その日
僕達は皆、「その日」に向かって生きている。
どんな生き方をしたって、どんなに幸福であったって、「その日」はやがて訪れる。いつでも、誰にでも。終わりと、別れの日。
もう何をしたって、どんなに叫んだって、届かない場所へと旅立つ日。
関東ではもう梅雨明けしたらしく、病室の外には濃い夏空が覗いている。雲は白く膨らんで大きく丸みを帯び、木立に降り注ぐ日差しが黒い影を落としている。もう蝉は鳴いているのだろうか、この白い部屋の中では、外の音は聞こえそうもない。
木立を抜ける風の音と蝉の声を、静かに目を閉じて想像してみる。眩しい夏の思い出が、いくつも蘇ってくる。小学生の頃、朝からラジオ体操に行き、学校のプールではしゃいだ。中高生の頃は部活に明け暮れた。受験期の夏期講習はしんどかった。友達と花火を観に行った。自動車の免許を取ったのも暑い日だった。そして時々、恋もした。
夏は毎年やってきて、汗を垂らすたびに楽しさと悔しさを味わってきた。そんな夏が、少し形を変えてしまったが、今年もやってきたらしい。とにかく、今日は良い日だ。文句の付けようがない。
僕にとって、近いうちに訪れるかもしれない「その日」は、出来ることなら、こんな透き通った日の、朝がいい。「その日」を選ぶことが出来ず、突然に訪れたとしても、陽射しの中で、静かに旅立ちたい。それぐらい、たったそれぐらい、神様は許してくれたっていいと思う。
平成最後の夏、僕はクラス1000規格のクリーンルームで過ごすことになった。どうやら運命には抗えないらしい。残念だな、と思う。少し、残念だ。でも同時に、良かったな、とも思う。この病気が、自分の大切な家族や、友人や、先輩や後輩や恩師の命ではなく、自分に降りかかって、それはそれで良かった。大切な人の、大好きな人達の、その命ではなくて、自分の命で、良かった。
6月28日。定期検診に行き、血だらけの歯茎を見せると、主治医は蒼ざめた。すぐさま血液内科に通された。
「血小板が3,000、LDHが13,000。今外出すると命の危険がある。即入院です。今日は親御さんは一緒に来られてませんか。」
血液内科医も驚く数値だった。彼は病名には触れず、眉間に皺を寄せて電子カルテを見つめていた。ただ、ある程度知識がついてしまった僕は、もうこの時点で悟らざるをえなかった。
白血病だ。
背負わねばならぬ現実が重すぎるとき、そしてそれが予期せぬ状況で降ってきたとき、人は涙さえ流せないのだ、と知る。
診察室を出て、力無くロビーのソファーに座り込んだ。もう一歩も動けなかった。ただそんな僕の目の前を、いつもと何ら変わらぬ病院の日常が過ぎていくだけだった。案内放送が流れ、医師達は足早に歩き、清掃員は床を拭き、老夫婦がゆっくりと前を横切っていった。一人の人間が白血病になったことなど、誰も気付くはずがなかった。
僕は戻りたかった。戻りたい、そう強く思った。何も知らず、病院に向かっていた朝の自分に。命の終わることを知らぬ一人の人間に。
母親に電話をかけ、すぐに病院へ来て欲しいと言った。
何があったの、どうしたの、母親はそう色々聞いてきたと思う。僕はそれに何も答えられなかった。
言葉が出なかった。
もうな、
アカンわ、
それだけ絞り出して、電話を切った。
肩が小刻みに震えだした。この時、その背負わねばならぬ現実に、僕の理解がようやく追いついた。
現実は、真夏の昼下がりのゲリラ豪雨のように、局所的に、僕の真上だけに、降り注いだ。
僕はふらつきながら、とにかく逃げた。
トイレの入り口まで来て、もがいて、崩れた。
壁を叩いた。
何度も叩いた。
必死に嗚咽を堪えた。
洗面台に両手をつき、筋を引くように涙を零した。
鏡の中に、白血病の僕がいた。
あれから4日が経った。僕はこの4日を、人生で最も混乱した4日間として過ごした。この世の孤独を洗いざらい集めたような夜を、痛みと闘いながら必死に耐え抜いた。時折、強烈な眩暈と吐き気に襲われた。動悸がして、視界は螺旋を描いた。それは、未だかつて感覚したことのない、死の形象だった。自分の身体がどれほど腫瘍に蝕まれているのか、それを有り有りと示すものだった。
これはもう、本当に死ぬんだ。
そう思った。
「その日」を迎える覚悟を、しよう。
そうした方が、良いような気がした。
それが、僕の4日間の答えであり、準備であり、そして決意だった。
「その日」まで、沢山の人に会おう。
「その日」まで、沢山笑おう。
「その日」まで、沢山食べよう。
「その日」まで、想いを言葉にして伝えよう。
「その日」まで、生きよう。
とっくの昔に癌で死んでいたはずの人間が、神様にお願いして、1年だけ猶予をもらった。そして僕はこの1年間、会える人には必ず会うように心掛けてきた。それから何より、家族で過ごす時間を大切にしてきた。延長された生であることを、ちゃんと意識して過ごしてきた。
だから、未練はあれど、後悔はない。
たったの4日間で作った覚悟かもしれないけれど、決してハリボテの覚悟ではない。
ある20歳の人間の、強い覚悟だ。
「ひょっとしたら奇跡的に治るかもしれない、治らなくても、あと五年とか十年とか生きられるかもしれない。信じてるよ、いまでも心のどこかで。でも、それを信じてるんだってことを思い出すとキツいのよね、なんか。忘れたふりして、その日をちゃんと迎えなきゃって考えて、いろんな準備したり、覚悟を決めたりしてるほうが、じつは楽なの、精神的に、ずうっと。」
それでも、欲を言うなら、あと少しだけ、ほんの少しだけ、生きてみたい。
ダメだろうか、やっぱり。
それは欲張りだろうか。
結局そんな心配無駄だったよね、って笑い合う瞬間が、どれほど幸せに満ちていることだろう。お前死ぬ覚悟出来てるとか言ってたやん、カッコつけやがって、と馬鹿にされることを、僕はどれほど望んでいるだろう。
どうか、これがただの夕立であってはくれないか。
意外と強く降るくせにすぐ上がって、初夏の茜空にうっすら虹をかけるような、そんな夕立であってはくれないのか。
神様、もう許してください。
やがて訪れる「その日」の前に、一体何が出来るだろう。
この白いクリーンルームの中で、果たしてどんな理想が描けるのだろう。
いや、別に何もなくてもいいじゃないか。
そんなに難しいこと、考えたって仕方ない。硬いベッドに横たわりながら、僕はゆっくり目を閉じる。
まもなく、深い眠りが夏の向こうからやってきた。それは白く透き通っていた、あの頃の夏だった。「その日」の「その瞬間」も、こうして静かに迎えられたら、どれだけ幸せだろう。
