ライス or ナン?
小さくクシャミをする。この世の全てが寝静まる冬の早暁、空はほんのり青い、微かに粉雪が舞う。
缶コーヒー片手に震えるようにして吐く息は白い。溜息をついても美しいのは皮肉なものである。掌に降り落ちた雪を包むと、間も無くほどけて肌の一部になった。まるで冷たく降り注いだ哀しみだ。この哀しみは、自身の体温を犠牲にすることでしか溶かせないのだ。罪悪かもしれないし、不徳かもしれない。失態、鬱屈、堕落、あるいは病と死。何もかもだ。ただ、すぐに溶けてくれない、その点雪と異なる。長く掌の上に居座られてしまう。無色透明になって吸収されるまで、少し時間が必要になる。
車に向かう。フロントウインドウが凍っているのを見て、しまった、と思う。前が見えないとお先真っ暗です。「 お湯かける?」と母親が出てくる。それは絶対ダメ。温度差に弱いよね、ガラスと人間関係。
エアコンとデフロスターを最大にして、スマホで時間を見る。遅れるかもしれない、大学アドレスにメールが一件届いている。
「卒論発表、朝早いですけど無理せず聴講してください、体調には気を付けてくださいね」、S准教授はいつも優しい。ほどなくして氷は溶けた。前が見える。
朝の9号線を西に走りながら、生きることについて考えていた。そのうち、いくつかの断片的な思考が反対車線の前方からやってきて、僕の車をかすめながら後ろの方へ消えていった。追えば良かったかもしれないが、僕は今時間ギリギリで桂キャンパスに向かっているのだ、と思い引き止めなかった。
何を考えていたのだろう。
あまり覚えていない。この先10年の生き方について考えていたかもしれない。幼い頃、クレヨンで描いた ”将来” と呼ばれる時間が刻々と形になる、それも「クレヨンのデッサンで止まったまま」形になろうとする不安が、僕をそうさせたのだ。とはいえ僕の人生があと10年くらいだろうという見積りはかなり前からあった。余命10年。聞いたことないだろう、なぜならそんなこと医者は言わないからだ。じゃあ、あなたの余命は50年?
10年の内訳はざっくりこうだ。
研究室3年 / 社会人7年
そういう意味での研究室配属は、僕にとって特別な意味があった。卒論聴講の日の午後は研究室訪問の初日で、その日からの3日間だけで6つの研究室を訪問した。
研究室の配属は、ほとんど成績順ではない。ほとんど、というのは各研究室に1人だけ成績枠があるからだ。僕の成績は下から数えた方が早いから、勝ち目はない。そういう残りの人間は、希望者が枠を超えた時点で即席のあみだくじが用意され、これで実質的に3年間が決まる。平等を取れば公平は死ぬのだ。
誰しも人生を持っているが、それぞれの人生は一通りにしか歩めない。択一の連続だ。能動的な択一もあれば受動的な択一もあるだろう。結果はひとつに絞られる。人生における転機は、だいたい後者だ。受け入れざるを得ないという経験が、人間を強くする。
ところで、理想的な選択は存在するのだろうか。正しい選択肢が何であるかを知らぬまま僕達は一つを選ばねばならない。「挑戦者、思い切ってAへ走って行った! しかし不正解! 池へダ〜イブ!!」そんな単純明快さを求めても仕方ない。実際のところAの先にもBの先にも池はないのだ。あるのは広大な砂漠。AとB、出る方角が違うだけ。どの道なら生きていけるだろうか、誰も教えてはくれない。全て自己責任の選択だ。そして選択のたび僕達は何かを捨てなければならないのである。ライス or ナン、ドッチニシマスカ?
20代、誰しもが葛藤の中をもがきながら生きていて、これまで歩んできた履歴の上に誤字脱字を見つけては修正液の使えぬことを知る。致し方なく二重線を引いて訂正印を押す。「私は人生のここの部分でこう選択すべきはずのところをこういう風に間違えましたよ」と示さなければならない。なぜなら「一般解」が存在するからだ。学校にきちんと行くこと。無病息災であること。勤労の義務を果たすこと。挙げればきりがない。そんなとき色んなものが邪魔をするのだ。プライド、金、偏見、恐怖。ところで履歴書を見るのは一体どこの誰なのだろう? 書類を美辞麗句で埋めるべく僕達は生きているのだろうか?
