死ぬことによって美しくあるのかもしれない。さすれば、その美しさは残酷である。巨木を成していた集合体は、風に吹かれて芥と化す。道端に散り、雨に踏まれて滲んだ薄桃の花びらは、いつしか土に還り、そして忘れられる。我々が桜を覚えているのは、年に一度必ず春がやってくるからだ。人の死が残酷であるのは、長い歳月が、その人が生きたという記憶を抹消するがゆえのことである。散った生命が再び花咲くことは決してない。そうして記憶から消されたものは、その時点において二度目の死を迎える。これは恒久的な死である。永年の冬である。

 

 

 人が死を恐れるのは、死が不可逆ゆえではないと思う。少なくとも、自分の場合は初めはそうであったものの、数ヶ月経つと変わってきた。もっとも恐るべきは「忘れられること」であった。「わたし」が生きたという証さえもが土に還ることを、恐れていた。あなたに会えないことよりも、あなたに忘れられることの方が恐ろしい。生きたことが忘れられた時、「わたし」はその人にとって存在しなかったことになる。その人を忘れたとき、あなたは無意識にその人を殺している。

 

 

 それでも、いつかは忘れられるものだ。どう足掻こうと生命はいつか失われる運命にあるし、その生命の記憶もやがては消されてしまう。恐るべき忘却力を持って。一度目の死も二度目の死も、避けては通れない。そして人々が恐れるのは、一度目の死を超えたところにある二度目の死である。

 

 

 

 生命とは、驚くほどに弱い。ひょんなことですぐ死ぬ。交通事故死のニュースを見て、あぁこの人は昨日まで家族と食卓を囲んでいたんだろうな、友人と遊んでいたんだろうな、と思うと、人間の非力さを感じる。自分の場合でも、癌に対して自身ができることは何もなかった。弱い。無惨にも散っていく。散ったものはやがて記憶からも消え去る。

 しかしながら、雨に打たれ風に吹かれて散らない桜は、あるいは人々に忘れられることなく常に咲き続ける桜は、もはや美しくないのかもしれない。桜の咲き誇るほんの刹那の栄華と、儚く散りゆく姿。それらは、人の一生にもまた似ている。雨にも負けて、風にも負けて、そうして一瞬のうちに散りゆくから生命は美しい。常緑樹よりも桜や紅葉が美しいのは、散るという行為あってのものである気がする。死こそが生命を生命たらせ、そうして平等にする。どうやら、人間というものも、いずれは死に、そして忘れられるからこそ、美しくいられるようだ。残酷さが、美しさを創り上げる。そんな「死」を恐れるのは、どこか筋違いな気がした。

 

 

 

 雨に濡れる緑の混じった葉桜を見上げる者は、もう誰もいなかった。水たまりを避けて、皆足早に過ぎ去る。散った花びらは道端の側溝に流されていった。今年も、美しい桜が忘れられていく。散ればこそ、めでたけれ。今年の桜の死と、その忘却こそが、来年の桜を美しくする。

 

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望み

 

 僕達は似ていた。性格。傷跡の長さ。気の持ち方。車が好きなところ。野球ファン。ひとつ大きく違うとすれば、それは、この世に存在する病が治せるものと治せないものに大別されるという前提において、僕は前者で彼は後者である、ということだった。

 

 僕が入院している呼吸器外科には肺移植された患者さんが多くいて、彼はその一人だった。京大病院は日本に10施設しかない肺移植手術のできる限られた病院のひとつであり、また日本で初めて生体肺移植を行ない、僕の手術にも立ち会ってくれた伊達教授がいる。その伊達教授に彼が最後の望みを託したのは、3年前のことだった。

 

 

 4歳になる子供がいるという彼は、僕の父よりはひとまわりほど若かった。肺移植で日本の最先端を行く京大病院には日本全国から患者が集まり、彼は三重県在住だった。気さくに声をかけてくれたのは、僕が大部屋に移って同じ部屋になった1週間ほど前のこと。僕達はすぐに歳の差を忘れるほど仲良くなった。当初は4人部屋に2人しかいなかったから、何だか共同生活のようだった。文字通り寝食を共にした。

 

 

