ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

震えるサイン、震えぬ芯

 

 今日ばかりはゆったりとした時間が流れているというのに、僕は少し疲れていた。白く堅いパラマウントベッドに横たわったまま、静かに、静かに目を閉じる。これまでの過去と、これからの未来を想う。瞼の内側で涙が溢れる。シーツに零さぬよう、強く瞑る。

 

 血が注がれている。赤い血であり、僕の命でもある。

 これでいいのだ、そう確信している。この決断で、いい。

 

 

 デイ・ゼロ。

 医療の世界は今日をそう呼ぶ。全てがゼロになる日である。原点であり、誕生であり、そして再出発点でもある。

 

 一体僕はあとどれくらい生きられるのだろう?

 

 

*****

 

 生きるか、死ぬか。

 この世で最も究極とも言える、そんな二択を迫られるなんてこと、無い人生の方がいいに決まっているじゃないか。僕だって毎日を全く穏やかに生きたかった。21歳の京大生として、何の変哲もない、代わり映えのしない日々を送りたかったのだ。何も起こらぬ平々凡々とした日常がどれほど幸福な生であるか、あなたはきっと知らないだろう。

 「生きますか、死にますか。」

 もちろん僕は前者を選択する。1人の人間として、そして何より白血病患者として。治療同意書に署名し、捺印する。それが半ばルーチンワークと化している。僕は何人もの血によって生かされている人間であるのだ。多くの人々の想いを乗せて、この胸でひとつの小さな心臓が動いている。こんなところで死ぬわけにはいかない。

 昨夏、急性白血病を宣告された。晴天の霹靂であったが、病は既に深く巣食っていた。身体中の骨髄を癌細胞が蝕み、血はもはやただの有害な赤い液と化していたのだ。つまり僕の造血器は生きるべき本来の機能を完全に喪失していたのである。ひとりで宣告を受けた僕は絶句し、そのままトイレまで逃げて壁を殴って泣き続けた。ゲリラ豪雨は僕の真上だけに激しく降り注いだのだ。僕はもうここで息絶えて死んでしまうのだ、何もかも全てこれで終わりなのだ、と思うと嗚咽が止まることはなかった。

 

 それからの日々、大量の抗がん剤放射線、あるいは輸血と栄養剤、まるで一歩たりとも引かれぬ鍔迫り合いのごとき治療が数ヶ月続いた。身をよじるほどの激痛が老い先の長くないことを物語っていた。苦痛を癒してくれるのは24時間連続投与されるモルヒネだけで、果てしなく厳しい治療は癌細胞もろとも心身を傷つけ、副作用的兵糧攻めを受けた身体は絞り切った雑巾になった。それでも僕は治療を進めるべく同意書への署名捺印を続けた。そこにだけは迷いのようなものがなかった。

 

 生きたかったからだ。何としても。

 

 それは現代医療と医療者への全幅の信頼の証であるばかりでなく、生きることへの執念そのものだった。

 

 夏の終わりにはドナーが見つかった。救世主であった。祈りは通じ、生きるチャンスを確かに与えられたのだ。「神はまだ僕を見捨ててはいない」、はっきりそう悟った。やはり迷うことなく署名捺印し、そうして10月に骨髄移植を行った。これによって僕の体内はドナーさんの健全な血液で満たされ、首の皮一枚のところで奇跡的に命を取り留めた。後は順調に進む経過を見守るだけでいいのだ。こうして長い長い闘いにもようやく終止符が打たれるはずであった。

 

 …はずであった。

 

 平成を死に物狂いで生き抜いた暁には、令和と呼ばれる住みよい時代が僕にも訪れるだろうと思っていた。気淑く風和らぐ、そんな平穏を願ってやまなかったが、その想いも虚しかった。また前途多難な日々が幕開けることを、僕は俄かに知らされたのだ。

 

 移植後の経過が上手くいかなかったと告げられたとき、いよいよ背水の陣は崖下へと崩れ去った。僕は遂に奈落の底へと落とされたのだ。そこは谷であると同時に闇であり、死でもあった。まもなく殺されたはずの異常細胞が復活し、移植されてきたドナーの細胞を追い出しはじめた。検査のたびに、健全なドナーの細胞割合が減っていったのである。3… 2… 1、ゼロ。万事休して、もはや希望は絶たれた。「末梢血細胞の94%に染色体異常が見られます」。

 どうして。心の奥底から悲鳴だけが木霊していた。生きたい、生きたい、生きたい。僕は土下座しながら、藁でもいいから落としてくださいと、そう必死の形相で叫んでいたのだ。神に、主治医に、ドナーに、献血者に、家族に、そして自分自身に。「僕はこんなところで死にたくないんです、まだどうしても死ねないんです。21年しか生きてないんです。お願いですから助けてください。」