意識が過去に向かって流れていき、蝕まれた身体の痛みをひとつずつ消していく。深い記憶の底には、まだ微かな望みがうっすら滲んでいる。やがてそのまま、ブラウン管テレビの電源を落とすように、僕の意識は奥へ奥へと吸い込まれていった。
後には、夏空に甲高く響く蝉の声と、木立を抜ける爽やかな風の音だけが、余韻のように、心の内側でいつまでも響いていた。
スターライト
人間の内部には、多かれ少なかれ空洞がある。それは脳のあたりかもしれないし、肺や心臓のあたりかもしれない。このことを知ったのは18の時分だった。とにかくそれは誰にも彼にも存在しているのだ、と。ところが空洞には、とりわけ頑丈な蓋が施されていて、僕達は大抵それを閉じたまま生きていくことができるようになっている。鍵をかけることだって出来るし、無邪気な子供なら蓋にだって気付かないこともある。あるいは快楽によって存在を忘れることもできる。しかしながらある種の人間の場合、その蓋は往々にして無意識のうちに解錠され、あらゆるエネルギーがその空洞に落とし込まれるのだ。食欲、睡眠欲、性欲、承認欲、自己実現欲、そういった低次から高次までのあらゆる欲は、意思の方向によらず、穴の中に落とし込まれて消える。いや、消えない。消えたかのように錯覚するが、いつかどこかで形を大きくして再び自身に襲いかかってくるのだ。その空洞を虚無と呼ぶ者もいるし、鬱と呼ぶ者もいる。ここでは「スペース」とでも呼ぼう。空白、宇宙、そういった様々な意味を込めて。
空洞の中身は手に取ることが出来ないが、無ではない。宇宙(space)が、目に見えない暗黒物質(dark matter)に混沌と満たされているように、心の空洞(space)には、過ぎ去ったはずの陰鬱な問題(dark matter)が整理されることなく山積みになって漂っている。
空洞の中に存在する記憶というものは、宇宙に浮かぶ恒星に似ている。それらは、ある時点では太陽のように燦然と輝きを放っている。一方で、ある重さ以上の恒星というのは否が応にも核分裂反応によって膨張を続け、最後には自重に耐えきれず超新星爆発を起こすのである。同様にして、記憶というのもまた自己分裂を繰り返すことで膨張を続け、輝きを放っていたはずの記憶は、何かを照らし続けるエネルギーを持っていたはずの過去は、最後にはその膨れ上がった自らの重みを以て、自らを破綻させるのである。ある重さ以下でなければ、恒星も過去も膨張を続け、そして爆発するのだ。意思の方向によらず。
太陽質量の30倍を超える恒星は、超新星爆発後にブラックホールを形成すると言われている。ブラックホールの中心には強力な重力場が存在し、あらゆるものを引き摺り込む。脱出には光速を要するため、外部にいる観測者は、ブラックホールに自由落下する物体がぐちゃぐちゃに歪んで見える。本当は何も歪んでいないにもかかわらず。
ニーチェによれば、事実なんてものは存在しない。存在するのは解釈のみだ、と言う。そう、記憶というのは曖昧で、僕達は過去に対して解釈を加えたものを「記憶」と呼んでいる。現在に生きる僕達は過去にとってただの観測者であり、ブラックホールに吸い込まれていく過去は、解釈と言う名の観測によって常に歪んでしまうのだ。だから事実というものは、心の空洞にブラックホールがある限り、観測できないのである。今この瞬間以外は全て過去なのだから。
自分にとっての過去のほとんどは、輝きを放っていたはずだった。だから僕は夜になると自ずと空洞の蓋を開けた。あるいは無意識的に。そこには満天の星空が広がっていて、それはそれとして大事にとっておいた。「暗闇に包まれた場所でしか星は綺麗に見えないのだ」と言い聞かせた。星と星とをはぐれないように繋ぎ合わせ、それらを星座にして名前を付けた。今見えている光は過去に発された光なのだ、と思った。現在と過去は何光年もの距離を隔てていて、掴むことは決して出来ないけれど、過去からの光は時間をかけて届くのだ、と。
しかし、それがいつしか僕を苦しめるようになった。
星たちはそれぞれで暴走を始めるようになった。赤色巨星と化し、超新星爆発を起こし、いくつかはブラックホールになった。その周囲で時空は歪みを生じ、あらゆる物事の整序がおかしくなった。蓋を開けてはならない、と思った。しかし蓋さえブラックホールに飲まれようとしていた。このままでは自分自身が過去に殺される、やがてブラックホールに落ちる、そう思った。ブラックホールに落ちた物体は、落ち続けることしかできないのだ。あの頃僕は夢うつつとしながら、ただひたすら死ぬことばかり考えていた。自分は死ぬことでしかブラックホールを逃れられないのだと言い聞かせた。あるいは言い聞かせられた。
エネルギーの源だったはずの記憶の塊が、星座が、ある出来事を境に爆発してエネルギーを奪うようになる。輝きを放っていたはずの過去は、天の川は、光さえ吸収するほど黒ずんでしまう。生きる源を見失った僕達はエナジードリンクと称して酒を飲み、束の間の快楽に酔いしれてその空洞を埋め、明かりを点けることで星空を消す。喧騒によって孤独を搔き消し、乾いた笑いで湿りを取り、泣いて慰め合うことで解決した気分に浸る。だから酔いが醒めるまでは空洞を忘れている。しかし放物線に頂点がひとつしか存在しないように、酔いというのはある点まで上昇すると下降を始める。そうしてまた同じ高さに戻ってくる。いや、放物線ではなくサインカーブかもしれない。僕たちはゆらゆら、ゆらゆらと同じことを繰り返す。同じ所を行ったり来たりする。とにかくある点で酔いから醒め、人々は我に返って気が付く。状況は何も変わっていないのだ、と。状況は何も変えられないのだ、と。そんなとき星からは声が降る。「もしもし、現実ですか?」。
「人生って妙なものよね。あるときにはとんでもなく輝かしく絶対に思えたものが、それを得るためには一切を捨ててもいいとまで思えたものが、しばらく時間が経つと、あるいは少し角度を変えて眺めると、驚くほど色褪せて見えることがある。私の目はいったい何を見ていたんだろうと、わけがわからなくなってしまう」
