転生
「人生が変わった日」なんて、そんな壮大なもの数えるほどもないけれど、そのうちの1日は間違いなくあの日だと思っている。世の中に"絶対"なんてない、とはよく言われるが、あの日のことだけは生涯、絶対に忘れはしない。絶対に。
去る2016年11月24日。紹介状を持って京大病院に行き、案内されるがままに、少しばかり検査をした。しばらくすると部屋に案内された。ドラマで見るようなあの感じで、白衣を纏った医師がいた。パソコンで検査画像をいくつか見せられ、よく分からない病名を告げられた。なんとか腫瘍と言うからには、要は癌なんだろう、と思った。自分でも意外なほどに驚かなかった。驚けなかった。あたふたするのは嫌いだ。人前ではいつでも冷静でいたがるプライドが、それを許さなかった。
自覚症状は皆無だった。何だ、運のいい早期発見じゃあないか。良かった良かった。現代の医療は進化してるからさ、しかも京大病院だろ?大学は休むことになるかもしれないけど、何とかなるさ。
これも一種の強がり。
癌の可能性があるのは分かっていた。10月末に肺炎になった際に撮ったCTで、肺の近くに大きな影があったこと。そのときの主治医に京大病院を紹介されたこと。この2つの要素から察するに癌だろうなぁという予想はしていた。これも驚かなかった要因のひとつ。
かと言っても、現実を突きつけられたのはやはり悲しかった。
病院を出て、母親と黙って昼飯を食った。正確には、母が黙っていたので自分も黙っていた。出てきたオムライスは、かなり美味しそうな見た目とは裏腹に、味がしなかった。味はしなかったけれど、何か言わないといけないような気もして「美味しい」とだけ言っておいた。「でも見つかって良かった。」と、母はただそれだけ呟いて、また黙った。
その日は午後から大学に行った。朝から大学内にはいたが、病院が大学内だというのはあまりに実感が湧かないから、そういう表現の方がむしろ正しい。目と鼻の先なのに、というか病室から見えているのに、環境が全く違うのだ。そこには何ら変わらぬ日常があった。僕は患者ではなくただの学生だった。あそこに行くと、いつでも患者をやめられるから、今でもレポートは自分で出しに行っている。歩いて200m。
その日は3,4,5限を終えて、少し俯きがちに自転車を漕いで帰宅し、夕飯を食べて風呂に入った。
湯船にぼーっと浸かった。何かを確かめたかった。風呂から出て、ふと、自分の病名を検索したい衝動に駆られた。
髪の毛が湿ったまま、まだ少し濡れた手でスマホを充電コードから引きちぎり、ロックを開けてブラウザを開く。
検索ボックスに自分の病名を打ったところまでは良かった。それはすぐにできた、本当に簡単なことだった。
[縦隔原発胚細胞腫瘍 非セミノーマ]
予測変換でスラスラと出てくる。
問題はそれからだった。検索ボタンを押すことに躊躇いが生じる。恐怖心にも似た好奇心か、それとも好奇心のような恐怖心か。
葛藤というか悶絶というか、その末に検索ボタンに手をかけた。
サッと画面が切り替わる。
スマホの小さなスクリーンに、所狭しと検索結果が並ぶ。
胚細胞腫瘍(縦隔原発)
5年生存率 40〜50%
縦隔原発胚細胞腫瘍は予後不良 (poor prognosis)な疾患とされており.......
違う、そんなはずはない。
別のサイトに飛んだ。
ふと、ひと昔前の臨床データが目に止まった。
症例
非 seminoma 型
1. 48 女 1年後死
2. 46 男 1年後死
3. 36 男 4ヶ月後死
4. 44 男 5ヶ月後死
5. 28 男 6ヶ月後死
6. 18 男 1年後死
7. 26 男 5ヶ月後死
8. 26 男 2ヶ月後死
9. 42 男 11ヶ月後死
10. 68 男 8ヶ月後死
11. 22 男 3ヶ月後死
12. 25 男 6ヶ月後死
13. 31 男 観察中3ヶ月生
何かが、言葉では決して表現することのできない途轍もない何かが、自分の身体の真上から落ちてきた。
膝から崩れ落ちたのは初めてだった。
床にスマホを落とした。
意味がわからなかった。
死ぬのか?
俺が?
1年足らずで?
何ひとつ、本当に何ひとつ理解できなかった。
死ぬのが怖いとか、悔しいとか悲しいとか、そんな形のある感情ではなくて、ただ呆然と、ただただ呆然としていた。
死ぬのか?
