ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

グッドバイ




 生きたいと思いながら生きるのか、死にたいと思いながら生きるのか、そのどちらが楽かと問われれば、まず間違いなく万人が前者を選ぶことだろう。相反する感情の中で心が押し潰される痛みと哀しみというものが、どれほど筆舌に尽くし難いかなんて、わざわざ書いて説明しなくても分かるし、僕もそんなものについて身を削って書きたくはない。

 しかしながら逆に、もっと生きたいと思いながら死ぬのか、もう死にたい、死んでもいいと思いながら死ぬのか、そのどちらかを選ばなければならないのだとしたなら、誰しもがきっと深く悩むことだろう。前者は相反する痛みの中にあり、後者は相反しないまた別の痛みの中にある。死ぬことが決めつけられてしまったとき、一体どちらが楽なのか、僕はそのことばかりをずっと考えて今日も生きている。まもなく来たるべき、その日のために。

 

 

***

 

「治療をしない、という選択肢がある」

 

 2月最後の朝、名神高速をひた走り病院に向かう車の後部座席で左側のウインドウに頭をもたげながら、僕は主治医の言葉を何度も何度も思い返しては振り払おうとしていた。鉄の塊を破砕機でスクラップするかのように、僕の頭の中ではぐわんぐわんとその文章が意味を持たない音へ砕かれ、そしてその音の破片が火花を散らしながら四方八方へ飛び散っていた。この24時間で、僕は一生分の後悔をしていた。

 

 終わっていく。

 全てが終わっていくのだ。

 この窓の外を流れる景色も、ゆったりと進んでいた春への時間も、慣れ親しんだ車内の匂いも、何もかも、全てが僕にとっての最後で、そしてひとつずつ、サヨナラも告げずに終わっていく。

 

 名残惜しんで手を伸ばすことは許されないのだ、それでも。どれだけ離したくないものだとしても、全てを掴み取って心に刻みつけることはできない。どれもこれも手をつけて空き容量を減らせば減らすほど、身動きが取れなくなるくらい身体が重く、そして鈍くなる。まるでローカルディスクがいっぱいになったパソコンのように。もう割り切ったのだ、割りきったから今ここにいるのだ、そう自分に言い聞かせる。後ろ髪を引かれてしまえば、引き下がれやしない状況であるのに、前へも進めなくなるのだ。だから僕は刻みつけるべきものだけを直感で取捨選択し、胸の手術痕のあたりに、一縷の望みと共に刻みつける。いつもと変わらぬ家族の声、あの日青春を共にした親友たちからのLINE、カバンに忍ばせた病気平癒の赤いお守り。カーラジオはカノン進行の柔らかいポップスばかりを続けて選曲し、春の訪れが近いことを暗に教えてくれている。

 

 もう二度と、帰っては来られない。

 生まれてこの方23年、ずっと暮らしてきた自宅。どんなに辛い日も、家に帰れば必ず暖かい布団が僕を待っていた。苦楽を共にした勉強机と積まれた文庫本、小学校の入学祝いに買ってもらったRoland製の電子ピアノ、卒アルや旅先のパンフレットが並ぶ思い出を無造作に詰めこんだ白い棚、その上に置かれたコレクションケースに入ったミニカーの数々。この世で一番好きな空間だった。そんな大好きな大好きな空間で、最後の最後に記憶の欠片を並べて整頓する時間さえも、僕には与えられていなかった。まもなく遺品となるであろう宝物の数々が余す所なく散りばめられた自室の部屋の電気を消し、扉を閉める瞬間が、いちばん辛かった。きっともう、ここには戻って来られない。

 

 

 赤紙が来た。戦場へ行くのだ。

 どこへも逃げることはできない。

 出征の汽車に乗り込む。叫びにも似た汽笛が悲しみを代弁するかのように高らかに鳴り響き、山々にこだまする。

 蒸気を吐き出して動輪が重々しく回り出す。

 

 僕だってこの平和な国で、多くの人々がそうであるように、平穏に生きてこの生涯を終えたかった。罪のない人間が、まだ未来をたくさん残しているのにどうして死に戦に向かわねばならないのだろう。嘆いたところで何ひとつ変わりやしないのは分かっているけれど、理不尽という言葉で片付けるにはあまりにも無慈悲だった。それでも、己を奮い立たせるしかないのだ。

