ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。


 名神高速新名神高速、名阪国道を初心者マークで飛ばし、さらに山道を延々と抜けて辿り着いたのは、三重と奈良の県境だった。立派な平屋建てと金魚の泳ぐ池、見渡す限りの緑。記憶のある限りでは、初めて訪れた。ここで生涯を過ごした曽祖母は、僕の退院直前に亡くなった。享年百九歳であった。

 田舎と言うにもしっくりこない。さらに上を行く表現が必要な、そんな場所だった。コンビニはおろか、電波さえ入らない。「いちばん近い自販機まで数キロある」と初めて会った同い年の再従兄弟が教えてくれた。

 曽祖母の初盆供養。白い布のかかった精霊棚には、故人の遺影が置かれ、その周りを色とりどりのお供え物が囲んでいた。知らない人も多くいた。この人はじいちゃんの兄弟の息子さんの奥さんで、こっちが娘さん。初めまして。こちらこそ初めまして。云々。こっちは誰々ちゃんの家族。再従兄弟の従姉妹の子供?ほら〇〇、挨拶は?ー 〇〇です。可愛いね、いくつ?ーろく。6歳かぁ。何て言う関係になるんだろう、調べようかな。あぁ、電波が入ってないわ。云々。

 昼前に弁当が20箱ほど届き、あらかじめ用意されていた数十本のビールと日本酒は瞬く間に空き瓶の山となった。「この家系は代々酒呑みや、あんたんとこの爺ちゃんもよお飲んどったでぇ。」「昔はみんなここで飲んでそのまま車乗って帰っとったしな、えらい時代や。」「せやせや、あれ一回事故したで。」「一回ちゃうちゃう、もっともっと。」自分から見て誰なのかよく分からないおっさんが赤い顔で調子よく喋る。「ボウズ、飲むか?」「いや、ノンアルコールでいいです。」「飲みたいやろォ。」「こらこら、運転手やのに勧めたらいかんがな。」

 机に連なった食べ物が、次から次へと手をつけられてなくなっていった。「元気に飲んで食べて、それが先祖のいちばんの供養ヤァ。」




 先日、兵庫の父の実家にも行った。祖父と祖母の盆供養をした。そのときのお経の後の坊さんの説法を思い出した。

「お盆というのはね、もともとは餓鬼道からの救いなんです。釈迦の弟子の目連が、餓鬼道に落ちて苦しんでいるお母さんを救おうと釈迦に教えを請いたんですね、そうして供養したのが、今の盆の始まりなんです。ですから、食糧に飽いた昨今こそ、やはりその恵みに感謝することを忘れてはならない。手を合わせるっちゅうのはそういうことやと思いますね。」

 目の前に並べられた酒と弁当は、瞬く間に我々の腹を肥やしていった。坊さんの言うように、それは当然ではなく、手を合わせるべきものなのだろう。我々が手を合わせるのは、何かを祈るとき、請うとき、謝るとき、そして飯を食うときだ。回数で言えば最後が圧倒的に多い。手を合わせなければ我々は生きてはいけない。

 


「ここは昔は田んぼとか畑やった」。蝉の鳴き声をかき分け墓参りに行く途中、父に教えてもらった。父の指差すその先には、荒れた山林が広がっていた。半世紀も経つとこうも変わるのかと思った。かつては自給自足の生活をしていた社会も、その影を残してはいない。食を自らの手で作らぬ我々は、坊さんの説法によると「餓鬼を忘れている」のだそうだ。先祖を弔うことだけでなく、恵みに感謝すること、それが盆なのだと知った。


 墓は山の上にあった。かつては土葬だったそうで、墓石ではなく木の墓標が土に刺さっている。区画なんてものも一切ないし、自分が立っているところの下に遺体があることを否定できない。曽祖母は火葬だったが、見た目は土葬と同じだった。曽祖母の横の墓標は、木が朽ちて黒くなり、文字が書かれていた形跡さえなくなっていた。根元はボロボロになり、あと一回大雨が降れば倒れそうだった。「ここらへんがうちの家の人やし」「ここは誰?」「爺ちゃんか、婆ちゃんか、あれ、どっちや、どっちかやわ。」「木に書いた文字は20年経つと消えるからねェ。」

 朽ちていく墓というものを初めて目の当たりにした。輪廻転生を強く意識させられるものだった。磨かれた墓石の対極とも言えるこの墓標は、一方で、どこか人間味のある不思議な存在だった。「ビールかけたって、好きやったから」「お墓にビールかけるんですか?」「いつもそうしてるで、ほら爺ちゃんビールやで」「うまいうまい言うてるわ」『ワハハハハ』
 ビールなんかかけるから腐るんじゃないか、なんて思うのもナンセンスだろう。とりあえず地面を泡だらけにしておいた。中身が尽きたところで缶を置き、先祖と恵みに、静かに手を合わせた。


 そのとき、ふとある考えが脳裏をよぎった。



 僕はこうして手を"合わされる"側の人間だったのかもしれない。



 この一瞬、鳥肌が立った。あの感覚は、恐怖というよりもむしろ畏敬であった。何か人智の及ばぬ荘厳なものに遭遇したときのそれだった。僕はもしかすると死んでいて、経を詠まれ手を合わせられる側の人間であったのかもしれない。いや、十二分にその可能性はあった。手を合わす人間と、合わされる人間、その全てがこの山の上に集まっていた。



 墓参りを終えて家に戻ると、居間のテレビから、甲子園の試合終了を告げるサイレンが聞こえた。ひと夏の終わりが、線香の匂いの漂う広々とした和室に粛然と鳴り響いた。そう言えば、あのサイレンは空襲警報と同じだった。戦時中は間違えぬようにサイレンではなくラッパだったと言う。サイレンを聞いて夏の甲子園を感じられる今は、平和そのものなのだろう。今日は終戦記念日だ。「先祖を弔い、恵みに感謝する」。お燐を鳴らして静かに手を合わせた。しばらく談笑したのち、親族に別れを告げてからこの家を後にした。

 

 

 死んだ者も生きている者も、昔からの馴染みも初めて顔を合わせる者も、歳月を超えてこのひとつ屋根の下に集まり、そしてまた各々の家に帰る。朽ちた墓標とビール瓶、庭の金魚、サイレン、線香の匂い。日本の盆が、ここにはあった。エンジンブレーキを効かせ、ゆっくりと細い山道を下る。酒を飲んだ親父は車の後部座席で赤い顔をして寝息を立てていた。夕暮れの山々にはヒグラシが木霊していた。