誰に訴えることもできない。誰も悪くない。
しかし確かにそれは事実だった。
あの日を境に、僕の人生は変わった。間違いなく変わった。絶対に。
正確には、考え方というか生き方というか価値観というか、そういう類のものが何ひとつ残らずして変わった。
「死」を恐れた。そして「生」の重みを知った。
「生」の重みを知ったことによって、「生きること」の素晴らしさを感じた。
「生きること」の、その素晴らしさを感じて、もはや「死」を恐れることはなくなった。
論理が飛躍していると思うのなら仕方がない。しかしこれ以上の言葉で説明することはできないし、出来たとしても理解してもらえないかもしれない。ただ本当に、本当にそうなる。そうなる時はいずれ来る。誰しも。急逝を除けば。
数週間後に個室で主治医から検索した通りのことを告げられたときは、もう怖くもなんともなかった。紙に生存率40%と書かれたときには、笑って頷いてやった。強がっていたわけではなく、希望のようなものを感じていた。
ひと昔前はほとんど治らなかった。今は半数もの人が生存できる。そこに絶望する意義は全くない。
ただし、「死」を恐れないということは決して「死」を侮ることではない。
むしろ「死」の絶対性、すなわち「生きとし生けるものはいずれ必ず死ぬ」という摂理の偉大さに敬服する感覚に似ている。
失ってからしか真の有り難みを知ることはできない。別離してからしかその大きさを知ることはできない。地に足がついたまま、この世界の大きさを想像しても、そのイメージは現実に追いつかない、どこか乖離したものになってしまう。その対象が大きければ大きいほど。生きるということも然り。当たり前の生活を失ってはじめて、云々。
だからこそ僕は、ある生き方をしようと思った。
1年後の今日は、もうこの世にはいない。
そんな生き方。
外観は非常にネガティブかもしれない。しかしそれは実際のところ非常にポジティブなのだ。諦念ではなく、むしろ決意と信念。クリスマスも大晦日も、もう返ってはこない。これが最後。そう考えると1日が尊い。いや、尊いなんて言葉では足りない。
どのみち、この病院を去るときにはまた新しい生き方が始まる。それが自分の身体でなかったとしても、それはそのとき。いずれにせよ、明日は最後の1月1日。希望の光に満ち溢れた1月1日。
何事もなく人生を送っていて見えていた部分はまさに一角にすぎなかった。氷山の大きさは地の上にいても決して分からないのは、先に述べた通り。冷水の底に沈められて初めてその存在の大きさに気づく。しかし取り巻く環境を冷水だと思っているようでは、水面に浮き上がる前にこときれるだろう。冷水にも光は差す。あと1m浮上すれば見えるかもしれない。もがく。一縷の望みに懸けて、もがく。息苦しさなど、ものにもしない。いつしか明るい陽の目を見ることを信じて疑わない。
これは有事のための布石ではない。後悔しないための準備でもない。1日を大切に生きる、その手段の一つなのだ。悲劇のヒーローに変じた瞬間、学びはなくなる。だからこその、冷水を冷水とも思わぬ生き方。氷の海原でさえ美しく暖かい。
Live as if you were to die tomorrow.
Learn as if you were to live forever.
明日死ぬかの如く生き、永久に生きるかの如く学べ。不屈の精神で独立をもぎ取ったガンジーの言葉の意味が、何となく分かったような気もする。
苦しさに追い込まれたとき。
闇が全身を締め付けるとき。
もし人生をやり直せるとしたら。
そう考えたことがある人も多いかもしれない。
どうだろうか。
僕はもし人生をやり直せるとしたら、もう一度同じ生き方をするだろう。今の家族のもとに生まれて、同じ保育園・小中学校・高校・大学に通って、同じ友人達、先輩後輩に出会って、同じ先生方に出会って、陸上競技やピアノや愛車に出会って。そうして19歳1ヶ月で10万人に1人とかいう確率の癌になる。僕はそれでいいし、それがいい。それしかない。僕は恵まれていたし、最も幸せな道を歩んできた。この愛すべき世界と出会って、愛すべき多くの人々と共に過ごして。過去はもう返ってこないけれど、その全てをもう一度経験したいほど、どれもが素晴らしかった。
僕はもう死を恐れてはいないし、それでいて死なない。保証されてはいないけど、無条件に信じている。信じることに理由はいらない。希望と勇気と忍耐さえあれば充分。統計や確率なんて当てにならないし、A判定だろうがE判定だろうが個人に帰すれば0か1かでしかない。僕はA判定でも笑わないしE判定でも屈しない、そういう生き方をしたい。ここは戦場だ。敗北を恐れて勝利なし、死を恐れて生還なし。兜の緒は常に締めよ。これこそ高校時代の陸上競技で培った「サムライ魂」の本来の在り方かもしれない。感謝なくして成長なし。
みみっちいことで悩んでた昔の自分が馬鹿みたいだ。悩んで何になる。根拠がなくても信じていいだろう。世の中には理屈で説明できないことの方が多いから。そうじゃなきゃ面白くない。
明日は最後の元旦。
そして1年後の元旦、僕は生きている。
前者は決意、後者は信念。
ここに矛盾は一切ない。
絶対に生きてるさ。絶対に。
そう信じて明日を生きる。
新たな年の幕開け。勝負の年。天王山。
あなたは明日を、どう生きるだろうか。