 彼は膠原病に侵されていた。発覚したのは35歳の時だった。膠原病とは、平たく言えば自己免疫疾患であり、自らの免疫系が自分自身を攻撃するという、未だに原因不明の恐ろしい病気である。膠原病の治療法を確立することができればノーベル賞は確実であるとまで言われており、いわゆる「難病」だ。自分の体が自身を攻撃するのを、ただ黙って眺めることしかできない。根本的な治療法は存在しない。そんな不治の病と闘う彼の気持ちなど、推し量ろうとすることさえ憚られてしまいそうである。

 

 

膠原病」というのは「癌」と同じく、病気の総称である。僕の病名が癌の中でも"縦隔原発胚細胞腫瘍"であるように、彼の病名は膠原病のひとつ、"全身性強皮症"であった。これは全身の皮膚が硬くなっていくだけでなく、末梢循環障害と呼ばれる、手足の血行が非常に悪くなる障害を伴い、さらには全身の様々な臓器が病変していくという、難病中の難病である。

 

 

 この病に侵され続けて彼の肺はみるみるうちにボロボロになり、ついに数年前、このままでは死ぬ、というところまできたという 。間質性肺炎だ。そこで彼が頼ったのが京大病院の伊達教授だった。脳死肺移植に、生きる希望を託したのである。2年生存率が50%を切った者は、肺移植を受けることができるのだ。

 

 

  しかし、いくら京大病院とはいえ、肺移植のリスクは極めて高い。移植後に、その肺が動き出さないことが多々あるからだ。そうなれば、もうこの世には帰ってこられない。全身麻酔で眠らされた後、二度と目覚めることはない。肺移植は心臓移植をはじめとする他のどの移植手術よりも難しく、術後生存率も極めて低いのである。

 

 

 彼が昔、病院で仲良くなったという移植手術待ちの女性も、そうだった。手術前に交わした言葉を最期に、もう二度と会うことはなかったという。優しく、溌剌とした方だったそうだ。

 

 肺移植に臨む際には、死を覚悟せねばならない。一方で、脳死の連絡は突然にやってくる。何年も何年もドナーの提供を待って、そしてある日、昼夜を問わずに「明日、移植手術を受けられますか?」と電話がかかってくるのである。さらには1時間以内に返事し、4時間以内に病院に行かねばならない。そういう取り決めだ。臓器には鮮度が要求されるため、手術はすぐに始まる。彼はどれだけの思いを持って移植手術に臨んだことだろうか。それを慮ることは、もはや不可能に近い。

 

 

 そして彼の肺移植の場合も、やはり拒絶反応があったそうだ。数時間肺が動き出さなかったという。妻は、彼の死を覚悟したようだ。しかしながら、幸運にも彼は自力で息を吹き返した。麻酔から覚めることができたのである。術後しばらくして退院し、妻と病院のすぐそばにある鴨川を歩いていたとき、生きていることが嬉しくて嬉しくて、涙が止まらなかったそうだ。どうして俺はこうやって生きてられているんだろう、そう思って泣き続けたという。ゆっくりとそんな話をしてくれながら、彼は眼鏡を外して溢れてきた涙を拭った。おっさん、あんた頑張ってるんだな。

 

 

 

 

 それからしばらくして車の話になった。愛車は何に乗っているんですか、と彼に聞くと、今は車に乗っていない、という答えが返ってきた。薬を飲み続けている限り、運転はしてはならないことになっているそうだ。しまった、と思った。職だけでなく、趣味さえも取り上げられてしまうのか。もしこれが自分だったら、何を楽しみに生きていいか分からなくなるかもしれない。

 

 

「でもさ、生きる希望はあるんよ。」彼はそう言った。

「息子がね、おるから。俺の方が確実に先死ぬんやけど、いつまで生きられるやろか、せめて小学生になるまではさ。いや、中学生、高校生になったのも見てみたいなぁ。どうやろ。それが今のいちばんの希望かな。」

 

   微笑む彼の眼差しの奥は、どこか寂しそうだった。

 

 人生とは、理不尽である。自ら命を絶つ人もいれば、こうして生きたくても生きられない人もおり、あるいは何も考えずに生きている人もいる。

 

 彼の息子が僕と同じ年齢になったとき、果たして彼は生きているのだろうか。

 

 生きていてほしい。

 

 僕は、もし親を亡くしたらここまで生きてこれなかっただろう。 親にとっての生きる希望が子であるように、子にとってもまた、生きる希望は親なのである。子がいるから生きられるように、親がいるから生きられる。それが、家族というものだ。