 

 しかし返事はなかった。僕の声は薄暗く湿った谷間の底の岩壁に、虚しくも反響するばかりであった。

 

 終焉。そんな言葉が脳裏をよぎっては、幼き日々がポツリ、ポツリと想い起こされるのであった。まるで走馬灯のごとく浮かんでは消える情景。それは大方、懐かしき夏の日であった。

 

 小学生の僕は夏休みに入ると、朝から近所の公園でラジオ体操をし、皆勤賞で三ツ矢サイダーを貰った。午後は解放されている小学校のプールで友達と遊び、朝顔の自由研究と図工の課題を母親に手伝ってもらった。スイカをほうばり、夜はBBQの後に花火をした。500円玉を1枚だけ握りしめて神社のお祭りにも行った。

 中高の部活は陸上部だった。やはり夏休みは毎日のように走り込んだ。練習が終わると頭から思いっきり水を被り、チームメイトと談笑しながら帰宅した。インハイ予選で散った日は眠れなかった。

 そういえば高3の夏は大学受験に追われていた。朝から晩まで、毎日10時間は机に向かった。赤本と黒本を何冊も持ち歩き、肩を壊した。夏期講習を終えてから友人達と食べるラーメンは至高だった。

 

 

 死ぬことを知らぬ日々であった。

 

 

 そんな体力、いまどこにあろうか。

 輝いたあの夏が、アスファルトに浮かぶ逃げ水のように煌いて瞼の裏に揺らめく。僕はその影ひとつひとつが、どこを切り取っても幻であったのではないかと思い始めた。

 

 

 いや、きっと幻を見ていたのだ。

 終焉なんだ。

 

 サヨナラ。

 短いけど結構いい人生だったんじゃない?

 そうだよ、幸せだったよ、本当に。

 就職も結婚もしたかったけど、子供とお酒片手に語り明かしたり孫を抱きしめたりもしたかったけど、それはちょっと欲張り過ぎかなぁ。

 

 せめて最期の日は晴れてるといいなぁ。神様それぐらい叶えてね。静かな朝がいいです。

 

 半ば自分に諦めるように、言い聞かせるようにして呟く。

 誰も悪くないさ。

 

 この美しい世界に生きられてよかった。

 

 楽しかったよ、21年間…

 

 

 

 

*****

 

  

  微かな返事が聴こえる。

  想いが届いたのだろうか。

 

  ある日、天から二本の藁が舞い降りたのである。

  主治医は僕を呼んだ。

 

 そこでは、ある条件付きの選択肢が提示された。それは紛れもなく最後の選択肢であった。しかし同時に、風前に揺らぐ命にとっては苦難そのものでもあった。

 

 と言うのも、もはや生きるか死ぬかという二元化された選択の域ではなかったのだ。

 

 生きることへの執念から臆さず前者にサインしてきた僕は怯んで後退りした。ここに来て戸惑い、狼狽し、そして葛藤した。

 これまで、治療から逃げてきたことは一瞬たりともなかった。それは治療を受けることそのものが生きることだと考えてきたからであり、生きたいという強い意志だけがそうさせていた。力強く署名し捺印することで、僕は生きてきたのだ。

 

しかしながら、舞い降りた藁は次のような二本であった。

 

死ぬかもしれないA」と「死ぬかもしれないB」。

 

「目下これ以外の選択肢はない」。

 主治医の目は真っ直ぐに僕を見据えていた。

 火の手が差し迫った僕に残された選択肢は、来るとも分からぬ消防隊を待つか、ここで火の海を渡るか、そのどちらかだということだった。そしてそのどちらも死ぬかもしれないというものだった。

 

 「君の血は、現状このまま放っておけば確実に癌化する。つまり再発だ。しかし君は既に厳しい治療を受けているから、まもなく体力的な限界値を迎えるだろう。確かに白血病に関する研究は日進月歩であるし、新しい治療法を待つというのもひとつの手段だが、病魔に追いつかれたらおしまいだ。これが選択肢Aだ。」

 僕は黙って頷いた。主治医は続けた。

「しかし、いま特殊な方法で移植を行えば、君を救えるかもしれない。ただしそれは、この上なく厳しい闘いになる。覚悟が必要だ。これが選択肢B、ハプロ移植だ。」

 

 光が見えた、最後の希望なのだと思った。神の思し召しであった。「それでもやります」と僕は言おうとした。もう逡巡の余地などなかった。

 ところが、主治医は遮った。

 

「ハプロ移植はこの病院では行えない。君は地元を離れる必要があるし、これからの人生では食事を大きく制限されることになる。その上、親御さんが血液ドナーになる特殊な治療だから、親御さんに入院してもらう必要だってある。それから…」

