ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

無題

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

癌を宣告された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 癌なのか。

 がん、か。

 俺は癌患者になってしまったのか。

トービョーセイカツとやらが始まるのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 状況をすぐに飲み込めるほど精神が発達しているわけがない。たとえ仙人といえども、ひとたび癌と聞けばその温厚な目をかっと見開くであろう。

 

 何が起こっているのか。巧妙に仕組まれた壮大なドッキリなのか? いや、そうだこれは夢に違いない。とんでもない夢だ。胸糞悪い。何だこれは、何の仕打ちだ。

 

 俺は今まで真面目に生きてきただろう、なぁ。一体何のバチが当たったっていうんだ。不公平じゃないか。

 

 わけの分からぬまま、英単語を習いたての中学生のごとく、何度も何度も"がん"の2文字を繰り返す。がん、がん、がん...  そう繰り返すうちにこの二文字が意味を失ってくる。異様な負のオーラを放っていたはずの名詞が、単なる擬音語のように聞こえてくる。何だ癌か、と呟いてみる。

 

 

 一度すとんと腑に落ちたような心地よい感覚が駆け巡る。ショート寸前にて思考は停止し、ここで一旦は安堵する。しかしながら、やはりどうも心の奥の方が受け付けないようで、もう一度跳ね返って戻ってくる。この作業がぐるぐると続く。非建設的なループは終わらない。先が見えない。

 

 全く理解できない。

 

 どうして自分なのか。

 

 

 癌は日本人の死因第一位に長年君臨してきた。前回のブログにも書いたが、祖母も癌に侵されて昨年この世を去った。自分もいつかは侵されるのだろうと心の片隅ぐらいには思っていた。

 

 

 だが流石に早くないか?

 祖母のお見舞いに行った、まさしくその病院に、ちょうど一年後、自分が入院する。同じく癌で。

 

10代で癌なんてドラマとかのイメージ。あるいは自己とはかけ離れた遠い世界のドキュメンタリー番組。自分にとっては、もはやフィクションの世界の出来事だった。それが今、もう既に身体を蝕んでいる。自分の体の中で、自分の細胞が、わけの分からない突然変異によって無秩序の増殖を開始し、自らが自らを侵している。その勢いはとどまることを知らない。転移さえしている。どうしてそんなことをするんだ。殺すのか。気が狂っているのか。やめてくれ、頼むからやめてくれ。

 

 恐ろしいのは何一つと言って自覚症状がないことである。朝起きて、普通に飯を食って、大学に行って、友達と講義を受ける。バイトして帰ってきて飯を食って風呂に入って寝る。そんな普通の生活をしているところに突如として癌を宣告されるのである。青天の霹靂。晴れ渡る青空から鳴り響く雷鳴に、身震いさえすることができない。ただ呆然とその場に立ち尽くすばかりである。日常が非日常へと瞬く間に変貌するとき、人は茫然自失として、事の成り行きをただ眺めることしかできない。未曾有の光景に理解が及ばないのである。

 

 

 やはりどうしても癌には「死」の形象が伴う。それは当然といえば当然なのかもしれない。

 

 勿論これまでは、自分の描く人生に「死」など存在していなかった。存在しえなかった。 10代で死を意識しながら生活する方がおかしい。

 

 人生の延長線上、地平線の遥か彼方に、終着点が存在することくらいは分かっていた。そこから先は宗教的な世界観を持つことも分かっていた。それは子供の頃から知っていた。諸行無常、盛者必衰。不老長寿の薬などこの世に存在しない。永遠の命など神も仏も与えない。しかしそれを自分自身に還元して考えることは不可能であった。自分の命に終わりがあることを知っているつもりになっていただけで、実のところ何も分かっていなかった。終着点の方へ視線をやったことなど無に等しい。もしかすると凝視したところで見えるものでもなかったかもしれないが。

 

 ただ、そうやって脇目していたのがいけなかったのかもしれない。日常の雑事に気をとらわれてしまっていた。現在地の足元、その近傍ばかりを気にしていた。

 ふと視線を前方に戻せば、「死」が視界に佇んでいた。

 

 人生は「死」に向かって歩くものだとばかり思っていた。しかし、時に「死」は自らの足でこちらに向かってくる。走ってくる。顔色ひとつ変えない圧倒的なスピード。知らぬ間に、彼は着実に忍び寄っていた。「達磨さんが転んだ」のイメージかもしれない。獣のような低姿勢で脇目もふらずに来る。彼を意識せぬ時間が長いほど、彼は加速する。背を向けると喰いつかれる。

 

 彼は決して笑うことはない。一方で手招きをするわけでもない。ただ無表情のまま、静かにこちらを見つめている。「死」と命名された唯一無二の絶対的存在。無双。古今東西、この世に生きとし生ける万物において彼にかなうものなど皆無である。

 

 この世に生を受けたものは必ず死ぬ。この自然の摂理は十分に理解していた。しかしながら、自分の人生の延長線上に「死」が存在するということには気づかなかった。一般論を具体例に落とし込む、そんな演繹的な考え方には長けていない。これまで、自分の人生に終わりを考えることも、考えさせられることもなかった。だからこそ彼が現れたとき、初めて目にするその姿を、認識することさえできなかった。彼の存在は知っていた。しかしながら、何が起こっているのか全く理解できなかった。青天の霹靂。

 

 生と死は紙一重な気がした。あなたも私も、明日生きている保証はどこにもない。しかしこれだけ書いていても、やはり自分の生が死と隣り合わせにあることすら理解できない。

 

昨日生きていた。

今日も生きている。

だから明日も明後日も1年後も、そしておそらく10年20年先も当然のように生きている。

 

 こんな帰納法が成り立つのなら生は永久不滅である。そんなわけがない。愚かな甘い甘い考えで、人は毎日を生きているのである。 馬鹿馬鹿しい。あなたが明日死なないことを何処のどいつが保証してくれると言うんだ?

 

 生は脆い。直立不動の一輪の花は、いとも簡単に根元から折れて朽ち果てていく。

 

 生きているということ。その儚さゆえに「生」は美しいのだということを、もしかすると癌は教えてくれようとしているのかもしれない。1日を大切に生きろというメッセージなのかもしれない。

 

 これからは「死」から目を離せない生活が続くであろう。そしてじりじりと詰め寄られてきた距離を、苦しさに耐え、痛みに耐え、また少しずつ離していかねばならない。筆舌に尽くしがたいほどの苦痛が全身を襲う日も来るであろう。だか、それでも最適な方法を医師が指南してくれるのだ。不安要素は最早ない。

 

 信じるのみである。

 死を臆することは彼を有利にしてしまうかもしれない。

 

 数ヶ月で終わるのか、はたまた数年、数十年かかるのか。

 闘病。相手も本気であるならばこちらも本気になるしかない。ふざけるな、姑息に忍び寄ってくるなんていい度胸じゃないか。

 

強く生きてやる。生きながらえてやる。俺はひとりじゃないんだ。

死んでたまるか。

 

指一本たりとも触れさせやしない。