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ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

公平≠公正 〜陸上競技にみるスポーツ倫理〜

 日本が男子4×100mリレーで史上初となる銀メダルを獲得し、ウサイン・ボルトがオリンピックとしては自身最後となるフィニッシュラインをトップで駆け抜け歓喜に沸いたその翌8月20日、現地時間21時15分、エスタジオ・オリンピコはまたも熱気に包まれていた。陸上競技女子800m決勝。2位と1秒以上の大差をつけて優勝したのは南アフリカ代表、今期世界ランク1位のキャスター・セメンヤであった。画面に映し出される地球の裏側の白熱した戦いに、僕は釘付けにならざるをえなかった。圧倒的な強さだった。

 

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 2ヶ月後、そんな彼女に関する議論を大学で、しかも法哲学基礎ゼミで扱うなんてことは、予想だにしなかった。ー スポーツと法哲学。一見すると何の関係もない二者の衝突が、トップアスリート達の間で新たに生じつつある問題を浮き彫りにした。

 

 "先天的に男性ホルモン値が異常に高い女性が、陸上競技に女性として出場することが許されるのか"。彼女を取り巻く議論を端的に示すとこのようになる。恥ずかしながら、僕はこんな議論が水面下で激化していることは微塵も知らなかった。この問題が裁判にまで発展したことを知って驚きを隠せなかったのは、言うまでもない。

 

 もう少し詳しく話すと、セメンヤはアンドロゲン過剰症であり、男性ホルモンの一種であるテストステロンの分泌が通常の女性の3倍ほど多いそうだ。これが発覚したのは2009年、彼女が世界陸上ベルリンで金メダルを取った直後の性別検査である。声が低く、筋肉質な18歳の無名選手が圧倒的勝利を果たしたのだから、疑いをかけられるのは避けられなかった。

 

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 国際陸上競技連盟(IAAF)は金メダル剥奪こそしなかったものの、実質的な両性具有と判断し、彼女に出場自粛の強い圧力をかけた。実際、両性具有と判断されて競技人生を断たれた選手は過去に4人もいるようだ。メダル剥奪は数え切れない。これに反発して大会出場を強行し続けた彼女は、自国の南アフリカ陸連から公式に出場停止処分を受ける。彼女にとっては走ることだけが喜びであり、競技の場を奪われ苦悩の日々を送ったという。彼女が復帰を果たしたのはそれから約一年後であった。スポーツ仲裁裁判所は、テストステロン値と競技力の比例関係の明確な証拠がないとして、IAAFを退けたのである。しかしながら、議論は終わらなかった。

 実のところ、彼女に圧力をかけたのはIAAFだけにはとどまらなかったのだ。陸上競技関係者をはじめ、一部のトップアスリート達までもが、彼女を猛烈に批判したのである。そしてそれは今なお解決していない。リオオリンピック800mで6位に入賞したリンゼイ・シャープは、大会後にメディアの前で現状改善を訴えた。同じように考える選手は、数多くいるのである。

 

 ここまで書くと、キャスター・セメンヤが大多数の非人情な人々と対立している構図を想像してしまうだろう。しかしながら、彼ら彼女らがそう発言してしまうことには、それなりの背景があるに違いない。

 

 思うに、この問題の根源のひとつとして考えられるのは、世界アンチドーピング機構(WADA)が2004年から施行している "Whereabouts System" じゃないだろうか。これは言わば、世界のトップアスリートに行われる抜き打ちドーピング検査である。彼らは、自身の予定を3ヶ月毎にADAMSと呼ばれるWebページ上に提出することを義務付けられ、365日どこにいるかをWADAに把握されている。そしてある日、検査員がいきなり訪問してくる。夜中就寝していようが御構い無しであることは、よく知られている。

 

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 完全なる公平性を担保するために365日監視下におかれる。風邪薬でさえ、迂闊に飲むとメダルを剥奪されてしまう。そんなトップアスリート達が、男性ホルモン値が高い彼女に対して黙っていられないのも当然ではないかと思ってしまう。テストステロン値を手術によって下げることが出来るのに、どうしてその措置を取らせないのか、と。それが先天性であるか後天性であるかは、他の選手にとって問題ではないのだ。

 

 ここで議論となるのは、公平性と公正性である。要は、平等化することが必ずしも倫理的に正しいとは限らない、ということだ。一方で現在のスポーツ界では、公平であることこそが公正である、という過剰認識があるのではないだろうか。その根源がWhereabouts Systemを始めとする、"ガチガチの公平性担保機構"であると思われる。

 