 

 彼の病は今も少しずつ進行していっている。その事実に、僕は耐えることができない。現代医学の最たる手を尽くしても治ることのない病に、やり場のない憤りを覚える。こんな理不尽なことがあっていいのか。彼は息子が大人になるのを見たいだけなんだ。それ以外何も望んでいない。こんなことがあってたまるか。

 

 

 

 たとえ理不尽だったとしても、一方で、そこにある事実は微動だにしない。これが現実というものである。しかし、こんなにも運命は変えられないものなのだろうか。彼は何も悪いことなどしていない。普通の人生を歩んでいる道中、突如として原因不明の不治の病が立ちはだかるのである。

 

「病気になるとさ、色んなことが見えてくるよね。それにはすごい感謝してるかな。でもこんな病気にはなったらいかんよ。」

 

 こんな病気になってはいけない、という彼の言葉が胸の奥深くまで突き刺さって取れなかった。おそらく、一生突き刺さったままだろう。確かに、僕は若くして本当にいい経験をさせてもらっている。命の重みを知ることは、このような状況下でしかできない。そして、こんなことを経験をしながら、また何事もなく普通の生活に戻ることができる。彼はそれを「羨ましい」と言っていた。僕は複雑な気持ちだった。彼は僕と違って元に戻ることができない。

 

 

 彼は先日、一旦病院を退院した。検査入院だったから、まだ結果は出ていないようである。連絡先を交換して、「結果次第で、もしまた入院されたら、授業の合間にでもすぐ飛んできますよ」と言ったけれど、正直なところ、もう彼と病院で会うことはしたくなかった。病院を去る彼の背中を見て、もうここに来ることのないよう祈るばかりだった。

 

 

 昨日、何となく思い立って、病院を勝手に抜け出して鴨川に行った。どうしても一旦ここを離れたくなった。川辺を歩くと、青と白を混ぜた水彩絵具に水をたっぷり含ませたような空が広がっていた。あの空は、病室から見るのっぺりとした空とはまるで違っていた。鷹が大きく弧を描いて飛んでいた。水辺に鴨がたむろしていた。風が澄んでいた。でも、心は晴れなかった。自分自身の病が前者であることを手放しで喜ぶことは、もはやできなかった。為すすべもない人間のひ弱さを思い知らされた。負け戦に希望を持って闘うことの無念さを痛感した。このやり場のない怒りと悲しみは、どこに散らしておけばいいのだろうか。

 

 僕は多分、一生残るであろう胸の傷を見るたびに、彼を思い出すことだろう。癒えぬ病と共に生きるということ。他人の痛みは、決して分からない。それでも僕は彼と心のどこかで繋がっていたい。

 

 僕は自分自身のおかれた境遇に感謝せざるをえない。しかし一方で、その感謝が歓喜になってはいけない、とも思う。彼のような人は数多くいるのだ。そのことを忘れてはならない。メスを入れた傷が消えることなく、いつまでもいつまでも身体に刻まれ続けていることを祈って、鴨川を後にした。怒りと悲しみは、そこに無理矢理捨ててくることにした。

 

 彼にはまだまだやるべきことがたくさんある。息子の制服姿を見たり、息子にドライブに連れて行ってもらったり、家族みんなで酒を飲み交わしたり、結婚を見届けたり。読み書きもまだまともに出来ない子が、立派に成長していくのを確かめねばならない。医学の発展が、彼の病を後者から前者へ変えることを切に望むほかなかった。

 

 彼が、妻と息子と3人で、出来るだけ長く寄り添って歩けるよう、心から願うばかりだった。

 

 

3.12

 

 鋭く尖っていた風が柔らかくなった。刺すような冷たさが包み込むような暖かさに変わった。霞みがかった薄青の陽気には、生命を躍動させる力がある。両手を広げて道の真ん中で寝そべってやりたい。

 

 癌が見つかったのは昨年の初冬だった。また冬が嫌いになってしまった。小さい頃は白銀に輝いていたものが、今となってはどうも光沢のない灰白色にしか映らない。もう風の子ではなくなったのだろうか。

 

 

 夏の終わりが郷愁だとすれば、冬の終わりは希望に等しい。春が待ち遠しくて待ち遠しくて、だからついに訪れたこの暖かさにずっと守られていたい気がする。

 