光さえ脱出できないブラックホールは、物理法則下において、それ自体を肉眼で観測することは不可能である。ゆえに僕は、ブラックホールに殺されると感じながら、そのブラックホールが一体何であるのか知覚できなかった。そして、それが以前星だったときに、どのような色や形をしていたのかも知ることができなかった。ただ得体の知れない「ブラックホール」と呼ばれる概念が、僕のあらゆるエネルギーを奪っていった。過去は歪み、現実は萎えた。酒を飲んでは吐き、文章を書いては消し、死ぬことについて考えてはやめた。暗黒の泥のように眠り、あるいは眩しい北極星のように起き続けた。そしてブラックホールの外側には、いつも陰鬱な問題としてのダークマターが存在していた。逃げ場なんてなかった。そんなとき自分は何者でもなかった。才能ナシ趣味ナシ欲求ナシ慈愛ナシ熱意ナシ、醜い外見と愚かな内面、中途半端なプライド、ブラックホールとダークマター、そんな人間が「面倒臭い奴」でないのなら、一体何者であろう? 勿論ほんの僅かな人には相談したけれど、それはあまり良い結果をもたらさなかった。「何が辛いの?」と聞かれて「分からない」と答えるしかなかったのだ。「ブラックホール」と言ったところで、僕はどういう答えを期待しようというのだろう。第一、僕が何をどう考えたところで、世界は今日も平和に呑気に回り続ける。
夢を見ていたのだ。
そう考えることにした。自分には過去なんて存在していない、それらは全て夢だったのだ、と。あれは星ではない、飛行機や建物の光だったのだ、と。そうすることでブラックホールは勢力を弱め、僕は幾らか救われた。もしかするとそう錯覚しているだけかもしれないが、とにかく死を考えることからは脱した。そしてようやく文章を書けるほどにまで回復した。このページの更新が止まっていたのはそういう理由だった。結局自分のことは自分でしか救えないのだ。
何もかもさめてしまったのだ、と思う。つまり僕は夢から覚め、酔いから醒めたのだ。かつて輝いた星の色は褪め、一喜一憂していた心は冷め、そしてようやく空洞に蓋をすることが出来た。覚めて醒めて褪めて冷めて、とにかく自分はもう生きることにも死ぬことにも “さめてしまったのだ”、と言い聞かせた。もう星を探してはいけないのだ、と。今現在の言動が、いつか未来の自分を攻撃してしまうのだ、と。
一日一食の生活は二食に戻り、空は青さを取り戻した。ようやく車にも乗れるようになった。あれだけ生きたい瞬間があり、あれだけ死にたい瞬間があり、それらの感情はどこからやってきてどこへ行ってしまったのか考えていた。次に蓋が開くのはいつだろうと思った。「それでもやはり星たちは無数に存在していて成長を続け、ブラックホールとダークマターはどのような手段によっても知覚できず、宇宙は想像の限界を遥かに超えて果てしなく広がり続けるのだ」と感じた。生きることが下手くそなのだ。そんな夜に、FM802のカーラジオではボーカルが必死に叫んでいた。
太陽が昇るその前に
夜が明ける前に
教えて
ここで このままで 間違ってないと
僕は左手をハンドルから離してボリュームを上げた。10-FEETの曲だった。太陽4号というその曲名について、ボーカルはこう話した。
「太陽って電池みたいなものなんです。生きていくエネルギー源だけどいつかは切れる。純粋に突っ走った十代があって、二十代になってそれを斜めに捉えてみたり、そりゃ太陽1個でずっと行けたらいいけど、まぁ4号目くらいでようやく何とかなってるんじゃないかなって」
4号目の恒星を探す勇気が、今の僕にはなかった。ただ歌詞だけは忘れられず、番組が終わってからもしばらく大音量で空洞に木霊していた。何か自分の内に、ほんの少しばかり熱を感じていた。その感覚は、どこか懐かしさを含んでいた。「確かにさめてしまったが、全てがさめてしまった訳ではないのだ」、そう思った。歪んでいたはずの過去は、まだ上手く解釈できないけれど、少しずつ元の形に戻ろうとしている。無理に言葉にする必要はない、目を閉じて待てばいい。信号は赤から青に変わり、同時に僕はアクセルペダルを強く踏み込んだ。車は満天の星空のもとに爽やかな快音を響かせ、滑るように加速しながら、流星のごとく、真っ直ぐに春を駆け抜けていった。
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報われない努力
時間が伸びたり縮んだりするのはアインシュタインが特殊相対性理論に述べるところであって、最もよく知られた紛うことなき真実の一である。光陰矢の如しとはよく言ったもので、一年の長さは縮むこともあれば伸びることだってある。光速に近づくほど時間が遅く流れるように、激動の一年はこれほどまでに長かった。
昨日11月24日は、今のところ誕生日の次に大事な日になっている。僕はそれを「告知日」と呼んでいる。誕生日と告知日には、いくつか共通点があって、それはとって付けたような共通点なのだけれど、第一の人生の始まりと第二の人生の始まりには深い関係性がある。どちらも大きな声で叫ぶように泣いた日で、右も左も分からない世界に入った日だ。そしてどちらにおいても、あることを思いしらされた。ー「努力は報われない」
「天授」の二文字を彼は何度も口にしたし、黒板にも大きく書いた。沼のような色をした一枚板に白く焼き付けられたその文字に、撫でるようにして劇薬を塗りこまれた自分がいた。
時計台の裏にある法経第四教室は、ガリレオとかいうドラマで天才物理学者・湯川学こと福山雅治が講義した大教室だ。僕はちょうど柴咲コウがいたあたりに座った。あそこが超満員になるのは有名人が来たときだけだから、東進ハイスクールの林修も有名人の部類に確実に入る。それでも彼は開口いちばんこう言った。「早い。朝早いね。どうせみんなこの講演会当たったときこう思ったんでしょ?『とりあえず申し込んだけど10時半かぁ〜林修かぁ〜』って。まぁその程度ですよ」
どっと笑いに包まれたが、僕はどこか笑えなかった。
「みんなからすれば僕は有名人だ。いま僕のいる立ち位置になりたい人なんて山ほどいるのは知っているし、今の環境は本当にありがたいことだと思う。でも、こんなのは僕の夢でも何でもなかった。自分のやりたいことができるなら辞めたいくらいだ。ここまできたら他の人への影響も随分大きいから、そんなことはやらないけどね。」
それから彼はこう言った。
「僕は数学者になりたかった。でもいくら頑張ったってガウスにはなれない。ガリレオにだってアインシュタインにだってなれない。生まれた時から決まっている」
クリスマスまであと1ヶ月になった。先日のニュースでキャスターが話していた話題が、何となく引っかかった。
「そろそろ、街でクリスマスソングが流れる季節でしょうか。でも、聴きすぎは健康に良くないと言う調査がでました。陽気なメロディーに絶えず晒されると、心理的に疲れ、逃げられないような気持ちになる可能性があると、臨床心理学者が言っているそうです」
もう二度とクリスマスが訪れることはないだろうと感じながらクリスマスソングを聴く人間の気持ちが分かるだろうか?