 

 太平洋戦争へと、半ば強制的に連れて行かれた日本兵に、自分自身を重ねる。命を惜しむことも、涙を流すことも許されなかった、若い兵士たち。死を恐れることの許されなかった青年たち。

 

 

 日本男児たるもの強くあれ、泣いてはならぬ -そう自分に言い聞かせる。窓の外を流れゆくビルとビルの隙間から断続的に差し込む春の光が、僕の頬を撫でる。まるで一生分の後悔を慰めてくれるかのように。

 

 

***

 

 

 24時間前、倦怠感とともに自室で目を覚ました。その前日、高校のクラスメイト10人で小さな同窓会のようなものを開いた。コロナの状況もあり躊躇ったが、ここで会わなければ間違いなく後悔すると思い、リスク承知で我儘を言った。どうせいつだって僕はリスクを取ることでしか生きられないのだから。友人達は広いレンタルルームを貸し切ってくれた。昨夜昔話に花を咲かせすぎたせいだろうか、どっと疲れが出ただけかもしれない。そうあってくれと願ったのも束の間、手元の体温計を脇にしばらく挟むと示された数値は39℃だった。

 

 もう、「そのとき」が来たのだ。

 まだもう少し先だと思っていた、「そのとき」が。

 

 昨夜の旧友の視線が、ふと脳裏を過ぎる。

 

 「最後に一言」、会の終わりでそう振られた僕が次に何を言うのか、みんな固唾を飲むように待っていた。

 

 僕は何を言うべきか分かっていた。しかしその一言目が出なかった。声にしようとすればするほど、自分の喉が縄で締め付けられているかのような感覚に襲われた。

 

 

 

 

 もう生きて帰っては来られないです、みんなこれからも幸せに生きてね、さようなら。

 

 

 

 

 本当はそう言うべきだった。ちゃんとお別れを言わなければならなかった。葬式でサヨナラと言われたところで、死んだ人間には届きやしないのだから。生きているうちにちゃんと別れの言葉を交わすことができるというのは、終末期の人間に唯一与えられた権利だ。

 

 

 でも、その権利を行使することは、僕には出来なかった。そんな勇気も、覚悟もなかった。本音を言うと泣いてしまいそうで、僕は最後にそんな姿を見せることは出来なかった。

 

 

 日本男児たるもの強くあれ、泣いてはならぬ一。

 

 

「このメンバーで、また会おう、絶対に。これからも、何回も、ずっとこの先も」


 優しい嘘が、口を突いて出た。

 

 嘘だからなのだろう、泣けやしなかった。みんな笑顔のまま、お開きになった。

 

 

 

 ふと我に帰る。

 39.0の表示を眺めながら、もう既に死への秒読みが始まってしまったことを知る。

 遅かれ早かれこうなることは分かっていたのだ。白血球が少ない身体にとっては、大気ですら命取りになる。土や植物、皮膚から食品に至るまで、この世界の全ての物質は、ありとあらゆる菌にその表面を覆われているのだ。まるで目に見えない包み紙のように。それらに感染するかどうかは時間の問題だった。避けることはできない。血液疾患の宿命だ。そしてこの感染が、多くの患者の命を奪ってきた。

 

 

 それほど猶予はない。一瞬の油断が命を落とすことにつながる。通院先まで2時間、この状態で向かうにはあまりにも危険だという判断は、怠さでぼんやりとした頭にでもすぐできた。かつて入院していた紹介元の大学病院になら20分足らずで行ける。電話をかけると顔見知りの看護師さんが出て、状況はすぐに飲み込んでくれた。急いで支度をして、病院へと向かった。

 

 

 

***

 

 救急外来で抗生剤の点滴を受け、帰宅したのは15時間前のことだった。幸い大事には至らず、熱は7度台まで引いてくれた。ただ、もう無菌室で過ごさねばならないのは明白だった。もし自宅でこのまま過ごし続ければ、また感染を起こしかねない。そもそも今回の感染だって、きっと健常者なら点滴一発で回復するのだろうけど、僕は血液疾患患者だ。採血の結果、炎症反応は入院相当の高値を示していた。どうせまたぶり返す。

 

「通院先の病院と連絡が取れました。今夜、緊急で入院してほしいとのことです」

 

