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ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

媒体という悪霊 ①

 山月記の著者である中島敦の作品のひとつに、「文字禍」というものがある。僕はこの作品に2度出会った。1度目は中2の頃。塾の先生から中島敦を勧められて読んだ。あのときは、まだ作品の風刺がよく分かっていなかった。2度目は高3の頃。京大の過去問に出てきて、1度目とは全く異なる印象を受けたのを覚えている。

 物語のあらすじはこうだ。ナブ・アヘ・エリバ博士が、文字という「単なる線の集積」に意味を付与して記号化するのは文字の精霊であるという発見をし、人々はこの精霊に侵されていると警鐘を鳴らすものの、自身も文字の精霊の餌食となり、ついには死んでしまう。古代オリエントに起こった文字の禍(わざわい)の物語を通して、現代社会を痛烈に批判している。

 

 文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓も智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。近頃人々は物憶えが悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。

 

  中島敦の批判するところはすなわちこうだ。文字のなかった時代、人々は事物に対して感性や知恵を直接交わらせていた。しかしながら現代では、事物と感性ないし事物と知恵の間を、言葉という悪霊が媒介している。文字という便利な媒体によって、本来有していたはずの豊かさが失われてしまったと言うのである。

 

 最近、それをつくづくと感じさせられた出来事があった。かなり極端な例かもしれないけれど、ちょっと書いてみようと思う。

 

 つい先日のこと。流行りに乗っかって、友達数人で君の名は。という映画を観に行った。大ヒットしているというだけあって、良い意味で期待を完全に裏切ってくれた素晴らしい映画だった。自分の語彙力では形容しきれない作品だった。

 

 その作品のポスターのうち、酷すぎるものがある、と最近twitter2chで話題になっていた。ここに写っているものがそれだ。

 

 

 流石にこれは誰が見てもひどいと言うだろう。感想の稚拙さに作品が泣いている、という意見もあった。けれども、文字の霊に侵されてしまったがゆえに、そう思わない人もいるのかもしれない。でなければこんなポスターなんか生まれないのだから。少なくともこれを作った当人は、そういうことなのだろう。

 

 日常的に言葉を媒体として使用している以上、事物に対して何かを感じ取ろうとするときは、媒体がしっかりしていなければならない。恐ろしいのは、有する語彙が稚拙なものしかなければ、事物そのものまで貧しくさせてしまうということである。稚拙なフィルターを通過した事物は、原型をとどめるはずがない。いくら素晴らしい映画を観たとしても、それが脳に届く頃には質の落ちきったものになっていることだろう。これは当人には気づけない。

  

 こんな例ではどうだろうか。下の写真のような、海を真紅に染めながら水平線の彼方に沈む夕陽を眺めている、という光景を考えてみる。

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 中島敦が言うには、文字のなかった時代、人々はこの風景をそのまま捉えることができたそうだ。その感覚は、残念ながら文字を知ってしまっている自分には到底理解しきれない。では僕達現代人は、この風景を見てどう思うだろう。綺麗だ、美しい、幻想的だ、雄大だ。でも、そうやって感じる思いは、全て言葉を介して得られたものだ。つまり、この風景は"綺麗な、美しい、幻想的な、雄大な" 風景として、"自身の言葉を介して"認識される。どう足掻いたって、事物と人との間には言葉が介在してしまう。

 

 言語が先にあって、そうしてはじめてそれを認識できるというのは、実際のところ、認知学においてよく言われる有名な話だ。例えば、我々はイヌイットのように雪に対して52の異なった表現を用いることは出来ない。52もの雪の違いを理解することは出来ない。

 

 では、先ほどの風景を見て得られる感想が、先に挙げたポスターのような "ぐわぁ-!すごすぎる。" といった稚拙なものだとどうだろうか。結果は言うまでもない、お察しの通りだろう。すなわち、何かを感じ取ろうとするとき"言葉を介する"というワンクッションがあることによって、その言葉が稚拙であればあるほど、そこから得られるものもどんどん質の悪いものとなるのだ。

 

 では語彙力をつければつけるほど良いのだろうか。無論、稚拙な語句を使うよりは幾分かマシだとは思うけれども、中島敦は、そこに疑問を投げかける。

 

 物語の中でナブ・アヘ・エリバ博士は、ゲシュタルト崩壊(彼はそれを分析病と呼ぶ)を経験した後に、こうも述べているのだ。

 

今まで一定の意味と音とを有っていたはずの字が、忽然と分解して、単なる直線どもの集りになってしまったことは前に言った通りだが、それ以来、それと同じような現象が、文字以外のあらゆるものについても起るようになった。彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。人間の身体を見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。もはや、人間生活のすべての根柢が疑わしいものに見える。ナブ・アヘ・エリバ博士は気が違いそうになって来た。文字の霊の研究をこれ以上続けては、しまいにその霊のために生命を取られてしまうぞと思った。

 

 語彙が発達すると、逆にその事物を論理的に捉えようとしてしまう。例えば映画を観て、この場面はこういう伏線で、ここはこれを暗示していて、だからこの作品は非常に面白い!というのは直接的な感性とは少し違うような気がする(否定はしないが)。また、黄昏に染まる風景を見て、"世界中のすべてが赤く染まっていた、まるで特殊な果汁を頭から浴びたような鮮やかな赤だった(ノルウェイの森より)" なんて思うのも、文学作品の中だけで充分こと足りるだろうし、"大気に散乱されにくい長い波長の光が届いているんだ" なんて考えるのもここではナンセンスだろう。

 

 もしかすると、 一般的に美しいあるいは素晴らしいと言われるような事物に対する表現としては、「言葉に出来ない」くらいが丁度いいのかもしれない。「やばい!」であったり「感動した!泣ける!」であったり、取り敢えずその辺から適当な言葉を摘んできた、というような表現や、上に挙げたような分析的すぎる表現等は、その事物の持つ本来の姿を殺しかねない。それは芸術作品や風景に限らず、人の心を動かしうる万物に対する表現すべてに関係する。北島康介選手の発した「何も言えねぇ」がどこか純粋な響きを持つのは、自身の感じたことを下手に形容していないからかもしれない。"歓び"を言葉で適当に形容してしまうと、"歓びの影"になりかねない。

 言葉によるバイアスを極力減らして、裸眼に近い状態で接することができれば、それが結果的にはいちばん対象物を吸収できる気がする。少なくとも、"ぐわぁー!すごすぎる。" なんて発してしまった日には、もう末期だ。どうしようもない。ナブ・アヘ・エリバ博士と同様、為すすべもなく文字の霊に生命を取られてしまう運命が待っていることだろう。

 

 現代では、言語化しがたい感性を何とか言葉で表現しようとすることが、さも正義であるかのように捉えられている。しかしながら、果たしてそれは本当に良いことなのだろうか。言葉に出来ないものは言葉に出来ないままでもいいんじゃないだろうかと思ってしまう。全てを言葉にして発信する必要はないんじゃないだろうかと考えてしまう。何というか、自分達人間が、知らず知らず文字の精霊に毒されているような気がしてならない。