ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

媒体という悪霊 ②

( 媒体という悪霊① はこちら

 

 辞書の大御所とも言えるOxford英語辞典は、毎年11月にその年を象徴する単語を発表している。どうやらこれは、英国版の流行語大賞に相当するらしい(但し日本とは異なり大賞となるのは一語のみだが)。昨年は "emoji"だったようだ。日本語がイギリスの流行語大賞を受賞していたなんて知らなかった。ちょっと面白い :)

 

  受賞語をざっと見てみると、その中のひとつに "selfie"(自撮り)があった。2013年の大賞だ。どうやら、世界的に見ても自撮りが流行し始めたのは3年ほど前のことらしい。意外と最近なんだな、と驚いた。そう思ってしまうということは、日本においても、この3年で自撮り文化が既にある程度深い根を張って定着したということであろう。

 

 やはり自撮りが好きな人は女性に多いようである。そんな彼女らの自撮り好きに対して揶揄する人々もやはり一定数いる。自分はというと、基本的にはどちらの側にも属さないし、それらを肯定するわけでも否定するわけでも勿論ない。単なる第三者的傍観者のつもりである。ただ、彼女ら(彼ら)の「静止画を撮る」ないし「動画を撮る」という行為の目的の不明確性に対しては、少し疑問を抱いてしまう。撮影という行為が、あらぬ方へ転がっていってしまっているような気がするのだ。

 

 そもそも撮影という行為の目的とは何なのか。諸々あるだろうけど、根本的にはやはり"眼前の情景を瞬間的に切り取って、半永久的に保存すること"くらいなものだろう。動画の場合でもあらかたこんなところだと思う。撮影の本来の目的は「記録」であったはずだ。昔の人々が目指したのは、記録媒体としての器具の発明だろう。

 カメラの歴史を紐解いて行くと、ざっと1000年前にまで遡ることが出来るようだ。そして、写真撮影の端緒となるものが誕生したのは長らく後、200年前のパリらしい。当時は撮影だけでも1枚あたり8時間以上かかったようで、現像にも高度な技術を要した。無論、大衆に手の届くような代物ではなく、庶民がカメラを手にするようになったのは20世紀に入ってからのことらしい。一方戦後になると、急速にフィルムカメラが普及していった。デジタルカメラはというと、なんと平成になってからようやく店頭に並んでおり、そんな長い長い歴史のほんの一端にすぎないと言える。ちょうど自分達が生まれた頃がフィルムカメラの全盛期であり、デジカメの販売がフィルムカメラのそれを上回ったのはつい最近、2005年のことだそうだ。これには本当に驚いた。

 

 そういえば幼い頃、家の近くにカメラ屋があった。あの頃、まだデジカメは家になかった(その店はデジカメの普及と共に潰れた)。親が現像されたフィルム写真を取りに行くのに何回か付いていったのを覚えている。フィルムカメラは、慎重に撮影しなければならなかった。現像されるまでどんな風に撮れたか分からないし、失敗したからといって消去することも出来ない。撮れる枚数もある程度限られている。無闇矢鱈に撮りまくることなど言語道断であった。

 

 そんなカメラだったが、デジカメが普及し、ちょうど20年ほど前からは、撮った写真をその場で確認・消去出来るようになった。パソコンに取り込んで無尽蔵に保存することも可能になった。

 

 2000年代になると、携帯電話が急速に普及し始めた。画像加工の元祖であるプリクラが大ブームとなるのもこの頃である。そしてついに、携帯電話にもカメラ機能が搭載された。"写メール" サービスが始まった。情報化社会が急速に発展するとともに、いつでもどこでも簡単に写真や動画を撮り、保存し、送受信することが可能になった。これは長い長いカメラ史からすれば大事件かもしれない。

 

 そして2007年、突如として世界にスマートフォンが登場した。かのiPhoneである。日本では翌年から発売が開始され、同時にAndroid搭載スマホも店頭に並び始めた。スマホ市場は世界中で急速に拡大していった。シャッターを切る、なんて言葉はもはや似合わない。画面上に形とばかり表示されたボタンに触れるだけで、静止画も動画も撮れる時代が到来した。そして、その簡便性に追い討ちをかけるようにSNSが誕生した。「記録」のみだった撮影の目的は、いつしか「発信」に焦点が当たるようになり、それは年々ますます多様化しつつある気がする。

 

 SNSにアップロードするべく、「ある出来事が起こったことを記録する」のではなくて、「ある出来事を誰かに知ってもらいたくて発信する」。そんなところが"発信"の始まりだった。それが少しずつエスカレートし始めた。「あるイベントに参加したこと」を記録するのではなく、「あるイベントに参加した自分」を発信する。無尽蔵の保存容量と撮影の簡便性にかこつけて、思考停止のままほとんど反射的にスマホを取り出して撮る。自撮りだけにとどまる話ではない。眼前の情景に対して向けられるのは、真の興味・関心ではなく握られたスマホのレンズだ。あれよあれよと言う間に撮る、撮る、撮る。そこに意思はほとんど働かない。気づかぬうちに手が伸びる。さらなる自己顕示欲、そして承認欲によって人々の発信欲はますます駆り立てられていった。