絶対に分からないだろう。
病気が治るかどうかは努力の如何ではなかった。全ては運だった。そしてそれは、人生についても同じことが言えた。あらゆるものは「天授」だ。努力は報われない。患者の努力次第で難病が癒えるなら医療はいらない。林修が努力次第でガウスになれるなら、abc予想に30年もかからない。フェルマーの最終定理には300年もかかった。あらゆるものは天授だ。
患者仲間が言った。「あと何年生きられるのだろうか」
受験を控えた高三の弟が言った。「ほっといてくれ、兄ちゃんとは違う」
彼は言った。「努力したって天才には及ばない」
林修氏の演題は「やりたいことと出来ること」だった。「出来ること、というのは社会に認められることだ」と補足してから、彼は沼に大きく十字を描いた。それから、やりたいことをx軸に、出来ることをy軸にとってこう言い放った。
「京大を出たから何?第一象限で生きられる人間は皆無だ。なら第三象限で生きる人間はというと、実はこれもほとんどいない。じゃあ、あなたたちは第二象限で生きるのか?それとも第四象限で生きるのか?」
去年のクリスマス、中学時代の友人にもらった本がある。いや、その女子とは中学時代はほとんど話したことがなかった。綿矢りさの「勝手にふるえてろ」の一節。
がむしゃらにがんばってきてふと後ろをふり返ったとしても、やりとげた瞬間からそれは過去になるんだから、ずいぶん後から自分の実績をながめ直してにやにやしても、まあ、そんなでしょ、べつにたいして幸せじゃないでしょ。逆にちょっとむなしいくらい。
だから手に入れた瞬間に、手ばなしに、強烈に喜ばなくちゃ意味がない。限界まで努力してやっと達成したくせに、すぐに顔をきりきりとひきしめて、“さらに上を目指します”なんて、言葉だけなら志の高い人って感じでかっこいいけれど、もっともっと進化したいなんて実はただの本能なんだから、本能のまま生きすぎて、野蛮です。足るを知れ、って言いたいのかって? ちょっと違う。足らざるを知れって言いたいの。足りますか、足りません。でもいいんじゃないですか、とりあえず足元を見てください、あなたは満足しないかもしれないけれど、けっこう良いものが転がっていますよ。
長らくブログを書いていると、1時間で3000字程度は書けるようにはなった。それでも、京都市立紫野高校在学中にして文藝賞を取り、自分より若い19歳最年少で芥川賞を取った綿矢りさにはなれない。夏、一度小説を書いてみようと思い立ったが、100,000字の想いを200ページに放り込んだ時点までで挫折した。才能の欠片もなかった。僕は第二象限でしか生きられない。x<0かつy>0。
暇があるときは 一人でドライブに行く。山間の紅葉は道端に散っていた。カーラジオからは新鋭バンドの新曲のクリスマスソングが流れていた。気が付けばそんな時期になっていた。あれから一年が経った。もう、去年のような心地にはならなかった。あの新鋭バンドはどこまで成長するのだろう。彼らはどの象限に生きているのだろう。
今日も努力に打ちひしがれる人間がいる。ある者は病が癒えず、ある者は夢を掴めず、ある者は既に諦めている。
ただ、それでもいいのかもしれない。
第一象限では、生きられない。
あのニュースを悲しそうな顔で読んでいたニュースキャスターは、後日その哀愁が2chで話題になっていた。彼の顔は僕にこう語りかける。
「 ”努力は裏切らない” なんて歌う陽気なメロディーに絶えず晒されているから、心理的に疲れるんじゃない?逃げられないような気待ちになるんじゃない?」
成功者の言葉しか世の中には残らないから『やればできる』が格言になる。
夢は叶わないかもしれない。
叶える為の努力は無駄に終わるかもしれない。
でも何かに向かっていたその日々を君は確かに輝いて生きていたのではないか。それが報酬だと思わないか。
これは大好きな為末大氏の言葉。これ以上に本質を貫いた言葉はない。
病が癒えなかったとして、これまでの努力は無駄になるのだろうか。
大学に受からなかったといって、これまでの受験勉強は無駄になるのだろうか。
追い続けた夢を諦めたとして、その過程を無駄だと言い切ることは、果たして出来るのだろうか。
為末氏は、こうも言う。
「逃げるコトが必要なのだと思う。大丈夫いくら逃げても、どうせ自分からは逃げ切れない。逆に逃げてみたからこそ、一体自分が何に縛られていたかに気づくコトがあると思うのだ」
今、地下鉄に乗っている。
誰しもがスマホを見つめながら、第二象限と第四象限の狭間で揺れている。どこからともなく聴こえるイヤホンの音漏れは、クリスマスソングかもしれない。
四条駅で降りる。毎日通った道。これから、浪人している後輩とご飯に行く。僕は多分「合格するなら奢るわ」と言い、いいですいいですと言われながら奢る。知らんけど。
後輩は、まだ直交座標の原点にいる。
おそらくこれから、数年かけて、足らざるを知る。
足りますか、足りません。でもいいんじゃないですか、とりあえず足元を見てください、あなたは満足しないかもしれないけれど、けっこう良いものが転がっていますよ。
ハタチ
街の中で親と子が仲睦まじくしているのを見て涙が溢れてきたのは、何かを思い出したからでも、もう戻れないからでもなかった。単にその現実が、19歳だった自分にとって重すぎただけだった。
pHが5〜2の毒物を飲みながら過ごす日々がどれほど苦痛でどれほど孤独であったか。生きようとする自分の細胞が殺されていくのをひたすらに耐えるその工程がどれほど長くて重いものだったか。その烈しさは筆舌に尽くし難い。しかしながら今日となっては過去。遠い昔の痛みを感じることは僕にはできない。いや、おそらく誰一人としてできない。肉体的な痛みというのは今この瞬間においてのみ、そして自身の内部にだけ、存在しうる。
でもあの当時の精神的な苦痛は今日でも蘇ることがあり、気がつけば僕は病室のベッドに横たわっている。真っ白なシーツと消毒液の匂い、微かな機械音、無機質なカーテン。あれは天国の装いをした地獄だった。寝たくても寝られない、食べたくても食べられない、歩きたくても歩けない、吐きたくても吐けない、死にたくても死ねない。僕にできたのは、ただ規則的に呼吸をすることと、管を伝って腕の中に入っていく毒を見つめることだけだった。
