ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

 

僕達は生きていて、彼女は死んだ。

定められた運命だったのだろうか。

僕達の心臓はまだこんなに脈打っているというのに、彼女の心臓は跡形もなく灰になった。

 

 

癌が、また一人の人間を殺した。

 

 

「愛してる」。

その一言を絞り出して、1人の女性がこの世を去った。

 

その一言「愛している」と言って. . .  そのまま. . . 旅立ちました . . . 。
「愛してる」の「る」が聞こえたか、聞こえないか. . . ちょっと分からないですけど. . . 。

 

 夫はそんな日も淡々と二公演をこなし、ブログを何度も更新した。それでも、記者の前で話す1人の歌舞伎役者の姿は、どこか孤独に感じられた。「いつもと変わらぬ」と題したその日のブログにはこう綴られていた。

 

どんな事があろうと、
舞台。


役者になるとは
そういう事なのかもしれません。

 

 

 思い出したのは、浅田次郎の「鉄道員(ぽっぽや)」だった。北海道のローカル線の終着駅で、娘が死んだ日も、最愛の妻を亡くした日も、怯むことなく旗を振り続けた駅長の姿に、彼が重なる。

 

ポッポヤはどんなときだって、げんこのかわりに旗をふり、涙のかわりに笛をふき、大声でわめくかわりに、歓呼の裏声をしぼり出さなければならないのだった。
ポッポヤの苦労とは、そういうものだった。

 

 彼女の死と、彼の言葉は、重く深く、それでいて優しくのしかかってくるものだった。

 僕自身は闘病中、幾度となく彼女のブログを読んだ。闘病記を始めたきっかけも、彼女のブログだった。強く生きる姿に、どれほど後押しされたことだろうか。

 

人の死は、病気であるかにかかわらず、
いつ訪れるか分かりません。
例えば、私が今死んだら、
人はどう思うでしょうか。
「まだ34歳の若さで、可哀想に」
「小さな子供を残して、可哀想に」
でしょうか??
私は、そんなふうには思われたくありません。
なぜなら、病気になったことが
私の人生を代表する出来事ではないからです。
私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、
愛する人に出会い、
2人の宝物を授かり、家族に愛され、
愛した、色どり豊かな人生だからです。
だから、
与えられた時間を、病気の色だけに
支配されることは、やめました。
なりたい自分になる。人生をより色どり豊かなものにするために。
だって、人生は一度きりだから。

                                   (BBCへの寄稿より)

 

 彼女の苦しみは決して分からないけれども、彼女が死んだからといって可哀想だとは思わない。思ってはならない。そう思って欲しくはないと彼女が言っていたのだから。"一度きりの人生" を他人から可哀想だなんて言われる方が可哀想だと思う。(34)と記された数字を見て、若いのにね、なんて言うコメンテーターなんかぶん殴ってやりたかった。愛する家族に自宅で看取られて、最期に「愛してる」と伝えられて、それは彼女が望んだ形での幸せだったんじゃないですか。

 

 

 

 先日、入院時に仲良くなった患者さんから、京大病院に外来診療に来たよと連絡があった。講義は午前で終わったので行ってみると、別の患者仲間も来ていた。久々の近況報告に話が弾んだ。しばらくすると、ポータブルの呼出受信機のベルが鳴った。

 

 

 彼らの診察を待つ間、病院3Fにある図書コーナーで時間を潰した。棚を見ていると、ある一冊の古びた本が目に止まった。昭和53年発行、題は「死を見つめて」。最後のページには赤い字で「廃棄」と書かれていた。文字は黄ばみ、ハードカバーの装丁はボロボロになっていた。

 

その本を手に取ったのは、僕自身が、死を見つめることを望んでいたからかもしれない。退院してからは死が遠ざかっていた。ブログを2ヶ月も更新しなかったのは、紛れもなくそういう理由だった。自分も、患者仲間さん達も、「生きている」のである。多少の不自由があるにしろ、さも当然のように生きている。ある人は2年生存率が50%をきっていたし、ある人は僕と同じ年齢で両肺移植を受けていた。そしてそうした背景には、患者と同じ歳頃の、夢半ばで脳死したドナーがいたはずだった。