 そんな状況を上手く利用したのが写真加工アプリであろう。それも、写真をより美しく見せる目的から、ついには自身をより美しく華やかに見せる目的へと瞬く間に変遷していった。カメラが発明されて200年。ついに、発信される写真や動画には、数多くの虚偽が混じるようになった。

 

 先程も述べたが、自分は決して自撮りや写真加工を否定しているわけではない。それらは、善し悪しはさておき、写真の在り方のひとつだとは思う。問題なのは、それが思考停止のまま行われていることである。ただひたすら撮る、ないし加工するのは当人の勝手かもしれないが、実際にその対象物を自分の目で見ているのだろうか。無闇矢鱈に撮ることは果たして何を目的としているのだろうか。珍しい出来事に遭遇したとき、友人らと楽しい時間を過ごしたとき、その場で静止画を撮らなければ、動画を撮らなければ、後から悔やんでしまう。静止画や動画でしかその瞬間を、その光景を、残せない気がしてしまう。そんな人はもう自身の目が働いていないのかもしれない。いや、ひょっとすると自分もそうかもしれない。

 

 美味しいパンケーキを食べた。大好きなアーティストのライブに行った。山頂から日の出を見た。 そんな瞬間は、誰でもシャッターを切りたくなる。そりゃあそうだ。でもそうやって、その情景がデジタル情報として半永久的に保存されることに胸を撫で下ろして安堵し、自分の目に直に焼き付けるということを怠ってはいまいだろうか。写真や動画として保存されるのは、前回のブログにも書いた「影」の部分だ。歓びの影、興奮の影、美しさの影。その影ばかりに意識が向いて、肝心の対象物をそのまま裸眼で見ることを忘れてはいまいか。カメラという媒体の存在が、それを邪魔してはいまいか。

 

 誰しも経験したことがあるだろうが、数年前の何気ない日常の記憶がまるで昨日のことのように想起されることが、やはり自分にもある。それは別に写真や動画に収めたわけではないのに、鮮明に蘇る。視覚だけではない。聴覚や触覚、場合によっては嗅覚、味覚などと、五感に蘇る。あれは何なのか。いや、あれこそ「自分の目に焼き付ける」ということではないのだろうか。カメラないしスマホを握り続けていては、それが上手く行えない気がする。

 

 かの有名な今は亡き写真家・星野道夫は、かつて以下のように語ったそうだ。

頬を撫でる極北の風の感触、夏のツンドラの甘い匂い、白夜の淡い光、見過ごしそうな小さなワスレナグサのたたずまい…。ふと立ち止まり、少し気持ちを込めて、五感の記憶の中にそんな風景を残してゆきたい。何も生み出すことのない、だた流れてゆく時を大切にしたい。

 写真を撮ることを生業としていても、やはり情景は心の記憶に残していきたいと考えるのである。いくら上手い写真を撮ろうと、美しく加工しようと、それは影だ。さらには虚偽だ。

 

 現代人は、カメラのレンズを通してしか事物を記憶出来なくなってはいないだろうか。もし仮に今そうでないとしても、まだスマホが世に出回り始めて10年も経過していないのである。これから先、ますますカメラの性能が発達し、カメラの在り方が千変万化していく中で、裸眼で事物を観察し、そして記憶する人間本来の能力に、陰りが見え始めることは決してない、などと断言出来るのだろうか。静止画や動画はあらゆる瞬間において撮ることが可能であり、あらゆる瞬間において見返すことが可能である。しかしながら、その簡便さが本来の豊かさを奪い取ろうとはしていないだろうか。

 

 「真ヲ写ス」と書いて、「写真」。もともと、「真」とは「人の姿」を意味したそうで、古来、写真とは肖像画のことを指したようだ。それが今となっては、写された「真=姿」さえ加工に加工が重ねられて「偽」となってしまっているのだから、皮肉なことこの上ない。

 

 真を写さぬことが可能となった媒体は、そして人々に無意識的・非目的的に使用されるようになった媒体は、満を辞して暴走を始めたのである。ああ何たるや、これこそまさに現代社会の直面する「文字禍」ではないのか。媒体の精霊によって本来の姿が蝕まれていく。ゆっくりと、しかしながら確実に。その着実性のために我々は全く変化に気がつくことができない。前回と構図が全く同じではないか。

 

 便利な媒体は悪霊である。進行性の癌のごとく、知らぬ間に身体を蝕んでいく。その脅威に気づく頃にはもう時既に遅し、レンズを通してしか世界を認識できなくなっているかもしれない。星野道夫氏のように、裸眼でありのままの姿を観察するよう常に心に留めている必要があるのではないだろうか。レンズ越しに世界を見るときは、目的的に撮影するべきではないだろうか。そうせぬ限り、我々を待つのは媒体の餌食となる運命だろう。静止画も動画も、「記憶を引き出すのに役立てるツール」くらいに捉えておいた方がいいのかもしれない。記録は記憶にはなり得ないのだから。両者は似て非なるものだ。

 

 目の前の情景にシャッターを切ることは全くもって否定しない。加工も決して否定しない。その行為をする必要があるかどうか自問すべきだ、というわけでもない。ただ、薄っぺらい二次元情報としての影を追う前に、今一度、眼前の情景を心の中に、五感と共に、深く刻み込むよう意識したいものだ。それは長い年月を経ていつしか自身に還元されることだろう。鮮明な記憶として。脚色のない、ありのままの過去として。

 

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