ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

報われない努力

 

 時間が伸びたり縮んだりするのはアインシュタイン特殊相対性理論に述べるところであって、最もよく知られた紛うことなき真実の一である。光陰矢の如しとはよく言ったもので、一年の長さは縮むこともあれば伸びることだってある。光速に近づくほど時間が遅く流れるように、激動の一年はこれほどまでに長かった。

 

 昨日11月24日は、今のところ誕生日の次に大事な日になっている。僕はそれを「告知日」と呼んでいる。誕生日と告知日には、いくつか共通点があって、それはとって付けたような共通点なのだけれど、第一の人生の始まりと第二の人生の始まりには深い関係性がある。どちらも大きな声で叫ぶように泣いた日で、右も左も分からない世界に入った日だ。そしてどちらにおいても、あることを思いしらされた。ー「努力は報われない」

 

 「天授」の二文字を彼は何度も口にしたし、黒板にも大きく書いた。沼のような色をした一枚板に白く焼き付けられたその文字に、撫でるようにして劇薬を塗りこまれた自分がいた。

 

 時計台の裏にある法経第四教室は、ガリレオとかいうドラマで天才物理学者・湯川学こと福山雅治が講義した大教室だ。僕はちょうど柴咲コウがいたあたりに座った。あそこが超満員になるのは有名人が来たときだけだから、東進ハイスクール林修も有名人の部類に確実に入る。それでも彼は開口いちばんこう言った。「早い。朝早いね。どうせみんなこの講演会当たったときこう思ったんでしょ?『とりあえず申し込んだけど10時半かぁ〜林修かぁ〜』って。まぁその程度ですよ」

 どっと笑いに包まれたが、僕はどこか笑えなかった。

 

 「みんなからすれば僕は有名人だ。いま僕のいる立ち位置になりたい人なんて山ほどいるのは知っているし、今の環境は本当にありがたいことだと思う。でも、こんなのは僕の夢でも何でもなかった。自分のやりたいことができるなら辞めたいくらいだ。ここまできたら他の人への影響も随分大きいから、そんなことはやらないけどね。」

 

 それから彼はこう言った。

「僕は数学者になりたかった。でもいくら頑張ったってガウスにはなれない。ガリレオにだってアインシュタインにだってなれない。生まれた時から決まっている」

 

 

  クリスマスまであと1ヶ月になった。先日のニュースでキャスターが話していた話題が、何となく引っかかった。

「そろそろ、街でクリスマスソングが流れる季節でしょうか。でも、聴きすぎは健康に良くないと言う調査がでました。陽気なメロディーに絶えず晒されると、心理的に疲れ、逃げられないような気持ちになる可能性があると、臨床心理学者が言っているそうです」

 

 もう二度とクリスマスが訪れることはないだろうと感じながらクリスマスソングを聴く人間の気持ちが分かるだろうか?

 

絶対に分からないだろう。

 

 病気が治るかどうかは努力の如何ではなかった。全ては運だった。そしてそれは、人生についても同じことが言えた。あらゆるものは「天授」だ。努力は報われない。患者の努力次第で難病が癒えるなら医療はいらない。林修が努力次第でガウスになれるなら、abc予想に30年もかからない。フェルマーの最終定理には300年もかかった。あらゆるものは天授だ。

 

 患者仲間が言った。「あと何年生きられるのだろうか」

受験を控えた高三の弟が言った。「ほっといてくれ、兄ちゃんとは違う」

彼は言った。「努力したって天才には及ばない」

 

林修氏の演題は「やりたいことと出来ること」だった。「出来ること、というのは社会に認められることだ」と補足してから、彼は沼に大きく十字を描いた。それから、やりたいことをx軸に、出来ることをy軸にとってこう言い放った。

「京大を出たから何?第一象限で生きられる人間は皆無だ。なら第三象限で生きる人間はというと、実はこれもほとんどいない。じゃあ、あなたたちは第二象限で生きるのか?それとも第四象限で生きるのか?」

 

 

 

 去年のクリスマス、中学時代の友人にもらった本がある。いや、その女子とは中学時代はほとんど話したことがなかった。綿矢りさの「勝手にふるえてろ」の一節。

 