 救急外来の医師は、その緊急入院という四文字が僕にとって何を意味するかは分かっていなかったのだろう、ぶっきらぼうに話した。

 

 

 

 帰宅してすぐ自室に戻り、部屋の電気をつける。ぐったりとベッドに倒れこむ。

 部屋は机の上から床まで散らかしたままだったが、そこに手をつける体力も気力も時間も、もう残ってやしなかった。入院準備をし、シャワーを浴びて、軽食を取る時間を足し合わせたものを病院へと出発するまでの残り1時間から引き算すれば、この家で僕に残された時間はほぼゼロだということは、あまりにも明白だった。ずっと心の準備をしてきたつもりだったが、まだもう少し、何週間、いや少なくともあと数日は余裕があると、たかを括っていた。しかし不意打ちのように、まるで僕を嘲笑うかのようにその時は訪れた。お前の人生はお前の思う通りになんぞ絶対にならないのだ、とでも言わんばかりに。

 

 結局、全てを終えると予定の1時間を大幅に超えて19時になってしまった。病院への到着は20時過ぎ頃までにと指定されていたが、高速を飛ばしても2時間弱かかる距離、とても間に合いそうにはなかった。

 

 病棟に電話をかけ、当直の副主治医に繋いでもらうよう頼む。遅れてもいいから向かうように、と言われると思っていた僕は、電話口で拍子抜けした。

 

「じゃあ入院は明日の朝に変更しましょう。抗生剤はさっきまで打ってもらっていたから、今夜こっちに来ても取り立ててできることはないし」

 

 僕はその言葉の裏に、またあの時の優しさを垣間見た。もしかすると医療者としては不適切かもしれない、母親のような優しさを。油断と紙一重の思いやりを。

 

 医者と患者という関係ではあるけれど、女性である副主治医は厳格な男性主治医とは対照的で、時おりそういう優しさを見せてくれる。僕の主治医は、医師が患者に感情移入しすぎることは治療に油断を生じさせるという考え方をするのだが、一方の副主治医は、患者の想いを少しでも汲んで信頼関係を構築することが治療の真髄だという考え方をする。どちらも正しいと思うし、二人でちょうどよくバランスが取れているけど、やはり僕は副主治医の優しさに救われる部分が多い。もし当直が主治医だったなら、きっとそんな猶予は与えてくれなかったと思う。人道と人命、この2つのバランスをとるのは難しい。

 

 

「治療するかしないか、迷うよね」

 2月の半ば、外来処置室で通院輸血を受けていた僕を見つけて、副主治医が寄ってきてくれたことがあった。勤務時間ずっと忙しくしているうえ、診察の手当もつかないはずなのに、横になって血を注がれる僕の傍で30分近く話をしてくれた。治療を受けた場合に想定されることと、治療を受けない場合に想定されることについて。前者であれば3月の初旬に入院し、その月の終わりに移植を行い、そして4月の中旬に死ぬ可能性が極めて高いということ。奇跡とも形容できるような何かが起こらなければ、僕は生き延びられないこと。後者であれば最後の春を満喫して、桜が散る頃にこの世を去るということ。大切な人とより多くの時間を過ごせるかもしれないということ。

 

 

「先生なら、どうしますか」

 僕は最後に、思い切ってそう聞いてみた。医療者に聞くのはタブーであると、そう分かった上で。それでも、どうしても、聞いてみたかった。

 副主治医は少し目を閉じて黙ったあと、静かに語り始めた。

 

「私も、すごく悩むと思う。治療をするかしないか、結局助からないのだったら、治療をしない方が辛くない状態で生きられる期間がちょっとでも長いからね。」

 

 まるで精密機器のネジがちゃんと締まっているか順番に点検するかのように、副主治医はひとつひとつの言葉を確かめながら絞り出した。

 

「何を信じるか、だよね。私ならやると思う。でもそれは私の意見。きっと、あなたの中でも本当は迷っているんじゃなくて、実はもう最初から、移植をするかしないか、そのどちらかに傾いているけど、それを決めきれないんじゃない? だとしたら、時間が答えを出してくれる。」

 

 結局、僕を後押ししてくれたのは時間ではなくて、その言葉だったのかもしれない。副主治医は、僕が本当は最初から治療を受けるつもりでいたことを、どれだけ確率が低くても少しでも希望がある方を選択するということを、気付いていたのかもしれない。電話口で、ようやくその優しさに気付かされる。

