ヨシナシゴトの捌け口

独り言の欠片をひたすら拾う。繋ぎ合わせもしない。

恥ヲ知レ!

 

 限りなく低い、まさに天文学的な確率ではあるけれど、"理論上" 何とか起こりうる事象というものが、驚くなかれ、この世には確かに存在している。ある要因によって偶然引き起こされ、しかし起こってしまえばそれが喜劇であろうと悲劇であろうと、まさにそれ以外起こり得ることはありませんでしたよ、とでも言いたげな必然の顔をして横たわるのである。

 

 そんな、俄には信じがたい不運や奇跡が起こると、人間はいかにしてそれが生じたのか、その原因の所在を明らかにせしめようとするのだ。しかしながら結局、誰かを責め立てることも、あるいは誰かを讃え奉ることも出来ず、困り果てた末に神の仕業へと仕立て上げるのである。

 

 

 

 そしてここにもまた、神の仕業に左右された若者がいる。

 

 

 

*****

 

 ボーッと生きているので、叱られると思う。

 

 考えることはもう辞めてしまった。感じたものを言葉にするという行為は、レンズのf値を絞るも同然のことだった。僕にとって周りの世界は眩しすぎたのだ。みんな死ぬことを知らない。遊んで、騒いで、必要最低限勉強して、好きなものを食べて、行きたいところへ行く。一方僕はそういう世界に生きてはいなかった。ベッドとその周辺わずか4平米の暮らしである。遮られたカーテンの向こう一寸先は闇どころか死であった。病院とは、語弊を恐れずに言うなれば、「老い先短い者たちが集められた死のシェアハウス」であるのだ。従って、元いた世界と繋がるためにはf値を絞って光量を減らしていかねばならなかった。それは今思えば、首を絞めていたのと同じかもしれない。確かに、そして残酷なことに、絞り切れば世界ははっきりと写ったのだ。しかしその小さくなった光の穴から、一体どうやって息が出来よう?

 

 

 この世の全てがどうでもよくなっていた。そんなことがあるのかと言うが、あるのだ。経験した人間にしか分からないだろうが、それは希望ではないが絶望にもまた程遠く、まるでどこか遠い国の海岸沿いの美しい無人駅で、もう今日の列車は終了していてただただ夕陽が落ちていくのを見送ることしかできないような、そういう孤独と郷愁に満ち満ちた感覚であるのだ。苦しくはない、しかしどうしようもなく世界に置き去りにされて、ただ時間のみがゆっくりと過ぎていくのである。

 

 

 そうして僕は気力を失った。

 生きることを考えることすら、面白みの欠片も感じられなくなったのだ。

 

 

 主治医は念仏を唱えるように同じことを日ごと繰り返し言うだけであった。

「今日の調子はどう・・・そうですか・・・はい・・・うまくいきませんねー・・・」

 僕の身体は重い肺炎を起こし、一時は血中酸素濃度が80%を切るほどにまで下がって、生死の境を彷徨った。血液疾患患者が肺炎を起こして死ぬのは珍しいことではなかった。僕は何とか危機を脱したが、それからもずっと何らかの炎症反応が治まらなかった。そして、もはやそれも1ヶ月以上が経過していると言うのに、その原因は誰にも分からず、抗生剤を取っ替え引っ替えし、その度にお経のように主治医が唸ったのである。

 

「うーん・・・この原因は・・・日本の誰にも・・・分かりやしないよ・・・」

 

 

その度に僕はバイト先である区役所に謝らねばならなかった。

「すみません、年末には退院できると思うんですけれども…」

「あんな、君の穴を埋めるのにこっちかてみんな随分と迷惑してるんやからええ加減にしてや」

「はい、重々承知しております、申し訳ありません…」

 

 

 ただの肺炎を、来る日も来る日も引きずった。年末に一度は退院できたものの、2週間後にはまた肺炎が再燃して病院送りになった。もしもう少し時期が遅かったなら、あの例の新型のヤツを疑うくらいだったかもしれない。それほど本当に原因が掴めず、ゆえに退院できずにいたのだ。

 

 

 

 そして、女神の微笑む者には良い巡り合わせが立て続けに起こるように、窮地に陥った者には災禍が矢継ぎ早に訪れるというのもまた世の常であって、過たず僕の身にも落雷したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        「再発です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 主治医から発せられたその一言は、鼓膜の手前で吸収されるのを嫌がるかのように、しばらく外耳の底に留まって震えるように木霊していた。