 張り詰めた空気がようやく弛緩したのは、去年も同じだった。先日高校に行ったとき、合格報告に来た生徒が先生と抱き合って泣いているのを見て、少し懐かしく感じた。青春。極度の緊張が一気に解放されると、人間泣いてしまうようだ。

 

 あのとき大学に受かっていなかったら、今年も受けられなかっただろうなぁ、なんて思う。

 

 職員室に行って元担任の先生とひとしきり話をしたあと、僕の大好きだった国語の先生にもお会いした。

 

 治療や手術について話をした。先生は黙って聞いたあと、何かを話し始めた。先生の話は含蓄があって高校生の頃からずっと好きで、だからその口からどんな言葉が出てくるのか楽しみだった。にもかかわらず「何か」と書いたのは、最初の方の言葉を後から来た言葉が掻っ攫っていったからである。

 

ふと、先生はこう呟いたのだった。あまりにも唐突だった。

 

「私は明日死ぬかもしれない。」 

 

 唐突、というのは語弊があるかもしれない。僕はその前後の話を右から左に聞いていたつもりはなくて、その一言のインパクトが大きすぎたのか、もしかすると両方なのかもしれないが、とにかくその一言が耳にこびりついた。

 

「誰だってそうじゃないですか、極論を言うとね。だからいつ死んでもいいと思って生きてる。」

 

 

 明日死ぬかもしれないと感じて生きている人間がこの世にどれくらいいるだろうか。

 

 

 2万人近い人々が今日を迎えられなかったあの出来事から、ちょうど6年が経った。明日が来ることを信じて疑わなかった2万の命が失われた。2万。20000。あの日、人の背丈を優に超える津波から逃げる人々の姿を、僕はテレビの中の出来事として捉えるので精一杯だった。

 

 

 

 自分は19年間、明日という日が来ることを無意識に信じて疑わなかったし、今日が来たことを確認さえもしなかった。そして事実、19年間ずっと今日という日が訪れ続けた。だから明日が来ないかもしれないということは、そして今日が来なかったかもしれないということは、もはや文字の上でさえ理解することができない。リアリティの欠片もない。

 

 

 

 人生とは皮肉なもので、失ってからしか理解することのできない尊さが数多くある。自分にはやはり家族がいて、父も母も弟も、また明日同じように食卓を囲む。あるいは友人がいて、先輩や後輩がいて、たとえそれが遠く離れていたとしても、また会う日を信じて疑いはしない。小中高の先生でも、親族や近所の人であってもそう。

 

 

 しかしそれは単なる妄想にすぎない。吹けば飛ぶような幻。万人に等しく明日が訪れることは決してない。

 

 

 「私は明日死ぬかもしれない。」

 

 

 あれは戦慄でも畏怖でも何でもなかった。口で言うのは容易いけれど、でもあの先生は普段からそういう風に生きておられるのだろう。自分もそういう生き方がしたい。

 

 

 

 大抵の人は、死にたくない時に死ぬ。あの日亡くなった2万人のうち、死にたくなかった人はどれだけいたのだろう。当たり前の日常なんて幻でしかない。

 

 

 いつ死んでもいいなんて境地には、自分はおそらく立つことはできない。けれども、今日できることを今日やって、当たり前でない「当たり前」にひとつでも多く気づくことくらいなら出来そうな気がする。失ってから気付かされるような人生は御免だ。

 

 

明日が来なかったとして、後悔するような今日を過ごしたくはない。

今日が最後になるかもしれないとして、それでいいのかと問い続けていたい。

 

 

 

 今朝、起きるといつも通り今日が来ていた。当たり前ではない "いつも通り"。

 外に出てみると少し肌寒かったけれど、冬ではなく間違いなく春だった。春の匂いがしていた。ふと、肺を切ると言われたのを思い出して、この空気を今のうちに胸いっぱい吸い込んでおかなければいけない気がした。それさえも当たり前ではなくなるから。手術まであと9日しかない。手を伸ばして大きく深呼吸をすると、春の空は青く青く澄んでいた。今日が訪れたことに感謝しよう、そして春が訪れたことにも感謝しよう、そう思った。

 

あの日、今日が来なかった人のためにも。

 

 

戦場の食

 

 泣きながら食う白米は格別の味がした。

 人生の味。

 

 何も分かっていなかった。分かろうとしなかった。逃げていた。

 