妊孕性 ーこの字は読めないままで良かった。この言葉を使うことのない人生が良かった。僕は将来幸せでなくてもいい、金持ちでなくてもいい。ただ、いつか自分の子供と酒を飲めたらいい。そう思っていたし、今でも思っている。そんな些細な楽しみでさえ、毒物は奪っていった。
妊孕性 ーにんようせい。妊娠のしやすさ。若年者のがん治療では、この妊孕性の温存が最優先される。毒物は、精子も卵子も破壊してしまう。
僕は精子保存ができなかった。原因は分からない。そして保存に失敗したまま、毒物の投与が始まった。精神がおかしくなりそうだった。「あなたは、死にます。万が一生きながらえたとしても、子供を持つことは許されません」神は僕にそう囁いた。
昨日、家に届いていた2つの葉書を消費した。成人式のお知らせの葉書と、日本脳炎の予防接種の葉書。
成人式の葉書には、午前の部の出席欄に丸をつけてポストに投げ入れた。日本のシステムの下では、20年間生きていれば、善人であろうが悪人であろうが勝手に成人する。これまで何億人、何十億人の日本人が成人してきた。その何がめでたいんだ、と毎年のように荒れる北九州の成人式のニュースを見ては感じていた。
けれども、必死に生きながらえた今となって思うのは、その節目がさも当然のように流されてはならないということだった。20という数字は、思っていたよりも祝うべきものであった。
もう一方の葉書、こちらは20歳未満無料の予防接種のお知らせだったが、それを10代最後の日に受けた。日本のシステムでは前日に歳をとることになっているから、厳密にはアウトかもしれないが、何も言われなかった。
予防接種は昔からかかりつけの小児科で受けていた。母子手帳を持って、数年ぶりに訪れた。
「久しぶりだね」先生は僕のことを覚えていた。僕の比較的小さな身長をまじまじと見て「大きくなったね」と言った。問診票の既往歴「胚細胞腫瘍」には触れられなかった。聴診器を手術跡に当てると、彼は大きく頷いた。
予防接種後は20分間安静にするのが医療機関の鉄則で、僕は母子手帳に最後になるであろう判子を押してもらった後、待合室で過ごした。生前から使われてきたボロボロの母子手帳を開くと、母親の字で色々なことが書いてあった。20年の歳月が数ページに詰まっていた。
【出生時】
体重 2955g
身長 48.0cm
【保護者の記録】
1歳、輪投げ、絵本が好き
2歳、両足ジャンプが得意
弟が生まれ少々赤ちゃん返りしている
3歳、ピアノを始める
4歳、パズル、お絵かきに夢中
5歳、弟が可愛く、世話をよくしてくれる
6歳、自分の名前や手紙を書いたりする
ページをめくっていると、待合の扉が開いて若い母親が入ってきた。母親の腕には幼子が抱かれていた。その子も予防接種を受けたのだろう。小さな命は、僕を丸々とした目で見つめた。僕はその瞳に微笑み返した。1歳前後の子だった。この子にもし自分の血が入っていたら、その可愛さはさらに何倍にもなるのだろう。愛くるしいその目は、しかしながら、微笑む僕にこう囁いた。「あなたは運良く生きながらえたけれど、子供を持つことは許されません」
僕自身の妊孕性が果たして失われてしまっているのかどうか、それは知らない。失われていない可能性も十分にある。僕が受けたBEP療法はリスク分類で言うと30%〜70%の中リスク群に相当する。検査すればすぐにわかるけれど、怖くてできない。もし検査で現実を叩きつけられたら、僕はその勢いで死んでしまうかもしれない。自分の子供とお酒を飲む、そんな夢をまだ見続けていたいから、一縷の望みにかけて、僕は検査をしない。子供と一緒に過ごせないのなら、生きていても仕方ない。少なくとも今はそう思う。
もう二度と上書きされることのないであろう母子手帳を静かにカバンに入れ、 雫の降りしきる大通りを傘を広げて大学に向け歩いた。10代が終わる日は朝から雨だった。それでも、講義を終えて建物から出たとき、夕刻の西の空は透き通るような茜色に染まっていた。人生とは、そういうものだと思い知らされた。
信号待ちをしながら子供の手を握る父親がいた。ママチャリの前かごに乗せた子供に話しかける母親がいた。僕には、ただ手の届かないそれを微笑んで眺めることしかできなかった。
ここまで20年、何はともあれ生きてきた。生きていることの喜びと、生きていくことの難しさを同時に感じながら、星空を見上げた。今朝の雨予報も嘘だった。20回目の誕生日を迎え、食卓を囲んで親と酒を飲みかわした。うまかった。うまかった。泣きそうになるほどうまかった。食後のケーキを食らいながら、アルコールの余韻と幼子の瞳は、いつまでも頭蓋に響いて離れなかった。
盆
名神高速、新名神高速、名阪国道を初心者マークで飛ばし、さらに山道を延々と抜けて辿り着いたのは、三重と奈良の県境だった。立派な平屋建てと金魚の泳ぐ池、見渡す限りの緑。記憶のある限りでは、初めて訪れた。ここで生涯を過ごした曽祖母は、僕の退院直前に亡くなった。享年百九歳であった。
田舎と言うにもしっくりこない。さらに上を行く表現が必要な、そんな場所だった。コンビニはおろか、電波さえ入らない。「いちばん近い自販機まで数キロある」と初めて会った同い年の再従兄弟が教えてくれた。
曽祖母の初盆供養。白い布のかかった精霊棚には、故人の遺影が置かれ、その周りを色とりどりのお供え物が囲んでいた。知らない人も多くいた。この人はじいちゃんの兄弟の息子さんの奥さんで、こっちが娘さん。初めまして。こちらこそ初めまして。云々。こっちは誰々ちゃんの家族。再従兄弟の従姉妹の子供?ほら〇〇、挨拶は?ー 〇〇です。可愛いね、いくつ?ーろく。6歳かぁ。何て言う関係になるんだろう、調べようかな。あぁ、電波が入ってないわ。云々。
昼前に弁当が20箱ほど届き、あらかじめ用意されていた数十本のビールと日本酒は瞬く間に空き瓶の山となった。「この家系は代々酒呑みや、あんたんとこの爺ちゃんもよお飲んどったでぇ。」「昔はみんなここで飲んでそのまま車乗って帰っとったしな、えらい時代や。」「せやせや、あれ一回事故したで。」「一回ちゃうちゃう、もっともっと。」自分から見て誰なのかよく分からないおっさんが赤い顔で調子よく喋る。「ボウズ、飲むか?」「いや、ノンアルコールでいいです。」「飲みたいやろォ。」「こらこら、運転手やのに勧めたらいかんがな。」