 あるいは僕自身も、半年後死ぬことを半ば覚悟していた。20歳まで生きられたらいいな、なんて思ったこともあった。それなのに、あれだけ待ち望んだ「当たり前の日常」は、平然と過ぎ去っていく。こんなにも生きたかった今日は、雑踏に紛れていく。

 

 

 深刻な病におかされて、僕達は生きている。その一方で、彼女は亡くなった。昨年9月に夫が妻の乳がんを公表したとき、5年生存率は、おそらく自分と同じくらいだった。今日という日を彼女は切実に生きたかっただろうし、僕達は今日を何食わぬ顔で生きている。

 

 

 遺された夫と子が強く生きようとする一方で、僕達は一体何をしているのだろうか。

 

 

 愛すべき世界でもう生きられないということ、愛する家族を失うということ、そんなもの何も知らなかった。

 

 

 まお、|ABKAI 市川海老蔵オフィシャルブログ Powered by Ameba

 

 胸が痛む。

 

 

 本のページをめくっていると、こんなことが書いてあった。

 

 太宰治は、「優しい」という字が、「人」ベンに「憂い」と書く、と言う。ひとに対して優しいのは、自分の中に憂いを持つ者だけである。憂いによって憂いが癒されるのである。

 

愛する者の死に直面する、その日が来たならば、優しい人間となろう。今日の自分の憂いを憶えないならば、明日、人に対して優しくなどあり得ないだろう。愛する者を失うという憂いと傷とを、じっと嚙みしめよう。人が人を真剣に愛したという重み、そこに生死を超えた永遠がある。

 

 夫は、妻がなくなった日のことを「人生でいちばん泣いた日」と綴った。その憂いは、癒されることのない傷なのだろうか、僕には分からない。

 それでも、人を憂えることが優しさであり、そういう優しさこそが愛であるとするなら、彼女の最期の言葉は、「愛してる」のその一言は、いつかきっと、憂える彼を優しい心地にいざなうことだろう。そうあってほしい。

 

 彼はブログに「優しさは愛」だと綴っていた。愛と憂い、憂いと優しさ、優しさと愛。

 

 

 昨年のブログの中で、彼女はこんなことを書いていた。

何の思惑もない優しさが
この世界にも、まだたくさんある。
たくさんあるけれど、
出会うのは難しい。
ほんものの優しさ。

 

 彼女が出会った夫は、そういう優しさを持つ夫だったのだろう。そして彼の憂いは、子への優しさへと移ろい、時間をかけて再び愛へと変わるに違いない。憂いこそ優しさであり、優しさこそ愛であるのだから。

 

そして何もない時間|ABKAI 市川海老蔵オフィシャルブログ Powered by Ameba

 

 人生が長いか短いかなんて、そんなものどうだっていい。生きた年数を評価するくらいなら、平均寿命なんて知らない方がいい。ステージⅣを宣告されて、余命を宣告されて、最期の時間を家族と過ごすことを決めて。それでも「奇跡はまだこれから起こるんです」と信じる夫と、母想いの2人の子供に支えられて。それはある意味では、ある人にとってみれば不幸なのかもしれないけれど、僕にはそう思うことはできない。僕の祖母は癌で亡くなる直前まで笑っていた。強く生きていた。僕自身は、癌になってから初めて生きることの素晴らしさを知った。生かされていることを実感できた。あるいは、そういう経験があったからこそ言えることなのかもしれないけれど、彼女は、周りの人々に恵まれ支えられ、そうして本当に幸せな人生を歩んだのだと思う。

 

 憂いと優しさと愛とを、本当の意味で知った人生を。

 

「家族に愛され、愛した、彩り豊かな人生」と虚飾なく思えるような、そんな幸せな幸せな人生を。

 

 

 

 

 御冥福をお祈りいたします。

 

 どうか、彼と子が、これからも幸せな人生を歩めますように。