人生にはある種の休憩時間と休憩所が必要なのだろうと思っている。ところが、社会は休息に理由を求めようとする。なんで会社休むの?なんで留年したの? 「休学には学科長の承認が必要です」。
先日、首の皮一枚で進級した。留年したら何をしようかと悩んでいた。事務にまで相談に行き、宥められた。
ただ最近になって、はたと気付かされたのは、僕自身は有給を消化しきれない側の人間であるということだ。休みの取り方を知らない。とはいえ毎日100%であるわけもない。3割5分の力で365日休まず、ダラダラと過ごしている。ナンが良かったのかな、ライスにしたら後悔してたかな、と生産性のないことを永遠と考えている。インフォームドがいくらあったって、コンセントは択一だ。
“わたしがインフォームできるのはこれが全てです。コンセントは委ねます。ライス or ナン、ドッチニシマスカ?”
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元旦から数えて5日目と45日目の朝刊、京都新聞の第一面に掲載していただいた。本ブログと闘病記については何度も読み込んでいただき、取材も丁寧にしていただいたこともあって、少し恥ずかしくもありながら良い記事に仕上げてもらった。ありがたい経験だった。
前者は後日デジタル化され、Yahoo!ニュースになった。
「がんになってよかった」のタイトル。コメント欄が荒れるのは無理もなかった。
[癌になって良いはずがないだろう][強がりだ][それは生きているから言えることだ][私の母は死にました][癌になって良かったですね]
考えぬ葦の戯言だ、お前もいつか死ぬぞ、と思いながらひとつひとつスクリーンショットを撮った。数週間後、Yahoo! の記事は消えた。
悶々としていた。僕はナンを食べてナンのレビューをしただけだ。何が悪い? カレーはライスで食べるものだ、手で食う奴は汚い、そう言いたいのだろうか? 「逸脱したもの」を排他する風潮、きっと彼らは自分の信じるレールが常に正しいと思い込んで言うのだろう。「留年は怠惰」「離職は甘え」「病気は悪」、じゃあお前は一体何者なんだ? 何に挑戦したんだ? ずっとライスばかり食いやがって。ナンの味知らねぇだろ。難の味。ナンセンス。
入院中に仲良くなった白血病患者仲間からメッセージが届いていた。彼はひとつ年上で、名古屋大学の工学部だった。
「明日一時退院して、卒論発表やってきます」
凄まじい精神力だと思った。
そしてそれは、僕にとっての後押しになった。もう一度、そういう時期が訪れるのだ。予言ではなく、現実として。
“つまりあなたは今、血液がドナー/レシピエントのキメリズムを呈し、一年以内に再発する可能性が極めて高いわけです。わたしがインフォームできるのはこれが全てです。コンセントは委ねます。ライス or ナン、ドッチニシマスカ?”
高揚と不安、期待と恐れ、感情の入り混じったサラダボウルをぐるぐると掻き混ぜては何の生産性もない事を思う。ライスを選ぶことだって可能だ。しかし1年以内に死ぬ。間違いなく死ぬ。
研究室訪問のひとコマを思い出す。
「君、教授の前やし、さすがに帽子はとろうか」
「すみません、被っててもいいですか」
「どうして?」
「すみません」
病だけはいつまでも執拗に付きまとうのだ。それでも僕は「癌になって良かった」と言い続けられるのだろうか、分からない。指摘は正しかったのかもしれない。死を前にすればどんな言葉も無力だ。僕自身がいちばんそれを知っている。
院試、研究、バイト、就活、病、生。何かを取るのであれば何かを捨てなければならない。人生は択一の連続、答えは誰も教えてくれない。
「大学院入試? そんなものは聞きたくないです。私はあなたの命のことだけを考えます。私の使命は京大病院に、そして親御さんの元にあなたを生きて返すこと、ただそれだけです」
この人なら大丈夫だ。
何か僕にそう強く思わせる光を感じた。
直感を信じて踏み出す。
まもなく春になる。
平成の終わり、勝負の年が訪れようとしている。