 

「じゃあ入院は明日の10時に」

副主治医はそう言って電話を切った。

 

 僕にとって、自宅で過ごす最後の夜が訪れた。

 副主治医がくれた、最後の夜。

 こう書くと医療者として良くないかもしれないので、神様がくれたことにしておこう。

 

 布団に入り、電気を消し、そして23年間の温もりと共に、僕は眠りについた。

 

 

***

 

 名神高速を降りると、ものの5分で病院に到着する。昨夜は自分でも驚くほどに深い眠りが訪れた。気が付けば最後の朝が、眩しいくらいに窓から差し込んでいた。この24時間で、僕の人生は最後の段階に突入したのだ。

 

 病院に着いてPCR検査を終え、ものの数時間で陰性が分かると、すぐに病棟へと上がらされた。

 

 

2021年2月28日、日曜日。

戦いの火蓋が静かに切って落とされた。

 

 

 病院の外にはそれ以来、当然ながら一歩も出られていない。次に出られるのは治療が成功した時か、あるいは失敗して骨と灰になる時だ。

 

 

 あの日から昨日までの18日間、感染症の治療は良好に進んだ。最悪の事態も考えられた割には、身体がよく持ってくれた。たくさんの人の血で出来た身体のことを、僕は盲目的に信じている。強い、と。

 

 その間にも、着々と移植への準備が水面下で進められた。血液の相性を最も期待できる従姉妹がドナーになってくれることに決まった。話はトントン拍子で進行した。それでも病魔はもうすぐそこまで迫ってきているのだ、一刻の猶予もない。そして残された時間も、そう多くはない。

 

 

 とはいえ、僕が病室でできることは限られている。無菌室の外は死に直結する世界だ。見えない敵で満ちているところへ、わざわざ足を踏み入れるメリットは何もない。10畳ほど無菌個室が、余命幾ばくもない僕の生活の全てだ。それでもできる限りの手を尽くして、僕は死に際に後悔しないよう、やるべきことを淡々とやるようにしている。

 

 今やっているのは、連絡先リストの作成だ。もちろん自分が死んだ時の、である。

 

 小学校、中学校、高校の同級生、部活の先輩や後輩。それからお世話になった先生方。大学の研究室。挙げれば挙げるほどキリがなくなって、僕は実にたくさんの人間にお世話になっていることに気付かされる。そしてその多くとまだ強い繋がりがあることが、とても幸せな人間関係に巡り会えたことを教えてくれている。

 

 

「◯◯さ、俺が死んだときの連絡先リストに追加してもいい? 葬儀関係の連絡とか行くやつ」

 

 そう送ると、反応は様々だがみんな僕の思いをちゃんと汲んでくれる。「そんな縁起でもないこと言うなよ!」なんて言う馬鹿は誰一人としていない。僕が覚悟を決めているように、みんなそれぞれの覚悟があるのだろう。僕はそのことがいちばん嬉しかった。

 

 

 

 生きたいと思いながら死ぬのか、あるいは死にたい、もう死んでもいいと思いながら死ぬのか 一そのどちらが楽かだなんて、僕には分からない。でも死ぬ準備は怠ってはならないのだ。その日は突然やってくる。二度目の後悔はしたくない。できるうちに、できることをせねばならない。

 

 

 

 

 

死んだらもう何も出来ないんだ。

当たり前だけど。

 

 

 

 

 僕自身のことはどうだっていい。最近は、よくそう思うようになった。もちろん夢はたくさんあるし、やり残したことだって山ほどある。でもおそらく、僕は死ぬまでこの無菌室で過ごさねばならない。行きたいところにはもう行けないし、食べたいものももう食べられない。僕が僕に対してできることは、せいぜいこうやって何かを書いて、生きた証を残すことくらいだ。

 

 

 ただ、遺される人間のことは、どうしても気になる。僕が居なくなってしまえば、生活にぽっかりと大きな穴が空いてしまうであろう人たちのことを思う。

 

 死ぬほうは簡単だ。考えたところでどうせもうどうにもならないし、極論を言うならば運を天に任せて、来たるべき時が来れば死ねばいいだけなのだから。移植に失敗し、感染症に身体を蝕まれ、最後はICUで意識を失って、昏睡状態のまま眠るように旅立つことだろう。そして多分、それほど苦しくはない。

