ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

ハタチ

 

 街の中で親と子が仲睦まじくしているのを見て涙が溢れてきたのは、何かを思い出したからでも、もう戻れないからでもなかった。単にその現実が、19歳だった自分にとって重すぎただけだった。

 

  pHが5〜2の毒物を飲みながら過ごす日々がどれほど苦痛でどれほど孤独であったか。生きようとする自分の細胞が殺されていくのをひたすらに耐えるその工程がどれほど長くて重いものだったか。その烈しさは筆舌に尽くし難い。しかしながら今日となっては過去。遠い昔の痛みを感じることは僕にはできない。いや、おそらく誰一人としてできない。肉体的な痛みというのは今この瞬間においてのみ、そして自身の内部にだけ、存在しうる。

 

 でもあの当時の精神的な苦痛は今日でも蘇ることがあり、気がつけば僕は病室のベッドに横たわっている。真っ白なシーツと消毒液の匂い、微かな機械音、無機質なカーテン。あれは天国の装いをした地獄だった。寝たくても寝られない、食べたくても食べられない、歩きたくても歩けない、‪吐きたくても吐けない、死にたくても死ねない。僕にできたのは、ただ規則的に呼吸をすることと、管を伝って腕の中に入っていく毒を見つめることだけだった。

 

 妊孕性  ーこの字は読めないままで良かった。この言葉を使うことのない人生が良かった。僕は将来幸せでなくてもいい、金持ちでなくてもいい。ただ、いつか自分の子供と酒を飲めたらいい。そう思っていたし、今でも思っている。そんな些細な楽しみでさえ、毒物は奪っていった。

 

 妊孕性 ーにんようせい。妊娠のしやすさ。若年者のがん治療では、この妊孕性の温存が最優先される。毒物は、精子卵子も破壊してしまう。

 

 僕は精子保存ができなかった。原因は分からない。そして保存に失敗したまま、毒物の投与が始まった。精神がおかしくなりそうだった。「あなたは、死にます。万が一生きながらえたとしても、子供を持つことは許されません」神は僕にそう囁いた。

 

  昨日、家に届いていた2つの葉書を消費した。成人式のお知らせの葉書と、日本脳炎の予防接種の葉書。

 成人式の葉書には、午前の部の出席欄に丸をつけてポストに投げ入れた。日本のシステムの下では、20年間生きていれば、善人であろうが悪人であろうが勝手に成人する。これまで何億人、何十億人の日本人が成人してきた。その何がめでたいんだ、と毎年のように荒れる北九州の成人式のニュースを見ては感じていた。

 けれども、必死に生きながらえた今となって思うのは、その節目がさも当然のように流されてはならないということだった。20という数字は、思っていたよりも祝うべきものであった。

 

 もう一方の葉書、こちらは20歳未満無料の予防接種のお知らせだったが、それを10代最後の日に受けた。日本のシステムでは前日に歳をとることになっているから、厳密にはアウトかもしれないが、何も言われなかった。

 予防接種は昔からかかりつけの小児科で受けていた。母子手帳を持って、数年ぶりに訪れた。

 

「久しぶりだね」先生は僕のことを覚えていた。僕の比較的小さな身長をまじまじと見て「大きくなったね」と言った。問診票の既往歴「胚細胞腫瘍」には触れられなかった。聴診器を手術跡に当てると、彼は大きく頷いた。

 

 予防接種後は20分間安静にするのが医療機関の鉄則で、僕は母子手帳に最後になるであろう判子を押してもらった後、待合室で過ごした。生前から使われてきたボロボロの母子手帳を開くと、母親の字で色々なことが書いてあった。20年の歳月が数ページに詰まっていた。

 

【出生時】

体重 2955g

身長 48.0cm

 

【保護者の記録】

1歳、輪投げ、絵本が好き

2歳、両足ジャンプが得意

弟が生まれ少々赤ちゃん返りしている

3歳、ピアノを始める

4歳、パズル、お絵かきに夢中

5歳、弟が可愛く、世話をよくしてくれる

6歳、自分の名前や手紙を書いたりする

 

 

 ページをめくっていると、待合の扉が開いて若い母親が入ってきた。母親の腕には幼子が抱かれていた。その子も予防接種を受けたのだろう。小さな命は、僕を丸々とした目で見つめた。僕はその瞳に微笑み返した。1歳前後の子だった。この子にもし自分の血が入っていたら、その可愛さはさらに何倍にもなるのだろう。愛くるしいその目は、しかしながら、微笑む僕にこう囁いた。「あなたは運良く生きながらえたけれど、子供を持つことは許されません」

 

 

 僕自身の妊孕性が果たして失われてしまっているのかどうか、それは知らない。失われていない可能性も十分にある。僕が受けたBEP療法はリスク分類で言うと30%〜70%の中リスク群に相当する。検査すればすぐにわかるけれど、怖くてできない。もし検査で現実を叩きつけられたら、僕はその勢いで死んでしまうかもしれない。自分の子供とお酒を飲む、そんな夢をまだ見続けていたいから、一縷の望みにかけて、僕は検査をしない。子供と一緒に過ごせないのなら、生きていても仕方ない。少なくとも今はそう思う。

 

 もう二度と上書きされることのないであろう母子手帳を静かにカバンに入れ、 雫の降りしきる大通りを傘を広げて大学に向け歩いた。10代が終わる日は朝から雨だった。それでも、講義を終えて建物から出たとき、夕刻の西の空は透き通るような茜色に染まっていた。人生とは、そういうものだと思い知らされた。

 

 信号待ちをしながら子供の手を握る父親がいた。ママチャリの前かごに乗せた子供に話しかける母親がいた。僕には、ただ手の届かないそれを微笑んで眺めることしかできなかった。

 

 ここまで20年、何はともあれ生きてきた。生きていることの喜びと、生きていくことの難しさを同時に感じながら、星空を見上げた。今朝の雨予報も嘘だった。20回目の誕生日を迎え、食卓を囲んで親と酒を飲みかわした。うまかった。うまかった。泣きそうになるほどうまかった。食後のケーキを食らいながら、アルコールの余韻と幼子の瞳は、いつまでも頭蓋に響いて離れなかった。