ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

espressivo

 

 過去というものは水底に沈んだガラス玉だ。光を浴びて表情を変え、時の流れに合わせてゆらゆらと漂う。手の決して届かぬところで、それでも確かに存在している。少しずつ色褪せていくが、探せばいつも変わることなくそこにある。水が濁れば浅い部分しか見えなくなるし、水が澄めば深くまで見えるようになる。

 

 

 

 ピアノの鍵盤に手を伸ばす。副作用で痺れた手が小刻みに震える。手の届かぬガラス玉がまたひとつ増えてしまったな、と思う。

 

 

 

 少しだけ、僕とピアノの話がしたい。

 

 

 

 ガキの頃、本よりも先に楽譜が読めるようになった。物心ついた時には鍵盤を触っていて、入学祝いで電子ピアノを買ってもらったときは大喜びした。3歳から11歳までの8年間、僕は週1回ほとんど欠かさずピアノ教室に通った。

 

教室とはいえ、昔ながらの一軒家の応接間だった。フカフカのソファがあり、楽譜のひしめく本棚があり、電子ピアノとエレクトーンとグランドピアノがあった。玄関先は、ときおり線香のいい香りがした。

 

 

 先生はとても優しかった。怒られたことは一度たりともない。上品で、笑顔を絶やさず、何より僕の我儘な性格に8年間も付き合ってくれた。僕の誕生日をちゃんと覚えてくれていて、毎年プレゼントを貰った。

 

 

 小6になる前、中学受験を理由にピアノを辞めた。受験は落ちた。

 

 

先生とはそれから少し疎遠になった。それでもピアノを遠ざけることはできなかった。暇を見つけては自己流に弾いた。中学に入ってからも、合唱コンクールのたびに少し指導してもらっていた。

 

 

 あれから暫く経った。高校を卒業し、大学生になった。そんな矢先、2年半前のことだった。

 

 

先生は癌になった。

 

 

 

ピアノ教室は閉められた。僕はそのことを知らなかった。

 

 

 1年近くに渡って入退院を繰り返したらしい。必死に癌を闘い抜いて、身体はボロボロになってしまった、と後から聞いた。それでも一昨年末には少し落ち着いたらしかった。ちょうどその頃、入れ替わるようにして今度は僕が癌になった。2016年が終わろうとしていた。

 

 

 

17年の春、一本の電話があった。先生からだった。癌になったこと、それでも負けなかったこと、もう一度ピアノ教室を再開したこと、たくさんの報告をしてくれた。また遊びに来てね、と言ってくれた。

 

 必ず行きます、と約束した。

 

 

 あの約束から、気が付けば一年半の歳月が流れていった。愚かな僕は、まだ果たしていなかった。

 

 

 今年の5月頃、先生は再び入院した。僕が知ったのは、8月の半ばだった。見舞いに来てくれた友人が教えてくれた。先生が退院したら、先生の家に一緒に行こうと約束した。今度は本当に行かなければならない、と思った。

 

 会える人に、会えるうちに、会わなければならない。それはこの数ヶ月でより強く実感していることだった。

 

 何より、もう一度先生の前でピアノを弾きたかった。先生の退院予定日が、実は8月2日だったことは、後から知った。とにかく、すぐに会えると思っていた。

 

 

 

 退院の前日、8月1日に事態は急変する。

 

 

 快方に向かっていたはずの先生は突如として危篤状態に陥った。穏やかな日常は儚く消えた。数日後に意識が戻るまで、先生は生死の境を彷徨った。

 

 

「必ず家に帰ろう」

 

 

 旦那さんはそう言い続けたという。呼吸器を付け、ただ黙って頷くだけの先生に、何度も、何度も。

 

 

 

 

 

 

 2週間前、先生は家に帰った。

 

 

 僕は主治医に無理を言って外出許可を貰い、病院で黒のスーツに着替え、点滴の針を刺したまま葬儀場に向かった。

 

 

 車中、僕はひどく後悔していた。会えるうちに会わなかった自分をひどく恨んだ。どうしてもやりきれなかった。

 

