ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

望み

 

 僕達は似ていた。性格。傷跡の長さ。気の持ち方。車が好きなところ。野球ファン。ひとつ大きく違うとすれば、それは、この世に存在する病が治せるものと治せないものに大別されるという前提において、僕は前者で彼は後者である、ということだった。

 

 僕が入院している呼吸器外科には肺移植された患者さんが多くいて、彼はその一人だった。京大病院は日本に10施設しかない肺移植手術のできる限られた病院のひとつであり、また日本で初めて生体肺移植を行ない、僕の手術にも立ち会ってくれた伊達教授がいる。その伊達教授に彼が最後の望みを託したのは、3年前のことだった。

 

 

 4歳になる子供がいるという彼は、僕の父よりはひとまわりほど若かった。肺移植で日本の最先端を行く京大病院には日本全国から患者が集まり、彼は三重県在住だった。気さくに声をかけてくれたのは、僕が大部屋に移って同じ部屋になった1週間ほど前のこと。僕達はすぐに歳の差を忘れるほど仲良くなった。当初は4人部屋に2人しかいなかったから、何だか共同生活のようだった。文字通り寝食を共にした。

 

 

 彼は膠原病に侵されていた。発覚したのは35歳の時だった。膠原病とは、平たく言えば自己免疫疾患であり、自らの免疫系が自分自身を攻撃するという、未だに原因不明の恐ろしい病気である。膠原病の治療法を確立することができればノーベル賞は確実であるとまで言われており、いわゆる「難病」だ。自分の体が自身を攻撃するのを、ただ黙って眺めることしかできない。根本的な治療法は存在しない。そんな不治の病と闘う彼の気持ちなど、推し量ろうとすることさえ憚られてしまいそうである。

 

 

膠原病」というのは「癌」と同じく、病気の総称である。僕の病名が癌の中でも"縦隔原発胚細胞腫瘍"であるように、彼の病名は膠原病のひとつ、"全身性強皮症"であった。これは全身の皮膚が硬くなっていくだけでなく、末梢循環障害と呼ばれる、手足の血行が非常に悪くなる障害を伴い、さらには全身の様々な臓器が病変していくという、難病中の難病である。

 

 

 この病に侵され続けて彼の肺はみるみるうちにボロボロになり、ついに数年前、このままでは死ぬ、というところまできたという 。間質性肺炎だ。そこで彼が頼ったのが京大病院の伊達教授だった。脳死肺移植に、生きる希望を託したのである。2年生存率が50%を切った者は、肺移植を受けることができるのだ。

 

 

  しかし、いくら京大病院とはいえ、肺移植のリスクは極めて高い。移植後に、その肺が動き出さないことが多々あるからだ。そうなれば、もうこの世には帰ってこられない。全身麻酔で眠らされた後、二度と目覚めることはない。肺移植は心臓移植をはじめとする他のどの移植手術よりも難しく、術後生存率も極めて低いのである。

 

 

 彼が昔、病院で仲良くなったという移植手術待ちの女性も、そうだった。手術前に交わした言葉を最期に、もう二度と会うことはなかったという。優しく、溌剌とした方だったそうだ。

 

 肺移植に臨む際には、死を覚悟せねばならない。一方で、脳死の連絡は突然にやってくる。何年も何年もドナーの提供を待って、そしてある日、昼夜を問わずに「明日、移植手術を受けられますか?」と電話がかかってくるのである。さらには1時間以内に返事し、4時間以内に病院に行かねばならない。そういう取り決めだ。臓器には鮮度が要求されるため、手術はすぐに始まる。彼はどれだけの思いを持って移植手術に臨んだことだろうか。それを慮ることは、もはや不可能に近い。

 

 

 そして彼の肺移植の場合も、やはり拒絶反応があったそうだ。数時間肺が動き出さなかったという。妻は、彼の死を覚悟したようだ。しかしながら、幸運にも彼は自力で息を吹き返した。麻酔から覚めることができたのである。術後しばらくして退院し、妻と病院のすぐそばにある鴨川を歩いていたとき、生きていることが嬉しくて嬉しくて、涙が止まらなかったそうだ。どうして俺はこうやって生きてられているんだろう、そう思って泣き続けたという。ゆっくりとそんな話をしてくれながら、彼は眼鏡を外して溢れてきた涙を拭った。おっさん、あんた頑張ってるんだな。

 

 

 

 

 それからしばらくして車の話になった。愛車は何に乗っているんですか、と彼に聞くと、今は車に乗っていない、という答えが返ってきた。薬を飲み続けている限り、運転はしてはならないことになっているそうだ。しまった、と思った。職だけでなく、趣味さえも取り上げられてしまうのか。もしこれが自分だったら、何を楽しみに生きていいか分からなくなるかもしれない。

