ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

 

なんで俺なんだろう。

この数週間で気が狂うほど繰り返した。

 

 

どうしてあなたが。

この数週間で誰しもがそう言った。

 

この世には唯一解の用意された疑問と、複数の理由ないし選択肢が用意された疑問と、答えることのできない疑問の、3種類がある。

 

「人はなぜ死ぬのか。」

 

この問いに対する普遍的な解などは存在しない。ただ一方で、複数の要因を考えることは如何にも容易い。あなたの祖母はなぜ亡くなったのですかと聞かれて、癌です、と答えるのは実にスムーズで自然な流れである。生物学的観点を持ってすれば、この問いに答えることはそう難しくはないだろう。

 

ところがそう簡単に答えられないものもある。

 

「人はなぜ生きるのか。」

 

先ほどの問いと似たような外見をしているが、これは全くの別物である。この問いに対して流水のごとく答えられるのは新興宗教の教祖くらいなものだろう。哲学の根本とも言えるこの問いに、人類は何千年も挑み続けてきた。しかしながら、この問いに答えることは決してできないのである。どこまで突き詰めてもその先があるのだ。地平線の先に辿り着いても、また新しい地平線が広がるだけ。「円周率は幾つですか」という終わりなき問いに対してπという記号を付与するのとはわけが違う。「人はなぜ生きるのですか」という終わりなき問いに一般解を見出そうとすることはもはやナンセンスなのかもしれない。

 

 

 「どうして俺が癌にならなきゃいけないんだ。」

 

 タバコも吸わない。酒も飲まない。栄養バランスも悪くない。運動して肉体も維持し続けてきた。ストレスもちゃんと発散しているつもりだった。それなのに、どうして、どうして俺なんだ。

 

 

 

 「どうして俺が癌にならなきゃいけないんだ。」

 

 何遍も何遍も繰り返して、ようやく気づいた。この問いも同じく、もはやナンセンスなのかもしれない。

 

 僕は、人生とは偶然の産物であり、それでいて必然の産物であると考えている。「偶然のような必然」と「必然のような偶然」。それは「運命のような奇跡」と「奇跡のような運命」、とも言い換えられるかもしれない。

 

 未来はある範囲で決定している。これが僕自身の考える「必然」である。例えば、日本にいるあなたは1時間後にアメリカに行くことはできない。そこには様々な制約が働いている。現代の技術では1時間で太平洋を横断するのは不可能であるし、交通の便のせいで1時間後には空港にさえ辿り着いていないかもしれないし、今夜避けられない用事があるかもしれないし、そもそもパスポートを持っていないかもしれない。ある与えられた状況下においてしか、選択肢は発生しない。あなたに「1時間後にアメリカに行く」という選択肢は存在しないのである。こうやって選択肢を狭めていくと、取りうる選択肢は限られてくる。あなたは多分10秒後もこのブログを読み続けるという選択肢をとってくれているだろう。ありがとうございます。これが「必然」。

 

 逆に「偶然」とは何か。僕は、人間の意志は自由だと考えている。そこにある程度の宗教的、社会的、倫理的背景が働くとはいえ、我々には思考を創造する自由が与えられている。ある有限の選択範囲の中で、無限の思考を創造する。そのとき、ある「必然」の範囲内から「偶然」が生まれる。ある定まった「運命」の枠組みから、とんでもない「奇跡」が生じる。人生は、その繰り返しなんじゃないか。スマホを手に取るという選択肢と、課題をやるという選択肢と、とりあえず寝るという選択肢があって、スマホを見る。そんな些細なことさえも、偶然のような必然で、必然のような偶然。一瞬前の自分が確かに存在して、そして何らかの「必然」と「偶然」によって今ここに「自分」が存在する。現在の自分というのは、過去の自分にとっての「必然」の範囲内から生じたものであり、そして「偶然」にして今ここにいるんじゃないのか。

 

 

「どうして俺が癌にならなきゃいけないんだ。」

 

 現在の自分を否定するということは、即ち一瞬前の自分を否定することであり、一瞬前の自分に起因する「偶然」と「必然」を嘆くということである。要するに現状自己否定の行為は、あらゆる瞬間に遡って自己を否定することであり、自分自身がこの世に生を受けてから今現在まで過ごしたあらゆる時間を否定することになる。生まれてこなければ癌にならなかったのだから。僕はそういう生き方をしたくはない。

 

 僕は、偶然にして癌になったし、そして必然的に癌になった。検査で偶然発見されたし、必然的に発見された。それは紛れも無い事実であり、19年間、いやもっと先代からの、ありとあらゆる偶然と必然の因果によって、今ここに癌と闘う自分がいる。あなたがこのブログを読んでくれているのも、僕自身と何らかの繋がりがあるからだろうし、その出会いさえも何らかの必然であって、そして偶然であったはずなのだ。偶然と必然の産物であるあなたの人生があって、同じく偶然と必然の産物である私の人生があって、それが何らかの因果によって、多かれ少なかれ交点を持っている。運命のような奇跡であって、奇跡のような運命。そこにはもう、人智の到底及ばぬような大きな力が働いているとしか思えない。偉大な存在にのみ為せる業である。それを「神」と呼んでもいいかもしれない。「神」と呼称すべき光に充ち満ちた存在を感じざるをえない。

 

 崇高たる力を前にすれば、「人はなぜ生きるのか。」などという問いが、いかに愚かなものであるかが分かるだろう。

 

 主治医の名前を検索していると、彼の書いたブログを発見した。

人の生きる意味なんてない、とにかく自分に与えられた時間、境遇を一生懸命生きるのみ。

 この一文を見たとき、これこそが本質だ、と強く感じた。直感的に、それでいて疑うことなく、真理だと思った。人に生きる意味なんてものはない。「生きる意味」という空想概念を追い求めようとするからこそ、「生きる意味を見失う」なんてことがあっさりと言えてしまうのである。生きるということ、その行為には意味なんぞ付与することのできない尊さがある。何が「生きる意味」だ。何が「不幸」だ。偶然と必然、その大いなる自然の潮流に身を委ねて生きているということ、それだけでいいじゃないか。途方もなく素晴らしいじゃないか。無数の選択肢から生まれた、運命のような奇跡のような、「人生」という名の一本道。神のみぞ知るその偶然と必然のあらゆる因果に、今、心からの感謝をせねばならない。生きる、ということの本質は、この与えられた「運命」を噛み締め、今ここにいるという「奇跡」に歓喜することなのだから。

 

 ありがとう。

 僕は今、本当に幸せだ。