机に連なった食べ物が、次から次へと手をつけられてなくなっていった。「元気に飲んで食べて、それが先祖のいちばんの供養ヤァ。」
先日、兵庫の父の実家にも行った。祖父と祖母の盆供養をした。そのときのお経の後の坊さんの説法を思い出した。
「お盆というのはね、もともとは餓鬼道からの救いなんです。釈迦の弟子の目連が、餓鬼道に落ちて苦しんでいるお母さんを救おうと釈迦に教えを請いたんですね、そうして供養したのが、今の盆の始まりなんです。ですから、食糧に飽いた昨今こそ、やはりその恵みに感謝することを忘れてはならない。手を合わせるっちゅうのはそういうことやと思いますね。」
目の前に並べられた酒と弁当は、瞬く間に我々の腹を肥やしていった。坊さんの言うように、それは当然ではなく、手を合わせるべきものなのだろう。我々が手を合わせるのは、何かを祈るとき、請うとき、謝るとき、そして飯を食うときだ。回数で言えば最後が圧倒的に多い。手を合わせなければ我々は生きてはいけない。
「ここは昔は田んぼとか畑やった」。蝉の鳴き声をかき分け墓参りに行く途中、父に教えてもらった。父の指差すその先には、荒れた山林が広がっていた。半世紀も経つとこうも変わるのかと思った。かつては自給自足の生活をしていた社会も、その影を残してはいない。食を自らの手で作らぬ我々は、坊さんの説法によると「餓鬼を忘れている」のだそうだ。先祖を弔うことだけでなく、恵みに感謝すること、それが盆なのだと知った。
墓は山の上にあった。かつては土葬だったそうで、墓石ではなく木の墓標が土に刺さっている。区画なんてものも一切ないし、自分が立っているところの下に遺体があることを否定できない。曽祖母は火葬だったが、見た目は土葬と同じだった。曽祖母の横の墓標は、木が朽ちて黒くなり、文字が書かれていた形跡さえなくなっていた。根元はボロボロになり、あと一回大雨が降れば倒れそうだった。「ここらへんがうちの家の人やし」「ここは誰?」「爺ちゃんか、婆ちゃんか、あれ、どっちや、どっちかやわ。」「木に書いた文字は20年経つと消えるからねェ。」
朽ちていく墓というものを初めて目の当たりにした。輪廻転生を強く意識させられるものだった。磨かれた墓石の対極とも言えるこの墓標は、一方で、どこか人間味のある不思議な存在だった。「ビールかけたって、好きやったから」「お墓にビールかけるんですか?」「いつもそうしてるで、ほら爺ちゃんビールやで」「うまいうまい言うてるわ」『ワハハハハ』
ビールなんかかけるから腐るんじゃないか、なんて思うのもナンセンスだろう。とりあえず地面を泡だらけにしておいた。中身が尽きたところで缶を置き、先祖と恵みに、静かに手を合わせた。
そのとき、ふとある考えが脳裏をよぎった。
僕はこうして手を"合わされる"側の人間だったのかもしれない。
この一瞬、鳥肌が立った。あの感覚は、恐怖というよりもむしろ畏敬であった。何か人智の及ばぬ荘厳なものに遭遇したときのそれだった。僕はもしかすると死んでいて、経を詠まれ手を合わせられる側の人間であったのかもしれない。いや、十二分にその可能性はあった。手を合わす人間と、合わされる人間、その全てがこの山の上に集まっていた。
墓参りを終えて家に戻ると、居間のテレビから、甲子園の試合終了を告げるサイレンが聞こえた。ひと夏の終わりが、線香の匂いの漂う広々とした和室に粛然と鳴り響いた。そう言えば、あのサイレンは空襲警報と同じだった。戦時中は間違えぬようにサイレンではなくラッパだったと言う。サイレンを聞いて夏の甲子園を感じられる今は、平和そのものなのだろう。今日は終戦記念日だ。「先祖を弔い、恵みに感謝する」。お燐を鳴らして静かに手を合わせた。しばらく談笑したのち、親族に別れを告げてからこの家を後にした。
死んだ者も生きている者も、昔からの馴染みも初めて顔を合わせる者も、歳月を超えてこのひとつ屋根の下に集まり、そしてまた各々の家に帰る。朽ちた墓標とビール瓶、庭の金魚、サイレン、線香の匂い。日本の盆が、ここにはあった。エンジンブレーキを効かせ、ゆっくりと細い山道を下る。酒を飲んだ親父は車の後部座席で赤い顔をして寝息を立てていた。夕暮れの山々にはヒグラシが木霊していた。
愛
僕達は生きていて、彼女は死んだ。
定められた運命だったのだろうか。
僕達の心臓はまだこんなに脈打っているというのに、彼女の心臓は跡形もなく灰になった。
癌が、また一人の人間を殺した。
「愛してる」。
その一言を絞り出して、1人の女性がこの世を去った。
その一言「愛している」と言って. . . そのまま. . . 旅立ちました . . . 。
「愛してる」の「る」が聞こえたか、聞こえないか. . . ちょっと分からないですけど. . . 。
夫はそんな日も淡々と二公演をこなし、ブログを何度も更新した。それでも、記者の前で話す1人の歌舞伎役者の姿は、どこか孤独に感じられた。「いつもと変わらぬ」と題したその日のブログにはこう綴られていた。
どんな事があろうと、
舞台。
役者になるとは
そういう事なのかもしれません。
思い出したのは、浅田次郎の「鉄道員(ぽっぽや)」だった。北海道のローカル線の終着駅で、娘が死んだ日も、最愛の妻を亡くした日も、怯むことなく旗を振り続けた駅長の姿に、彼が重なる。
ポッポヤはどんなときだって、げんこのかわりに旗をふり、涙のかわりに笛をふき、大声でわめくかわりに、歓呼の裏声をしぼり出さなければならないのだった。
ポッポヤの苦労とは、そういうものだった。
彼女の死と、彼の言葉は、重く深く、それでいて優しくのしかかってくるものだった。
僕自身は闘病中、幾度となく彼女のブログを読んだ。闘病記を始めたきっかけも、彼女のブログだった。強く生きる姿に、どれほど後押しされたことだろうか。
人の死は、病気であるかにかかわらず、
いつ訪れるか分かりません。
例えば、私が今死んだら、
人はどう思うでしょうか。
「まだ34歳の若さで、可哀想に」
「小さな子供を残して、可哀想に」
でしょうか??