 

 主治医は大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。

 

「この厳しい治療が結果的に君の寿命を限りなく縮めてしまうということは十分にあり得る。成功率すなわち5年生存率は3割から4割だ。失敗したときは緩和ケアに移行する」

 

 僕は言葉を失った。診察室の中でただ茫然と、時間を止められた骨董品の置物のように、丸椅子の上で身動きひとつできなかった。

 

 

 その夜、僕は自室で泣いた。

 死から逃げるために、死の胸元へ飛び込まねばならないという矛盾が、そして理不尽が、僕を激しく混乱させていた。「君の寿命を限りなく縮めてしまうかもしれない」。その一言が僕の頭の中で高速の螺旋を描くたび、地鳴りのような動悸がした。

 

 

 死んでしまうかもしれない。

 無論ハプロ移植を選択しなければ、来夏には死んでいるのだ、きっと。「1年は持たない」、主治医はあの場でそう言い切った。

 しかしハプロ移植を選択したとして、どうだ。実際のところ生き延びる保証はどこにもないし、何ならこの夏にだって死んでしまうかもしれないのだ。

 

 それでも決断しなければならなかった。いつだって与えられるのは選択肢のみだ。それも、決して安直に方針転換できる類の選択肢ではないのだ。命を賭した選択なのだ。ミスなんて許されるもんじゃない。そして運命を決めるのは他の誰でもない、自分だ。

 僕の人生だ。僕以外の誰にも決めることはできない。

 

  神にだって、主治医にだって、誰にだって決められないのだ。

 

  逃げるな、と自分に言い聞かせる。

  雨ふらば降れ、風ふかば吹け ーー。

 

 

 

 *****

 

 瞼の内側で涙が溢れる。シーツに零さぬよう、強く瞑る。

これまでの過去と、これからの未来を想う。いまここに強く強く生きている、その実感を噛みしめる。

 

 血が注がれている。赤い血であり、僕の命でもある。

 これでいいのだ、そう確信している。この決断で、いい。

 

 やるしかなかったのだ、生き延びる為に。燃え盛る火の海へ、この身ひとつで飛び込むことを選んだのだ。後悔などあろうか、たとえそれが僕の寿命を早める結末になろうとも。燎原の火に四方八方を囲まれたなら潔く灰になってやろう。

 

 新天地に赴き、新しい主治医と出会った。「君のことを生きて親元に返す、それが私の使命です。」主治医はそう力強く言い放ってくれた。

 

 治療の説明を受けた。どれほど過酷な闘いになるのかということについて、延々と説明を受けた。丸椅子に座る僕は、もうたじろぎはしなかった。両親が横で静かに頷いていた。

 

 最後に、1枚の紙を手渡された。

 同意書であった。

 

 僕はボールペンを取り、右手に全霊の念を込めて、21年前に親から授かった自分の名を書き上げた。一息に書き上げた。それから印鑑を朱肉に付け、紙の真上からぐっと押した。

 手が震えていた。しかしながら、それは戦々兢々とした震えではなかった。決死の覚悟で戦地へ赴くサムライの、乾坤一擲の精神たる武者震いであった。もはや心の芯が揺れることは微塵もなかった。

 

 

 そして今日、令和元年6月3日、戦の火蓋が切って落とされた。

 点滴棒に吊られた血液バッグに入っているのは、ドナーになってくれた母親の血である。それがチューブを通して、じわり僕の身体の中へ注がれるのだ。

 

 デイ・ゼロ。

 僕もまた今日をそう呼ぶ。

 原点であり、誕生であり、そして再出発点である。

 

 きっとうまくいく。

 

 

 温かくて、優しい血だ。

 無菌室の窓から覗く空はどこまでも蒼く透き通っている。ため息の出るほど心地の良い碧空が、新天地の遥か彼方まで広がっている。まもなく22度目の夏が訪れようとしているのだ。天下分け目の夏の陣である。おそらく、最も長い夏になる。

 

 一滴、また一滴と注がれる血を見つめる。ふと、僕は1997年の夏に想いを馳せた。母親の胎内で、臍の緒を通して、まだこの世に生を受けていない僕に注がれる血液のことを想う。ーーやはり温かくて、優しい血だ。

 

 僕が生きてきた21年と8ヶ月は、幻なんかじゃない。何となく、ただ何の根拠もなくそう思った。そう思わざるを得なかった。あの夏の日はまた僕に訪れる。きっと訪れる。

 

 そうだ。

 間違ってない。

 この決断は、絶対に間違ってなんかいない。

 何が終焉だ。

 

 

 サヨナラには、まだ早い。

 生きろ、生きるんだ。

 

 

 

 

 

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