ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

喜びの矛先

 「高校生」とか「制服」とかいうワードに心が少しばかり反応してしまうのは、まだあの夏から抜け出せていない部分があるのかもしれない。軽トラで木材を運んでもらい、汗水垂らしてネジを締めまくり、ストーリーで揉め、予算に苦しみ、久々に喧嘩し、そして久々に嬉しさから泣いた。そんな夏から、気がつくともう1年が経ってしまったという事実を、今日母校の文化祭を訪れてまざまざと感じさせられた。相変わらず、夏の暑さに負けないくらいの熱気が、吹き抜けの校舎に充ち満ちていた。

 

 文化祭なんて、正直どうでも良かった。2年間はそうやって過ごしてきた。自分にとっては部活の方が大事だった。クラス単位で優劣を競うたかだか40分の劇に、貴重な夏休みを費やすのは時間の無駄にしか思えなかった。「賞がどうした、賞が何になる。」そう思っていた。

 

 高3の夏も、同じはずだった。部活を引退したから勉強一筋で行くつもりだった。人生がかかってるんだ、遊んでられるか、と言い聞かせていた。でも知らず知らず、クラスの空気感にのまれてしまった。馬鹿にされる本気と馬鹿にされない本気があると思うけれど、明らかにあれは後者だった。本気になっている人をみると、ついつい一緒になってやってしまう。

 

 もちろん、最初はクラスもバラバラだった。当たり前だろう。腐ってもいわゆる自称進学校なんだから。高3の夏に勉強に専念したいと考えるのはごく普通だ。やりたい人だけでやるのが文化祭だ、という風潮がないこともなかった。流れを変えたのは、ある中心メンバーの一言だった。

 

「勉強忙しいのは知ってるよ。でもさ、あと少しやん。文化祭、全員でやろうよ。全員で。」

 うる覚えだが、こんな類のことを喋っていた。

 

 目標に向かってひとつになる。そんな経験は、貴重だと思うけれど、でもやろうと思えばいくらでもできる場所は存在するはずだ。部活動、ボランティア団体、企業のプロジェクトチーム。でもそういったメンバーは、"集まるべくして"集まったメンバーなんじゃないのか。最初から、"志を同じくして"集まったメンバーなんじゃないのか。

 

 あのクラスは、違った。文化祭のために集まったメンバーではない。だからまずそこに向かうところから始めなければならなかった。向かうべき一点の含まれていない平面上に集められたメンバーだから、普通ならその一点にたどり着けずに平面上を狼狽することになる。ある一点に向かうには大きなエネルギーが必要になる。

 

 くすぶっていたところに火をつけるきっかけになったのが、あの発言だったと思う。大きなエネルギーが生まれた気がした。四分五裂のクラスに、少しずつ、光が見えてきた。何かに導かれるような気がした。それは、数十のてんでばらばらな方位磁針にそっとN極が近づいてくるようだった。針が右、左、右と動くうちに、その振れ幅は小さくなった。みんなの視線の方向がある一点に定まってきたときのあの感覚が、忘れられない。どのクラスも、そんな感覚を味わっていたんじゃないだろうか。金賞という一点をクラス全員で見つめるあの感覚を。3年のフロアに広がる気合いは、去年一昨年のそれとは質の違うものだった。

 

 目標到達を直前にして気づくことは多い気がする。必死に走ってきたんだけど、最後の最後に、ちょっとだけ振り返る余裕があった。リハを終えて、これまでが何物にも代え難く楽しかったと思えたし、結果より過程で成長するんだから、結果なんていらないと思えた。もちろん、結果が与えられる前提であのエネルギーが生まれているから、結論から言うと結果は必要なんだろうけど。

 

 本番を終えて、結果なんてもう色んな意味でどうでもよく思えてきた。成果主義なんて糞食らえと思った。

 

 閉会式。全校生徒の前で結果が伝えられた。金賞は、自分達のクラスだった。

 

 その瞬間はもう文字どおり飛び上がるくらい嬉しかった。けれども、一通り余韻に浸ったあと、ほとぼりが冷めてから、ふと感じた。金賞じゃなかったらどうなっていたんだろう。よくよく考えてみると、結果がどうであれ、過程はそれに左右されないんじゃないか。過程によって結果が左右されることはあるとしても、逆は決して成立しない。時間は不可逆だから。

 自分達には、揺るぎない過程があった。それは他のクラスも同じだった。賞なんてあろうがなかろうが、過程に対して素直に喜べるんじゃないか。それを理由に集まった訳じゃないのに、ひと夏を、汗水垂らして、同じ方向を向いて、共に頑張った仲間がいたんだ。市の青少年センターの一室を借りて、制服のまま夜中まで練習したあの日のことが、忘れられない。

 

「賞がどうした、賞が何になる。」

あの頃とは言葉の持つ意味が違う。過程は決して外部から評価することはできない。10年経って振り返って残っているのは、結果ではない。間違いなく過程の方だ。

 

「青春」とでも呼ぶのだろうか。1年前を思い出しながら、夕暮れを天窓に映した結果発表後のアトリウムで、肩を組んで天体観測を唄い狂う高校生を眺めて、受動的な感動に浸っていた。あんな経験は、人生でもう二度と出来ない気がした。時間は不可逆だから。

 

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