 がむしゃらにがんばってきてふと後ろをふり返ったとしても、やりとげた瞬間からそれは過去になるんだから、ずいぶん後から自分の実績をながめ直してにやにやしても、まあ、そんなでしょ、べつにたいして幸せじゃないでしょ。逆にちょっとむなしいくらい。
 だから手に入れた瞬間に、手ばなしに、強烈に喜ばなくちゃ意味がない。限界まで努力してやっと達成したくせに、すぐに顔をきりきりとひきしめて、“さらに上を目指します”なんて、言葉だけなら志の高い人って感じでかっこいいけれど、もっともっと進化したいなんて実はただの本能なんだから、本能のまま生きすぎて、野蛮です。足るを知れ、って言いたいのかって? ちょっと違う。足らざるを知れって言いたいの。足りますか、足りません。でもいいんじゃないですか、とりあえず足元を見てください、あなたは満足しないかもしれないけれど、けっこう良いものが転がっていますよ。

 

 長らくブログを書いていると、1時間で3000字程度は書けるようにはなった。それでも、京都市立紫野高校在学中にして文藝賞を取り、自分より若い19歳最年少で芥川賞を取った綿矢りさにはなれない。夏、一度小説を書いてみようと思い立ったが、100,000字の想いを200ページに放り込んだ時点までで挫折した。才能の欠片もなかった。僕は第二象限でしか生きられない。x<0かつy>0。

 

 

 暇があるときは 一人でドライブに行く。山間の紅葉は道端に散っていた。カーラジオからは新鋭バンドの新曲のクリスマスソングが流れていた。気が付けばそんな時期になっていた。あれから一年が経った。もう、去年のような心地にはならなかった。あの新鋭バンドはどこまで成長するのだろう。彼らはどの象限に生きているのだろう。

 今日も努力に打ちひしがれる人間がいる。ある者は病が癒えず、ある者は夢を掴めず、ある者は既に諦めている。

 ただ、それでもいいのかもしれない。

 第一象限では、生きられない。

 

 あのニュースを悲しそうな顔で読んでいたニュースキャスターは、後日その哀愁が2chで話題になっていた。彼の顔は僕にこう語りかける。

 

「 ”努力は裏切らない” なんて歌う陽気なメロディーに絶えず晒されているから、心理的に疲れるんじゃない?逃げられないような気待ちになるんじゃない?」

 

 

 成功者の言葉しか世の中には残らないから『やればできる』が格言になる。

夢は叶わないかもしれない。

叶える為の努力は無駄に終わるかもしれない。
でも何かに向かっていたその日々を君は確かに輝いて生きていたのではないか。

それが報酬だと思わないか。

 

 これは大好きな為末大氏の言葉。これ以上に本質を貫いた言葉はない。

病が癒えなかったとして、これまでの努力は無駄になるのだろうか。

大学に受からなかったといって、これまでの受験勉強は無駄になるのだろうか。

追い続けた夢を諦めたとして、その過程を無駄だと言い切ることは、果たして出来るのだろうか。

 為末氏は、こうも言う。

「逃げるコトが必要なのだと思う。大丈夫いくら逃げても、どうせ自分からは逃げ切れない。逆に逃げてみたからこそ、一体自分が何に縛られていたかに気づくコトがあると思うのだ」

 

 

 今、地下鉄に乗っている。

誰しもがスマホを見つめながら、第二象限と第四象限の狭間で揺れている。どこからともなく聴こえるイヤホンの音漏れは、クリスマスソングかもしれない。

 

 四条駅で降りる。毎日通った道。これから、浪人している後輩とご飯に行く。僕は多分「合格するなら奢るわ」と言い、いいですいいですと言われながら奢る。知らんけど。

後輩は、まだ直交座標の原点にいる。

おそらくこれから、数年かけて、足らざるを知る。

 

足りますか、足りません。でもいいんじゃないですか、とりあえず足元を見てください、あなたは満足しないかもしれないけれど、けっこう良いものが転がっていますよ。