ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

戦場の食

 

 泣きながら食う白米は格別の味がした。

 人生の味。

 

 何も分かっていなかった。分かろうとしなかった。逃げていた。

 

 漠然と広がる荒野に音も立てずに吹き付ける乾いたそよ風。悲劇でもなければ喜劇でもない、戦慄が走るわけでもなければ安らぎを得たわけでもない。ただぶらりと垂れ下がったまま、しかし少しばかり揺さぶるとはらはらと落ちる、美しく色づいた枯葉。そんなひとひらの雫。

  

 平常心。人前ではあまり泣かない。もう泣けなくなったのかもしれない。感情を大っぴらに表現するのは難しい。昔は馬鹿みたいに笑って馬鹿みたいに泣いた。あの頃の方がむしろ馬鹿じゃなかったのかもしれない。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び。でも我慢強く溜め込んだ堰堤はいずれ根元から決壊するから。大きく音を立てて崩れ去るから。貯水が尽きて枯れるよりマシかもしれないけれどね。放流、放流。

 

 1日だけ人間をやめてみたくなった。1日だけ。考えることが嫌になったから。あの頃、自分の心の中には何らかの淀みがあった。言葉にさえ出来ずに渦巻き留まる濁水。泥水。底無し沼。息ができない。もがくほどに埋もれいく。蝕まれていく。助けは来ない。

 

 疲れていたのかもしれない。いや、疲れていた。あの夜、困憊した脳が何をしたかったのかは本当に知るよしもないけれど、そう、鮮明に自分自身が死ぬ夢を見た。死ぬ瞬間というより、もう既に、そしてはっきりと横たわっていた。はっとして起きたら暗がりの病室で生きていた。胸に手を当てたらまだ動いていた。どうして。

 

 死ぬ夢なんて誰しも見たことがあるだろうし自分も初めてのことではない。大抵の場合は夢の中で死んだ自分を客観的に眺める自分がいる。主観的に死を想像できるほどの頭を持ち合わせてはいないから、必然的にそうなるのだろう。ただ、あんなに現実味を帯びた夢は生まれてこの方見たことがなかった。俺は死んでいた。そして冷たくなった自分を見つめている自分がいた。ねぇどうして死んでいるの?

 

 

 生きているということと、死ぬということ。その両者間には人間の想像力なんかではどうこうすることのできない不動の厚い壁があって、相容れることなく反発する両極端のイメージに身体が張り裂けそうになる。

 

 

 

 

 

 

 「なぁ、こんなこと聞いていいんか分からんけど、もし、本当に死ぬことになったら、どうする?」

 

こんなことを聞かれたことがあった。一度だけ。奴は相も変わらずそういう奴だった。お見舞いに来てもらったのに一発お見舞いされた。正直言うと痛かった。ノックアウト。もちろん答えられなかった。

 

 

 あの一言がまだ引っかかっている。とっくに取れたと思っていたのに、何だか違和感が残っている。魚の小骨が口の中に突き刺さっている。

 

 

 本当に死ぬことになったら、俺はどうするのだろうか。

 

 反芻の果てに飲み込むことさえできず、吐き出しそうになる問いに悶え苦しんで、そうして気が付いたら寝ていて朝が来ている。あれ以来、そんな日が幾夜かあった。

 

 

 

 自分は今まで、若者が誰しもそうであるように、死という概念とは交錯しない次元に生きてきた。

 

 それが唐突にも、自身の直線上に死の存在を知らされて生きることになった。

 

 しかしそれは死ぬことを決定づけられた訳ではなかった。紙一重で異なる次元にいた。自分には、まだ生きる希望がそこら中に広がっている。

 

 近々死ぬことがわかって生きるということは、今の自分の生き方とはまた別次元なものなのだ。

 

 本当に死ぬことになったら、どうするのだろうか。

 

 身辺の整理、自身の余命。そんなものを宣告されぬうちから人生の終わり方を考えたくはなかった。終わりを考えることは即ち終わりに向かうことだと思っていた。死ぬことを考えることは生きることから逃げることのような気がしていた。

 

 

 

 

 

 

 そんなある日、同じ病室のおじいちゃんに話しかけられた。「あんた、学生さんか?」と聞かれ頷くと、嬉しそうに「ほらええこっちゃ」と頰に皺を寄せて笑った。

 