 漠然と広がる荒野に音も立てずに吹き付ける乾いたそよ風。悲劇でもなければ喜劇でもない、戦慄が走るわけでもなければ安らぎを得たわけでもない。ただぶらりと垂れ下がったまま、しかし少しばかり揺さぶるとはらはらと落ちる、美しく色づいた枯葉。そんなひとひらの雫。

  

 平常心。人前ではあまり泣かない。もう泣けなくなったのかもしれない。感情を大っぴらに表現するのは難しい。昔は馬鹿みたいに笑って馬鹿みたいに泣いた。あの頃の方がむしろ馬鹿じゃなかったのかもしれない。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び。でも我慢強く溜め込んだ堰堤はいずれ根元から決壊するから。大きく音を立てて崩れ去るから。貯水が尽きて枯れるよりマシかもしれないけれどね。放流、放流。

 

 1日だけ人間をやめてみたくなった。1日だけ。考えることが嫌になったから。あの頃、自分の心の中には何らかの淀みがあった。言葉にさえ出来ずに渦巻き留まる濁水。泥水。底無し沼。息ができない。もがくほどに埋もれいく。蝕まれていく。助けは来ない。

 

 疲れていたのかもしれない。いや、疲れていた。あの夜、困憊した脳が何をしたかったのかは本当に知るよしもないけれど、そう、鮮明に自分自身が死ぬ夢を見た。死ぬ瞬間というより、もう既に、そしてはっきりと横たわっていた。はっとして起きたら暗がりの病室で生きていた。胸に手を当てたらまだ動いていた。どうして。

 

 死ぬ夢なんて誰しも見たことがあるだろうし自分も初めてのことではない。大抵の場合は夢の中で死んだ自分を客観的に眺める自分がいる。主観的に死を想像できるほどの頭を持ち合わせてはいないから、必然的にそうなるのだろう。ただ、あんなに現実味を帯びた夢は生まれてこの方見たことがなかった。俺は死んでいた。そして冷たくなった自分を見つめている自分がいた。ねぇどうして死んでいるの?

 

 

 生きているということと、死ぬということ。その両者間には人間の想像力なんかではどうこうすることのできない不動の厚い壁があって、相容れることなく反発する両極端のイメージに身体が張り裂けそうになる。

 

 

 

 

 

 

 「なぁ、こんなこと聞いていいんか分からんけど、もし、本当に死ぬことになったら、どうする?」

 

こんなことを聞かれたことがあった。一度だけ。奴は相も変わらずそういう奴だった。お見舞いに来てもらったのに一発お見舞いされた。正直言うと痛かった。ノックアウト。もちろん答えられなかった。

 

 

 あの一言がまだ引っかかっている。とっくに取れたと思っていたのに、何だか違和感が残っている。魚の小骨が口の中に突き刺さっている。

 

 

 本当に死ぬことになったら、俺はどうするのだろうか。

 

 反芻の果てに飲み込むことさえできず、吐き出しそうになる問いに悶え苦しんで、そうして気が付いたら寝ていて朝が来ている。あれ以来、そんな日が幾夜かあった。

 

 

 

 自分は今まで、若者が誰しもそうであるように、死という概念とは交錯しない次元に生きてきた。

 

 それが唐突にも、自身の直線上に死の存在を知らされて生きることになった。

 

 しかしそれは死ぬことを決定づけられた訳ではなかった。紙一重で異なる次元にいた。自分には、まだ生きる希望がそこら中に広がっている。

 

 近々死ぬことがわかって生きるということは、今の自分の生き方とはまた別次元なものなのだ。

 

 本当に死ぬことになったら、どうするのだろうか。

 

 身辺の整理、自身の余命。そんなものを宣告されぬうちから人生の終わり方を考えたくはなかった。終わりを考えることは即ち終わりに向かうことだと思っていた。死ぬことを考えることは生きることから逃げることのような気がしていた。

 

 

 

 

 

 

 そんなある日、同じ病室のおじいちゃんに話しかけられた。「あんた、学生さんか?」と聞かれ頷くと、嬉しそうに「ほらええこっちゃ」と頰に皺を寄せて笑った。

 

 彼は御歳88歳。溌剌とした老人で、ボケなんて言葉からも程遠いところに生きているように見えた。かつては三菱重工でロケット部品を管理していたというから、なかなかのツワモノだ。ただ、現在の病状の方を尋ねると、少し苦笑いしていた。膀胱癌が身体中に転移しているそうだ。そういえば、夜はしばしば辛そうな呻き声をあげている。