私は、そんなふうには思われたくありません。
なぜなら、病気になったことが
私の人生を代表する出来事ではないからです。
私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、
愛する人に出会い、
2人の宝物を授かり、家族に愛され、
愛した、色どり豊かな人生だからです。
だから、
与えられた時間を、病気の色だけに
支配されることは、やめました。
なりたい自分になる。人生をより色どり豊かなものにするために。
だって、人生は一度きりだから。(BBCへの寄稿より)
彼女の苦しみは決して分からないけれども、彼女が死んだからといって可哀想だとは思わない。思ってはならない。そう思って欲しくはないと彼女が言っていたのだから。"一度きりの人生" を他人から可哀想だなんて言われる方が可哀想だと思う。(34)と記された数字を見て、若いのにね、なんて言うコメンテーターなんかぶん殴ってやりたかった。愛する家族に自宅で看取られて、最期に「愛してる」と伝えられて、それは彼女が望んだ形での幸せだったんじゃないですか。
先日、入院時に仲良くなった患者さんから、京大病院に外来診療に来たよと連絡があった。講義は午前で終わったので行ってみると、別の患者仲間も来ていた。久々の近況報告に話が弾んだ。しばらくすると、ポータブルの呼出受信機のベルが鳴った。
彼らの診察を待つ間、病院3Fにある図書コーナーで時間を潰した。棚を見ていると、ある一冊の古びた本が目に止まった。昭和53年発行、題は「死を見つめて」。最後のページには赤い字で「廃棄」と書かれていた。文字は黄ばみ、ハードカバーの装丁はボロボロになっていた。
その本を手に取ったのは、僕自身が、死を見つめることを望んでいたからかもしれない。退院してからは死が遠ざかっていた。ブログを2ヶ月も更新しなかったのは、紛れもなくそういう理由だった。自分も、患者仲間さん達も、「生きている」のである。多少の不自由があるにしろ、さも当然のように生きている。ある人は2年生存率が50%をきっていたし、ある人は僕と同じ年齢で両肺移植を受けていた。そしてそうした背景には、患者と同じ歳頃の、夢半ばで脳死したドナーがいたはずだった。
あるいは僕自身も、半年後死ぬことを半ば覚悟していた。20歳まで生きられたらいいな、なんて思ったこともあった。それなのに、あれだけ待ち望んだ「当たり前の日常」は、平然と過ぎ去っていく。こんなにも生きたかった今日は、雑踏に紛れていく。
深刻な病におかされて、僕達は生きている。その一方で、彼女は亡くなった。昨年9月に夫が妻の乳がんを公表したとき、5年生存率は、おそらく自分と同じくらいだった。今日という日を彼女は切実に生きたかっただろうし、僕達は今日を何食わぬ顔で生きている。
遺された夫と子が強く生きようとする一方で、僕達は一体何をしているのだろうか。
愛すべき世界でもう生きられないということ、愛する家族を失うということ、そんなもの何も知らなかった。
まお、|ABKAI 市川海老蔵オフィシャルブログ Powered by Ameba
胸が痛む。
本のページをめくっていると、こんなことが書いてあった。
太宰治は、「優しい」という字が、「人」ベンに「憂い」と書く、と言う。ひとに対して優しいのは、自分の中に憂いを持つ者だけである。憂いによって憂いが癒されるのである。
愛する者の死に直面する、その日が来たならば、優しい人間となろう。今日の自分の憂いを憶えないならば、明日、人に対して優しくなどあり得ないだろう。愛する者を失うという憂いと傷とを、じっと嚙みしめよう。人が人を真剣に愛したという重み、そこに生死を超えた永遠がある。
夫は、妻がなくなった日のことを「人生でいちばん泣いた日」と綴った。その憂いは、癒されることのない傷なのだろうか、僕には分からない。
それでも、人を憂えることが優しさであり、そういう優しさこそが愛であるとするなら、彼女の最期の言葉は、「愛してる」のその一言は、いつかきっと、憂える彼を優しい心地にいざなうことだろう。そうあってほしい。
彼はブログに「優しさは愛」だと綴っていた。愛と憂い、憂いと優しさ、優しさと愛。
昨年のブログの中で、彼女はこんなことを書いていた。
何の思惑もない優しさが
この世界にも、まだたくさんある。
たくさんあるけれど、
出会うのは難しい。
ほんものの優しさ。
彼女が出会った夫は、そういう優しさを持つ夫だったのだろう。そして彼の憂いは、子への優しさへと移ろい、時間をかけて再び愛へと変わるに違いない。憂いこそ優しさであり、優しさこそ愛であるのだから。
そして何もない時間|ABKAI 市川海老蔵オフィシャルブログ Powered by Ameba
人生が長いか短いかなんて、そんなものどうだっていい。生きた年数を評価するくらいなら、平均寿命なんて知らない方がいい。ステージⅣを宣告されて、余命を宣告されて、最期の時間を家族と過ごすことを決めて。それでも「奇跡はまだこれから起こるんです」と信じる夫と、母想いの2人の子供に支えられて。それはある意味では、ある人にとってみれば不幸なのかもしれないけれど、僕にはそう思うことはできない。僕の祖母は癌で亡くなる直前まで笑っていた。強く生きていた。僕自身は、癌になってから初めて生きることの素晴らしさを知った。生かされていることを実感できた。あるいは、そういう経験があったからこそ言えることなのかもしれないけれど、彼女は、周りの人々に恵まれ支えられ、そうして本当に幸せな人生を歩んだのだと思う。
憂いと優しさと愛とを、本当の意味で知った人生を。
「家族に愛され、愛した、彩り豊かな人生」と虚飾なく思えるような、そんな幸せな幸せな人生を。
御冥福をお祈りいたします。
どうか、彼と子が、これからも幸せな人生を歩めますように。
桜
散ればこそ いとど桜はめでたけれ
憂き世になにか 久しかるべき