 彼は御歳88歳。溌剌とした老人で、ボケなんて言葉からも程遠いところに生きているように見えた。かつては三菱重工でロケット部品を管理していたというから、なかなかのツワモノだ。ただ、現在の病状の方を尋ねると、少し苦笑いしていた。膀胱癌が身体中に転移しているそうだ。そういえば、夜はしばしば辛そうな呻き声をあげている。

 

 

 あの日は戦時中の話をしてくれた。晴れ渡る冬空の陽は、少しばかり傾きかけていた。ろくに勉強もできず、ただ国家の言われるがままに動いた、そんな時代の話だった。

 

 

 

 

 当時、彼はまだ学生だった。学校は1限しかなかったそうだ。そうして短い授業が終わると、軍の工場に向かう。そんな生活を続けて、卒業後はそのまま三菱重工に入り、戦車を作り続けたという。

 

「本当は航空隊に志願したんじゃけどな、ひっぱたかれて辞めさせられてしもうた。でもあのまま続けとったらな、ワシは特攻に行ってこの世にはとっくにおらんのや。同期はみな死んだ。不思議なもんやのぉ。」

 

 彼は窓の外から淡く差し込む光に目を細めながらそう言った。自分は黙って頷いた。もう70年も前の話になるのだ。

 

 

 「けどワシはのぉ、癌も転移しとるしもう助からんかもしれん。相続のことも色々考えなあかんけん、えらいこっちゃで。」

 

 彼は身辺整理も視野に入れて生きている。その生き方は、自分の生き方とは紙一重のようで、全く異なる生き方なのだ。生に向かう生と、死に向かう生。

 

 

 しかし彼は慌てふためく素ぶりなど少しも見せず、ただ静かに笑って自分の生涯と老いに向き合っていた。定めを受け入れんとせんその姿は、まさに戦争を強く強く生き抜いた日本男児そのものであった。

 

「ワシがあんたと同じ年の頃はな、自分で考えて行動するいうことができよらんかった。思想も物も何でも統制。今や見てみな、やりたい思たら何でもできよる。無限の可能性がある。それが学生や。生きたいように生きなさい。」

 

 

 生きたいように生きる。それが叶う時代、叶う国に生きている。そのことを噛みしめなければならない。はっとした。

 

 

 もし、本当に死ぬことになったら。

 俺はそれでも最期の一瞬まで、生きたいように生きて死にたい。着実に、焦ることなく、もがくことなく、淡く光る過去の余韻に浸りながら今という瞬間を噛みしめていたい。彼がそうであるように。微塵の後悔もない生であり、そして死でありたい。

 

 

 それから何より、今この次元においても、常にそういう生き方をしていたい。死に向かうかのごとく生に向かいながら、力強く生きていたい。

 

 そういえば、高校時代の恩師に頂いた三島由紀夫の「葉隠入門」には、かの「武士道とは死ぬことと見つけたり」に続く有名な一文があった。

 

毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課すべき也。

 

 三島によると、常に死ぬ覚悟であることが、詰まる所、人生を全うできるということである。今ようやくこの一文が腑に落ちた気がした。若きサムライたれ。

 

 

 

 

 

 夜中こうして書いている間にも、隣からは微かな呻きと腰をさする音が聞こえてくる。彼にとっては、ここは第二の戦場なのかもしれない。いや、自分にとってもここは戦場だ。個々、静かな戦いが、日々繰り返し行われている。生命のやりとりがある。病院とは、戦場である。しかし皆それぞれの境遇を背負いながら、死と向かい、強く逞しく生きている。生の尊さと死の儚さを実感し、そうして今この一瞬を噛みしめて生きている。美しい。

 

 

 

 あの日、最後に彼はこう言っていた。

 

「飯さえの、死ぬまで食えたら、そらもう御の字じゃわ」

 

 米など手に入らなかった時代。少ない配給。栄養失調。ヤミ市。友を失い、家族を失い、家を失い。そんな時代を生き抜いたであろう彼の口から出た言葉である。そうして戦後、相模原の戦車が種子島のロケットに変遷しゆく時代を生き抜いた人の言葉である。いま目の前に食があり、ここに豊かに生きているということ、まずその境遇に感謝せねばならない。

 

 「ワシの役目は終わったけんの、あんたらが日本の未来を作らんと。」

 

 

 彼には "日本男児たれ、若きサムライたれ" と教えられたような気がした。

 

 だから僕は、この白米一粒一粒に戦場の恵みを感じて、涙せざるを得なかった。時代は違えど、それはもう、身体中に沁み渡る戦場の食だった。

 

 

 

 

 格別の、人生の味がした。