 

 

 

 葬儀場に着く。入口の脇、懐かしい名前の上に「故」と添えられている。在りし日は過ぎ去った。もうこの世にはいない。それが実際に、本当に起こったのだということを眼前で突き付けられる。

 

 

 

 先生を飲み込んだ死。自分に迫りくる死。癌と白血病。ピアノと震える手。あらゆる感情を整理するには、僕はあまりに孤独だった。そして、孤独を誰とも分かち合えないことこそが、僕の孤独を果てしなく加速させた。

 

 

 

 あのガラス玉に、もう手の届くことはない。

 そして僕自身もまた、過去のガラス玉になろうとしているのかもしれない。

 

 

 

 

 故人の想い出の品が並べられていた。発表会の写真には、僕が固くなって写っていた。プログラムを開くと、自分の名前の横に懐かしい曲名があった。確か、本番だけ上手くいった。連弾曲の方は盛大に間違えた。

 

 

 

 本当は、発表会で難しい曲を弾きたかった。上手くもないのに楽譜を漁って、あれがいい、これは嫌だと駄々をこねた覚えがある。いつも半人前だった。

 

 先生は頷きながら聞いてくれた。それからこう言ってくれた。

「難しい曲を雑に弾くのは良くないよ。簡単な曲でも、感情を込めて、丁寧に弾くことができたら、素晴らしい曲になるから。そういう曲しか現代まで残ってないよ。」

 

 

 espressivoを知ったのはこの時だっただろうか。好きな音楽用語のひとつだ。

 

 楽曲には、どのような表現をすべきかを示す「発想標語」なるものが存在する。カンタービレなら「歌うように」、ドルチェなら「柔和に」、そして上のエスプレッシーボは、「感情を込めて、表情豊かに」。

 

 

 多少のアレンジこそあれ、演奏者は楽譜に忠実だ。同じ楽譜なら、機械に弾かせてしまえば同じ音になる。そんな譜面にどう感情を込めるか、いかにして表情豊かな曲として息を吹き込むか、それが演奏者として最も重要なのだと思う。

 

 

 

 同じことが人生についても言える。

 僕達は運命に忠実に生きている。「人生とは音楽だ」とはよく言ったもので、僕達は生まれてから死ぬまでずっと、一方向にしか進めない五線譜の上を歩き続けている。そこには予め決められていたかのように、容赦のないリズムもあれば全く冗長なメロディも存在する。そして僕達は難解な旋律を雑に弾いてしまうことだってできるし、簡素なメロディを豊かにすることだってできる。

 

 

 白血病患者としての人生。背負わねばならぬ運命。そんな譜面を、それでも僕は表情豊かに弾きあげたい。今は強くそう思う。どんな譜面であれ、espressivoでありたい。

 

 感情を込めて、表情豊かに。

 

 

 いくつものガラス玉と出会い、手にとり、眺めてきた。それは音符のようなものなのだろう。ひとつ、またひとつと、流れ過ぎ去る。音符の流れが、旋律を生む。

 

 弾き終えた音符ひとつひとつが楽曲を構成するように、ガラス玉それぞれが人生を構成している。過ぎ去りし音符はガラス玉であり、水中をゆらゆらと漂いながら、それでも消えることなく確かに存在している。

 

 

 

 中学時代の理科の授業を思い出す。

「光は水面で屈折します。だから水の底にある物体は、実際よりも浅く見えちゃうんです。本当はもっと深いところにあります。」

 

 

 手が届くと思っていたガラス玉は、もっと深く遠いところにあった。 水底で輝けど、もう手は届かないのだろう。

 

それでも僕は、震える手をそっと鍵盤に伸ばす。

 

 今は亡き故人に教えられたピアノ。僕は一生弾き続けることを決めた。そうすることで、少しでも故人の生きた証が残っていくのなら。

 

 窓を開けると、夕暮れと共に秋の匂いが入ってきた。手は届かなくとも、音は届くのだろうか。半人前のピアノの旋律は、金風に乗って遥か遠くまで運ばれていった。