 

 

 再発。

それはいまこの世で最も聞きたくない二文字、そして僕の中からあらゆるエネルギーを奪ってしまう二文字であり、この時を境にして僕の中で何かが壊れてしまった。

 

 

 

 

神なんていない。

 

 

 

 

*****

 

 暗がりの病室でイヤホンをして紅白を眺めるほど虚しいものはない。

 時計はひっそりと針を進め、病室は誰にも祝われることなく静かに年を越した。

 「僕が死ぬ年だ」。

 

 何を信じたら良いのか分からなかった。何も信じられなかった。

 医者も、看護師も、治療も、親も、自分自身でさえも、この世界の何もかもがデタラメであるように思えてならなかった。この胸の拍動が、あと数ヶ月ほどで打ち止まってしまうのだと考えると、恐ろしさで震える一方で、そういう事が本当に起こるのだろうかと懐疑的な自分もいた。まるで大雨のなかで強い日差しが差し込んでいる、名前のない未曾有の天気のような気分だった。どうして生きているのか、そしてなぜ死ななければいけないのかが全く分からなかったし、そもそもそういう疑問は意味すらも持ち合わせていなかった。

 

 

 

 

 この日から、僕は薬を捨てた。

 少しずつ、少しずつ、病室のごみ箱の中に、生きるための錠剤を投げ入れた。もうどうにでもなれば良かった。このときの感情については、これ以上詳しく書こうと思っても書けない。

 

 

 副作用の恐ろしいステロイドも、免疫抑制剤も、バクタも、もう飲みたくなかった。

 

 

 今思えば、自殺に等しかった。

 

 

 

 

 10日ほどして、病院にバレた。

 

 

 

 もちろん面談になった。親、主治医、副主治医、看護師長が無機質な面談室で静かに僕を待っていた。

 

 

「こういう行為によって治療方針に従えないのであれば他の病院へ行ってくれ、これは信頼関係の上での医療行為だ」と言われた。当然のことであった。

 

 

 

 僕は言葉をひとつずつ絞り出すしかなかった。

 

 もう本当に死ぬのではないか、そう怖くなって、肺炎の原因も誰にも分からない治せない、その上、原病の白血病まで再発し、薬の副作用もひどく、治療も何もかも信じられなくなって、と言い切るか言い切らないかのうちに涙が溢れ出して、あとは言葉にならなかった。抑え込んでいたものが堰を切ったように、遠く遠く流れ出していった。

 

 

 

 

 

治療は続けることになった。僕の精神的な治療を含めて。

 

 

 

 2時間の面談が終わったあと、震え続ける僕の肩を母は何も言わずにそっと抱いてくれた。

 

 

 僕は母から造血幹細胞を移植してもらい、そしてそんな母の愛を裏切ったのだ。

 

まだ生きてもいいのだろうか。

 

 

 

*****

 

 神は多少ツンデレのようなところがあって、神頼みばかりする人間は救おうとしないが、もう神など信じたくない、なんて言う人間をいたずらに救うのである。少なくとも僕はそういう神の存在を知っている。

 

 

 

 鬱症状は少しずつではあるものの改善されつつあった。抗うつ薬にはアルコールの比にならないほど元気の素が含まれているようだった。週に何度か臨床心理士も病室に来て話をしてくれた。そういう時間に僕は多少ながら救われていた。死にたいと想う気持ちも薄れていった。今となってはよく思い出せない。

 

 

 

 結局、5度目か6度目かの抗生剤の変更がうまく作用したらしく、しばらくして肺の炎症は陰性化した。

 

 

それでも、白血病が再々発したとなっては、3度目の骨髄移植は決定的であった。

これで本当に最後だ。失敗すれば本当に死ぬのだ。

 

その感覚は非常に気味の悪いもので、僕はまるでアウシュビッツガス室行き列車に押し込まれたような絶望感に苛まれた。しかし牢をこじ開けたところで高い塀の向こう側に辿り着くことが不可能であるのは、火を見るより明らかだった。

 

 

僕に出来ることは、治療を受けてその結果を受け入れること、ただそれだけであった。たとえそれが「死」であったとしても。

 

肺炎は治ったから、もうすぐ退院できるだろう。

しかしそれが最後の退院になるかもしれないのだ。

 

次の入院をもって生死が決まる。それまでの時間を僕はどうやって過ごせば良いのか分からなかった。

 