 ここで言う「スポーツ」とは何なのか。sportとはdisport(気晴らし、遊び戯れ)を語源とするそうだ。ならば、disportをsportたらしめるのは「ルール」であろう。規則に反する不正なく、正々堂々と競うのがsportである。ただ、「不正なく」とは言ったが、不正の対義語はあくまでも「公正」であり、「公平」ではない。しかし現在のsportにおける認識は、「不正がない」=「公平・平等である」という意識が強すぎる気がする。

 

 テストステロン値を抑えて人工的に公平性を作り出すことが公正なのであれば、逆を一度考えてみればいい。例えば、テストステロン値が極端に低い男性がいたとして、そのホルモンバランスを操作する。男性ホルモンをもっと分泌させる。これも公平のためにやるのだから、公正となるのだろう。黒人の屈強な肉体が欲しいがために、白人が遺伝子操作を行う。さらには、身長が平均より低いことを理由に膝下の骨延手術を行う。これらだって、公平性の担保のためにやるのだから、その考え方に則れば公正となるのだろう。

 

 いや、なるわけがない。

 

 身体の先天的不利性を人工的に操作して公平化するのは不正なのに、先天的有利性を公平化するのは公正。そんなことがあってはならないと思うが、現に今そうなっているのである。

 

 「人間として女性である」ことと「競技者として女性である」ことは、昔は同値であった。一方Intersexの概念が存在するようになってからは、それが同値ではなくなったが、このことは理解できる。XXとXYの2種類で定義するのはもう古い。ただ、出る杭のみを打って整地する行為が正義とでも言わんばかりに公然と行われることに対しては、理解を示すことはできない。その鉄拳制裁行為は、グレーゾーンというよりむしろ不正ではないのか。オリンピック憲章の原則にも反しているのではないか。

 

・スポーツの実践はひとつの人権である。何人もその求めるところに従ってスポーツを行う可能性を持たなければならない(第八条)

 

 セメンヤの人権は今、大きく揺れている。先天的アドバンテージを殺さなければならない理由は存在しない。高い運動能力や心肺機能、高身長。男性ホルモンの値が高いことは、これらと同じレベルで扱ってもいいはずである。たとえそれが病気だとしても。

 

 平和の祭典オリンピックは冷戦状態にある。自身の肉体の限界、さらには人類の肉体の限界を競う最も純粋で美しい競技の世界に、どうしてこうも外部から限界値を下げさせる圧力が生まれてしまうのか。1/100秒。1cm。どうしてこう「差をつけて」勝敗を決する競技のために、人権を軽視してまでも「個人差を極限までなくして平等化」するのか。そのジレンマに、僕は納得がいかない。

 

「セメンヤが、陸上競技に女性として出場することは許されるのか」。この問いに対しては、しかしながら、僕はYesだと明言することは出来ない。それぞれにそれぞれの言い分があり、それは倫理的にどうであるかはさておき、必ずしも筋が通っていないとは言えないのだ。ある選手は言う。「セメンヤには絶対に勝つことはできない」と。別の選手はこう言う。「彼女もまたハードなトレーニングを日々やっているのだ」と。何かを取るには、何かを捨てなければならないのかもしれない。この問題は非常に大きな問題だか、解決策は見出せないような気がする。少なくとも現行システムの上では。自分達に出来ることは何ひとつないのである。歯がゆい。ただただ、このような問いを生み出してしまった、そして解決出来ない状況に持ち込んでしまった、そんな「背景」の存在に対して、嘆くばかりである。ひょっとすると、この問題はセメンヤが世界ランク30位なら起こらなかったかもしれないし、国家を背負っていなければ起こらなかったかもしれないし、身長が突出して高いなどといった状況なら起こらなかったかもしれない。サッカーや野球といったチームスポーツならなおさら起こらなかったかもしれない。そして、そう考えられることこそが一番の問題なのかもしれない。

 スポーツはついに細部の細部まで規定しなくてはならない局面を迎えているのだ。いや、厳たる規約があってさえも、ロシアの国ぐるみドーピングのような事例が起こるのである。各々が自分の医学チームを持つまでになったトップアスリートらの競技は、徹底した公平性担保機構が存在しなければ成り立たない時代になってしまったのだろう。スポーツ科学の発展は功罪相半ばしているのだ。「純粋に競うスポーツ」なんてものは、もはや絶滅してしまったのかもしれない。スポーツの美しさは、その基幹部分が既に壊死してしまっているのかもしれない。どこまでが競技なのか。果たして何を、何のために競うのか。その意味さえも分からなくなってしまいそうである。スポーツとは一体何なんだ?