ー 伊勢物語 八十二, 詠み人知らず
今年も桜が咲いていた。道行く人が思わず立ち止まり上を見上げる、そんな季節だった。入院中、幾度となく歩いた鴨川も、仄かな桃色で彩られていた。凍てつく寒さの中、いたたまれなくて病院を飛び出したあの日の川辺の面影は、もうすっかり東風に吹かれてどこかへ行ってしまっていた。
まだまだ退院までは遠いけれど、ひとまず寛解だと告げられて、長かった春への道のりを、少しばかり回顧していた。
強いね、とよく言われたけれど、決して強くはなかった。強がることには昔から長けていたから、そうしていただけだった。死にますよ、と言われて平気な顔をしているフリをしていた。見栄だけは一人前だった。そのうちにどれが自分の感情なのかを見失ってしまった。
治って良かったね、とよく言われた。自分は確かに見栄を張って笑って頷くけれど、心ここにあらずな気がする。もう笑っているのか口を結んでいるのか、泣いているのか怒っているのか、果たしてどれが自分の感情が創り出した表情なのか分からなくなってしまった。心は無表情のまま、ただ脳に従って、顔だけに物理的な繕いを生み出している気がする。コミュニケーションの潤滑油として、ありもしないところから無理に表情を引っ張ってくる。生ぬるい無造作な皺が、心との温度差を生じる。癌になったとき、自覚が全くなかったように、寛解を告げられたときも、やはり自覚はなかった。全てが無知覚だった。
癌に治癒なんてあるのだろうか。寛解と治癒とは似て否なるものだ。再発と併発の影に振り向きながら歩く。
5年以内に死ぬだろうと思って生きることの恐怖と失望とは、あなたには決してわからない。なぜなら自分にもさっぱり分からなかったからだ。「死」が分からないから、何に対して恐れ、何に対して悲観しているのか、それさえも分からなかった。分からない、ということに対して悶え、怒り、泣いた。ひとつ言えることは、僕自身の癌が再発する可能性は少なからずあり、そして死ぬ可能性も消えたわけではないということである。自分の癌が治癒したかどうかなんて、10年経っても分からない。背水を気にせずどう生きろというのか。
一方で、自分の存在がこの世から消えうることを恐れていたかというと、そうではなかった。人間どうせ死ぬんだから、いつでもいいんじゃない?みたいに考えることもあって、それはある意味では間違っていて、ある意味では正しい。絶対的「死」を超えられるものが今までにあっただろうか?憂き世に何か久しかるべき、とは千年経てど変わらないし、科学が自然を凌駕することは決してない。万物無常、早かれ遅かれいつかはサヨウナラ。じゃあ悲哀の対象はというと、"存在がなくなること"ではなくて、寧ろ、"忘れられること"だった気がする。
- 散ればこそ、めでたけれ。
桜というものは咲いては散るから、その刹那の美しさに気が気でなく振り回されてしまうのだ、と詠んだ在原業平に対して、桜は散るからこそ美しいのですよ、この世に永久に生き続けるものはありません、との返し。それが詠み人を知らぬ冒頭の歌である。
桜の美しさが、それ自身が散ることによって担保されるように、生命もまた死ぬことによって美しくあるのかもしれない。さすれば、その美しさは残酷である。巨木を成していた集合体は、風に吹かれて芥と化す。道端に散り、雨に踏まれて滲んだ薄桃の花びらは、いつしか土に還り、そして忘れられる。我々が桜を覚えているのは、年に一度必ず春がやってくるからだ。人の死が残酷であるのは、長い歳月が、その人が生きたという記憶を抹消するがゆえのことである。散った生命が再び花咲くことは決してない。そうして記憶から消されたものは、その時点において二度目の死を迎える。これは恒久的な死である。永年の冬である。
人が死を恐れるのは、死が不可逆ゆえではないと思う。少なくとも、自分の場合は初めはそうであったものの、数ヶ月経つと変わってきた。もっとも恐るべきは「忘れられること」であった。「わたし」が生きたという証さえもが土に還ることを、恐れていた。あなたに会えないことよりも、あなたに忘れられることの方が恐ろしい。生きたことが忘れられた時、「わたし」はその人にとって存在しなかったことになる。その人を忘れたとき、あなたは無意識にその人を殺している。
それでも、いつかは忘れられるものだ。どう足掻こうと生命はいつか失われる運命にあるし、その生命の記憶もやがては消されてしまう。恐るべき忘却力を持って。一度目の死も二度目の死も、避けては通れない。そして人々が恐れるのは、一度目の死を超えたところにある二度目の死である。
生命とは、驚くほどに弱い。ひょんなことですぐ死ぬ。交通事故死のニュースを見て、あぁこの人は昨日まで家族と食卓を囲んでいたんだろうな、友人と遊んでいたんだろうな、と思うと、人間の非力さを感じる。自分の場合でも、癌に対して自身ができることは何もなかった。弱い。無惨にも散っていく。散ったものはやがて記憶からも消え去る。
しかしながら、雨に打たれ風に吹かれて散らない桜は、あるいは人々に忘れられることなく常に咲き続ける桜は、もはや美しくないのかもしれない。桜の咲き誇るほんの刹那の栄華と、儚く散りゆく姿。それらは、人の一生にもまた似ている。雨にも負けて、風にも負けて、そうして一瞬のうちに散りゆくから生命は美しい。常緑樹よりも桜や紅葉が美しいのは、散るという行為あってのものである気がする。死こそが生命を生命たらせ、そうして平等にする。どうやら、人間というものも、いずれは死に、そして忘れられるからこそ、美しくいられるようだ。残酷さが、美しさを創り上げる。そんな「死」を恐れるのは、どこか筋違いな気がした。
雨に濡れる緑の混じった葉桜を見上げる者は、もう誰もいなかった。水たまりを避けて、皆足早に過ぎ去る。散った花びらは道端の側溝に流されていった。今年も、美しい桜が忘れられていく。散ればこそ、めでたけれ。今年の桜の死と、その忘却こそが、来年の桜を美しくする。