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ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

 

 散ればこそ   いとど桜はめでたけれ

     憂き世になにか    久しかるべき

                                 ー 伊勢物語 八十二,  詠み人知らず

 

 

 

 今年も桜が咲いていた。道行く人が思わず立ち止まり上を見上げる、そんな季節だった。入院中、幾度となく歩いた鴨川も、仄かな桃色で彩られていた。凍てつく寒さの中、いたたまれなくて病院を飛び出したあの日の川辺の面影は、もうすっかり東風に吹かれてどこかへ行ってしまっていた。

 

 

 まだまだ退院までは遠いけれど、ひとまず寛解だと告げられて、長かった春への道のりを、少しばかり回顧していた。

 

 

 

 強いね、とよく言われたけれど、決して強くはなかった。強がることには昔から長けていたから、そうしていただけだった。死にますよ、と言われて平気な顔をしているフリをしていた。見栄だけは一人前だった。そのうちにどれが自分の感情なのかを見失ってしまった。

 

  治って良かったね、とよく言われた。自分は確かに見栄を張って笑って頷くけれど、心ここにあらずな気がする。もう笑っているのか口を結んでいるのか、泣いているのか怒っているのか、果たしてどれが自分の感情が創り出した表情なのか分からなくなってしまった。心は無表情のまま、ただ脳に従って、顔だけに物理的な繕いを生み出している気がする。コミュニケーションの潤滑油として、ありもしないところから無理に表情を引っ張ってくる。生ぬるい無造作な皺が、心との温度差を生じる。癌になったとき、自覚が全くなかったように、寛解を告げられたときも、やはり自覚はなかった。全てが無知覚だった。

 

 

 癌に治癒なんてあるのだろうか。寛解と治癒とは似て否なるものだ。再発と併発の影に振り向きながら歩く。

 

 

 

 5年以内に死ぬだろうと思って生きることの恐怖と失望とは、あなたには決してわからない。なぜなら自分にもさっぱり分からなかったからだ。「死」が分からないから、何に対して恐れ、何に対して悲観しているのか、それさえも分からなかった。分からない、ということに対して悶え、怒り、泣いた。ひとつ言えることは、僕自身の癌が再発する可能性は少なからずあり、そして死ぬ可能性も消えたわけではないということである。自分の癌が治癒したかどうかなんて、10年経っても分からない。背水を気にせずどう生きろというのか。

 

 

 

 

 一方で、自分の存在がこの世から消えうることを恐れていたかというと、そうではなかった。人間どうせ死ぬんだから、いつでもいいんじゃない?みたいに考えることもあって、それはある意味では間違っていて、ある意味では正しい。絶対的「死」を超えられるものが今までにあっただろうか?憂き世に何か久しかるべき、とは千年経てど変わらないし、科学が自然を凌駕することは決してない。万物無常、早かれ遅かれいつかはサヨウナラ。じゃあ悲哀の対象はというと、"存在がなくなること"ではなくて、寧ろ、"忘れられること"だった気がする。

 

 

 

 

     -  散ればこそ、めでたけれ。

 

 桜というものは咲いては散るから、その刹那の美しさに気が気でなく振り回されてしまうのだ、と詠んだ在原業平に対して、桜は散るからこそ美しいのですよ、この世に永久に生き続けるものはありません、との返し。それが詠み人を知らぬ冒頭の歌である。

 

 

 桜の美しさが、それ自身が散ることによって担保されるように、生命もまた死ぬことによって美しくあるのかもしれない。さすれば、その美しさは残酷である。巨木を成していた集合体は、風に吹かれて芥と化す。道端に散り、雨に踏まれて滲んだ薄桃の花びらは、いつしか土に還り、そして忘れられる。我々が桜を覚えているのは、年に一度必ず春がやってくるからだ。人の死が残酷であるのは、長い歳月が、その人が生きたという記憶を抹消するがゆえのことである。散った生命が再び花咲くことは決してない。そうして記憶から消されたものは、その時点において二度目の死を迎える。これは恒久的な死である。永年の冬である。

 

 

 人が死を恐れるのは、死が不可逆ゆえではないと思う。少なくとも、自分の場合は初めはそうであったものの、数ヶ月経つと変わってきた。もっとも恐るべきは「忘れられること」であった。「わたし」が生きたという証さえもが土に還ることを、恐れていた。あなたに会えないことよりも、あなたに忘れられることの方が恐ろしい。生きたことが忘れられた時、「わたし」はその人にとって存在しなかったことになる。その人を忘れたとき、あなたは無意識にその人を殺している。

 

 

 それでも、いつかは忘れられるものだ。どう足掻こうと生命はいつか失われる運命にあるし、その生命の記憶もやがては消されてしまう。恐るべき忘却力を持って。一度目の死も二度目の死も、避けては通れない。そして人々が恐れるのは、一度目の死を超えたところにある二度目の死である。

 

 

 

 生命とは、驚くほどに弱い。ひょんなことですぐ死ぬ。交通事故死のニュースを見て、あぁこの人は昨日まで家族と食卓を囲んでいたんだろうな、友人と遊んでいたんだろうな、と思うと、人間の非力さを感じる。自分の場合でも、癌に対して自身ができることは何もなかった。弱い。無惨にも散っていく。散ったものはやがて記憶からも消え去る。

 しかしながら、雨に打たれ風に吹かれて散らない桜は、あるいは人々に忘れられることなく常に咲き続ける桜は、もはや美しくないのかもしれない。桜の咲き誇るほんの刹那の栄華と、儚く散りゆく姿。それらは、人の一生にもまた似ている。雨にも負けて、風にも負けて、そうして一瞬のうちに散りゆくから生命は美しい。常緑樹よりも桜や紅葉が美しいのは、散るという行為あってのものである気がする。死こそが生命を生命たらせ、そうして平等にする。どうやら、人間というものも、いずれは死に、そして忘れられるからこそ、美しくいられるようだ。残酷さが、美しさを創り上げる。そんな「死」を恐れるのは、どこか筋違いな気がした。

 

 

 

 雨に濡れる緑の混じった葉桜を見上げる者は、もう誰もいなかった。水たまりを避けて、皆足早に過ぎ去る。散った花びらは道端の側溝に流されていった。今年も、美しい桜が忘れられていく。散ればこそ、めでたけれ。今年の桜の死と、その忘却こそが、来年の桜を美しくする。

 

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