 

 

 あの日は戦時中の話をしてくれた。晴れ渡る冬空の陽は、少しばかり傾きかけていた。ろくに勉強もできず、ただ国家の言われるがままに動いた、そんな時代の話だった。

 

 

 

 

 当時、彼はまだ学生だった。学校は1限しかなかったそうだ。そうして短い授業が終わると、軍の工場に向かう。そんな生活を続けて、卒業後はそのまま三菱重工に入り、戦車を作り続けたという。

 

「本当は航空隊に志願したんじゃけどな、ひっぱたかれて辞めさせられてしもうた。でもあのまま続けとったらな、ワシは特攻に行ってこの世にはとっくにおらんのや。同期はみな死んだ。不思議なもんやのぉ。」

 

 彼は窓の外から淡く差し込む光に目を細めながらそう言った。自分は黙って頷いた。もう70年も前の話になるのだ。

 

 

 「けどワシはのぉ、癌も転移しとるしもう助からんかもしれん。相続のことも色々考えなあかんけん、えらいこっちゃで。」

 

 彼は身辺整理も視野に入れて生きている。その生き方は、自分の生き方とは紙一重のようで、全く異なる生き方なのだ。生に向かう生と、死に向かう生。

 

 

 しかし彼は慌てふためく素ぶりなど少しも見せず、ただ静かに笑って自分の生涯と老いに向き合っていた。定めを受け入れんとせんその姿は、まさに戦争を強く強く生き抜いた日本男児そのものであった。

 

「ワシがあんたと同じ年の頃はな、自分で考えて行動するいうことができよらんかった。思想も物も何でも統制。今や見てみな、やりたい思たら何でもできよる。無限の可能性がある。それが学生や。生きたいように生きなさい。」

 

 

 生きたいように生きる。それが叶う時代、叶う国に生きている。そのことを噛みしめなければならない。はっとした。

 

 

 もし、本当に死ぬことになったら。

 俺はそれでも最期の一瞬まで、生きたいように生きて死にたい。着実に、焦ることなく、もがくことなく、淡く光る過去の余韻に浸りながら今という瞬間を噛みしめていたい。彼がそうであるように。微塵の後悔もない生であり、そして死でありたい。

 

 

 それから何より、今この次元においても、常にそういう生き方をしていたい。死に向かうかのごとく生に向かいながら、力強く生きていたい。

 

 そういえば、高校時代の恩師に頂いた三島由紀夫の「葉隠入門」には、かの「武士道とは死ぬことと見つけたり」に続く有名な一文があった。

 

毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課すべき也。

 

 三島によると、常に死ぬ覚悟であることが、詰まる所、人生を全うできるということである。今ようやくこの一文が腑に落ちた気がした。若きサムライたれ。

 

 

 

 

 

 夜中こうして書いている間にも、隣からは微かな呻きと腰をさする音が聞こえてくる。彼にとっては、ここは第二の戦場なのかもしれない。いや、自分にとってもここは戦場だ。個々、静かな戦いが、日々繰り返し行われている。生命のやりとりがある。病院とは、戦場である。しかし皆それぞれの境遇を背負いながら、死と向かい、強く逞しく生きている。生の尊さと死の儚さを実感し、そうして今この一瞬を噛みしめて生きている。美しい。

 

 

 

 あの日、最後に彼はこう言っていた。

 

「飯さえの、死ぬまで食えたら、そらもう御の字じゃわ」

 

 米など手に入らなかった時代。少ない配給。栄養失調。ヤミ市。友を失い、家族を失い、家を失い。そんな時代を生き抜いたであろう彼の口から出た言葉である。そうして戦後、相模原の戦車が種子島のロケットに変遷しゆく時代を生き抜いた人の言葉である。いま目の前に食があり、ここに豊かに生きているということ、まずその境遇に感謝せねばならない。

 

 「ワシの役目は終わったけんの、あんたらが日本の未来を作らんと。」

 

 

 彼には "日本男児たれ、若きサムライたれ" と教えられたような気がした。

 

 だから僕は、この白米一粒一粒に戦場の恵みを感じて、涙せざるを得なかった。時代は違えど、それはもう、身体中に沁み渡る戦場の食だった。

 

 

 

 

 格別の、人生の味がした。