 

 

「でもさ、生きる希望はあるんよ。」彼はそう言った。

「息子がね、おるから。俺の方が確実に先死ぬんやけど、いつまで生きられるやろか、せめて小学生になるまではさ。いや、中学生、高校生になったのも見てみたいなぁ。どうやろ。それが今のいちばんの希望かな。」

 

   微笑む彼の眼差しの奥は、どこか寂しそうだった。

 

 人生とは、理不尽である。自ら命を絶つ人もいれば、こうして生きたくても生きられない人もおり、あるいは何も考えずに生きている人もいる。

 

 彼の息子が僕と同じ年齢になったとき、果たして彼は生きているのだろうか。

 

 生きていてほしい。

 

 僕は、もし親を亡くしたらここまで生きてこれなかっただろう。 親にとっての生きる希望が子であるように、子にとってもまた、生きる希望は親なのである。子がいるから生きられるように、親がいるから生きられる。それが、家族というものだ。

 

 彼の病は今も少しずつ進行していっている。その事実に、僕は耐えることができない。現代医学の最たる手を尽くしても治ることのない病に、やり場のない憤りを覚える。こんな理不尽なことがあっていいのか。彼は息子が大人になるのを見たいだけなんだ。それ以外何も望んでいない。こんなことがあってたまるか。

 

 

 

 たとえ理不尽だったとしても、一方で、そこにある事実は微動だにしない。これが現実というものである。しかし、こんなにも運命は変えられないものなのだろうか。彼は何も悪いことなどしていない。普通の人生を歩んでいる道中、突如として原因不明の不治の病が立ちはだかるのである。

 

「病気になるとさ、色んなことが見えてくるよね。それにはすごい感謝してるかな。でもこんな病気にはなったらいかんよ。」

 

 こんな病気になってはいけない、という彼の言葉が胸の奥深くまで突き刺さって取れなかった。おそらく、一生突き刺さったままだろう。確かに、僕は若くして本当にいい経験をさせてもらっている。命の重みを知ることは、このような状況下でしかできない。そして、こんなことを経験をしながら、また何事もなく普通の生活に戻ることができる。彼はそれを「羨ましい」と言っていた。僕は複雑な気持ちだった。彼は僕と違って元に戻ることができない。

 

 

 彼は先日、一旦病院を退院した。検査入院だったから、まだ結果は出ていないようである。連絡先を交換して、「結果次第で、もしまた入院されたら、授業の合間にでもすぐ飛んできますよ」と言ったけれど、正直なところ、もう彼と病院で会うことはしたくなかった。病院を去る彼の背中を見て、もうここに来ることのないよう祈るばかりだった。

 

 

 昨日、何となく思い立って、病院を勝手に抜け出して鴨川に行った。どうしても一旦ここを離れたくなった。川辺を歩くと、青と白を混ぜた水彩絵具に水をたっぷり含ませたような空が広がっていた。あの空は、病室から見るのっぺりとした空とはまるで違っていた。鷹が大きく弧を描いて飛んでいた。水辺に鴨がたむろしていた。風が澄んでいた。でも、心は晴れなかった。自分自身の病が前者であることを手放しで喜ぶことは、もはやできなかった。為すすべもない人間のひ弱さを思い知らされた。負け戦に希望を持って闘うことの無念さを痛感した。このやり場のない怒りと悲しみは、どこに散らしておけばいいのだろうか。

 

 僕は多分、一生残るであろう胸の傷を見るたびに、彼を思い出すことだろう。癒えぬ病と共に生きるということ。他人の痛みは、決して分からない。それでも僕は彼と心のどこかで繋がっていたい。

 

 僕は自分自身のおかれた境遇に感謝せざるをえない。しかし一方で、その感謝が歓喜になってはいけない、とも思う。彼のような人は数多くいるのだ。そのことを忘れてはならない。メスを入れた傷が消えることなく、いつまでもいつまでも身体に刻まれ続けていることを祈って、鴨川を後にした。怒りと悲しみは、そこに無理矢理捨ててくることにした。

 

 彼にはまだまだやるべきことがたくさんある。息子の制服姿を見たり、息子にドライブに連れて行ってもらったり、家族みんなで酒を飲み交わしたり、結婚を見届けたり。読み書きもまだまともに出来ない子が、立派に成長していくのを確かめねばならない。医学の発展が、彼の病を後者から前者へ変えることを切に望むほかなかった。

 

 彼が、妻と息子と3人で、出来るだけ長く寄り添って歩けるよう、心から願うばかりだった。

 

 

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