 

 でも遺された人たちはどうなるのだろう。苦痛と共に生きていかねばならない。死ぬ側は一瞬だが、遺された側はずっと、もしかすると一生その苦痛と生きていかねばならないのだ。そんな遺される人たちに対して、僕は一体何が出来るのだろう。

 

 

 

 未来に手紙を書こう。死んだ人間ができることはそれぐらいしかない。先日、朝起きてすぐにそう思い立った。死人に口はないけれど、書いてしまえば半永久的に残る。幸い、僕は書くことが好きだし、ちゃんと文字に想いを載せることができる。神様が僕に与えてくれた数少ない才能だ。

 

 

 でもどうやって未来に届けようか、誰かに預かってもらえばいいのだろうけど、何年も経ってしまえば、確実に届けてくれる保証も、確認する術もない。

 

 「未来 手紙」-そんなワードで、検索をかけてみる。ダメ元で調べた僕の目に飛び込んできたのは 「タイムカプセル郵便」という文字だった。2008年にできたサービスらしく、意外と新しいのだな、と知る。手紙を十年先まで、指定した未来に届けてくれるそうだ。ホームページをスクロールしながら読んでいく。あなたの想いを未来にお届けします、天国からのメッセージを残したい方も-僕のことだった。

 

 早速、雑貨屋で色とりどりのレターセットを買ってきてもらった。どうせ死んでしまうのだと思えば、白い紙に何でも書けそうな気がした。普段言えないこと、そしてずっと言えなかったことも。

 

 

 レターセットを開封し、ペンを取る。誰に書こうか、頭の中に次から次へと顔が思い浮かぶ。そして彼ら彼女らひとりひとりへのメッセージも、次から次へと浮かんでくる。やっぱりキリがない。とりあえず、まずは、家族に -そう思ったところで、どうしたのだろう、手が小刻みに震え出した。

 

 書けない。

 書くことを身体が拒んでいる。

 何を書けばいいか、何を書くべきか、スラスラと思い浮かんだはずなのに、手が全く言うことを聞かない。

 

 

 

 

 

 

 どうして俺はこんなもの書いているんだ?

 どうして俺は死ぬ準備なんかしなきゃならないんだ?

 どうして俺はここから出られないんだ?

 どうして俺には普通に生きる権利がないんだ?

 どうして、どうして、どうして・・・・・・!

 

 

 

 

 

 

 

 このとき、僕は自分が死ぬことをまだ全く受け入れられていないのだと気付いた。自分の感情を押し殺しながらここまできて、結局その反動でもっと生きたくなって、もっともっと生きたくなって、それでも死ぬ運命を受け入れなければならないのだと自分に言い聞かせていただけだと気が付いた。死ぬ準備だとか、遺された人間の哀しみがどうとか、そんなもの本当は全部投げ出してしまって、もう自分の家に帰って温かい布団で寝たかった。そして朝起きたら病気はすっかり治っていて、悪い夢でも見ていたのかなぁなんてとぼけて、今日は一日暇だけど何をしようかと思いながらまた二度寝をする、そんな普通の生活に心の底から戻りたかった。頭の中がぐちゃぐちゃになって、あらゆる思い出が走馬灯のように交錯しあって、気が付けば僕は暗闇の病室で涙が枯れるほど泣いていた。そのまま意識が遠のいて、僕はレターセットをベッドサイドテーブルに広げたまま、深い眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 そして今日、2021年3月18日。

 朝起きると、やっぱり白い天井が覗いていた。それが当然であると言わんばかりに。どうやら悪い夢ではないらしい。

 レターセットを片付ける。

 今日から移植に向けた前処置が始まるのだ。

 ドナーの幹細胞を受け入れるために、自分の細胞を殺していく。死にたくはない。でももう後戻りは出来やしない。

 

 

 耐えて、信じて、祈って、それで駄目なら、僕はどうするのだろう。手紙は書けるのだろうか。ちゃんとお別れを言えるのだろうか。

 

 

 時間は待ってくれない。

 

 僕の命のカウントダウンとカウントアップが、別々に用意された時計の上で、同時に、始まった。