僕がこの世でやったことなんて小さじ1杯にも満たず、一方でやり残した砂場の山はいくつもあった。それら全てに水をかけて潰していく作業は、僕をやるせない気持ちにさせた。

 

 

 大学卒業、就職、結婚、親孝行、旅行、車、マイホーム・・・

 

 オリンピック観たかったなぁ、と病床でスマホの当選画面を眺めていたら、消灯の時間が来て辺りは暗闇に飲まれた。

 

 

 

 

*****

 

 

「いつも悪いことばかりだから、今日は良い事を教えてあげよう」

 

 

 いつも眉間に皺を寄せている主治医が気味の悪いくらいにこやかな表情を浮かべていた。退院の朝は曇天の中に晴れ間が少しばかり覗いていた。

 

主治医は1枚の紙を僕に手渡した。


たった1枚。

しかしその薄っぺらい1枚には、命と同じくらいの重さが鉛直下向きにまっすぐかかっていた。

 

 

いくつかの染色体検査写真と、その結果。FISH検査と呼ばれるものと、PCR検査と呼ばれるものである。

 

 

そんな紙切れ一枚が、たびたび僕の人生をいたずらに左右してきたのだ。あるときは優しく微笑み、またあるときは雷鳴を轟かしてきた。

 

 主治医が言うように良い結果であるとして、それがどのくらい良いのか僕には見当がつかなかった。今回は肺炎の治療をしたのみであって、抗がん剤放射線もなく、何ひとつとして白血病に関する治療と呼べる治療は行っていなかったのだから。

 

 

しかし突きつけられた結果は、限りなく低い、まさに天文学的な確率によって引き起こされたものだった。そういう事象が、驚くなかれ、この薄っぺらい紙の上で確かに存在していたのだ。

 

 

 

                                    XX  :  100.0%

 

                                    XY  :      0.0%

 

 

 

「XXが女性、母由来の正常造血幹細胞、XYが男性、君由来の異常造血幹細胞です」

 

 

 僕は驚いて、言葉にもならない変な声を漏らした。おそらくこの時、人生でいちばん目を丸くしたという自信がある。

 

「再発した癌が…消え…た?? ん、ですか?」

 

そういうことになるね、と主治医は神妙な面持ちで頷いた。

 

「そんなことが……そんなことが……」

 

天地が完全にひっくり返って重力が突然失われてしまったかのような浮遊感の中で、僕は一体何が起こってしまったのかまだ掴めずに、モノクロの紙をただただ黙って見つめていた。手が震えて、それから口元が震えた。

 

「これは推論でしかないけれど、結果から察するに、おそらく肺炎で活性化したドナーのリンパ球が、肺炎の細菌と一緒に異常細胞を駆逐したんだろうね、そうとしか考えられないし、そうであるならば我々血液内科医からすれば納得できる結果です」

 

 

 なるほど、頭では理解できる。確かに理論としては成り立つのだ、" 理論 "としては。でもこれは正式な治療では全くないどころか、重症肺炎の副産物としてとんでもない反応が起こり、天文学的な確率によって「癌が消えてしまった」のであって、普通では考えられないことであったのだ。

 

 

「退院おめでとう」。

 

 そう言うと主治医は行ってしまった。

 ふと我に帰ると隣で母の目が潤んでいた。僕は釣られて泣いてしまいそうになるのをぐっと堪え、主治医の背中に深々と頭を下げた。

 

 

 病室を片付け、まだ重力が戻ってこないまま、僕は母と共に病院をあとにした。

 

 

 

*****

 

 退院してからは大人しく過ごしている。

多くの友人から心配の連絡をもらうが、今のご時世、変な流行り物のせいで街中で会う気にもなれず、精神的な状態も手伝って返信できないでいた。今日から返して行こうと思う。申し訳ない。心配して連絡をくれた友人達には本当に心の底から感謝している。返さなかったのではない、返せなかったのだ、だから許してほしい。

 

 

 このところ皮膚の乾燥と顔の浮腫が著しい。これも会いたくないと思ってしまう原因のひとつだ。この前幼馴染に会ったら、「誰?」と言われてしまった。調子が悪い日は顔がパンパンに腫れ上がってお岩さんもビックリの面が仕上がっている。体力も途方もなく落ちてしまった。9年間陸上に青春を捧げたが、今は10mも走ることはできない。

 

 

 そして卒業論文を書けなかったので、自動的に留年もした。

学務に学生証の延長を申し出ると、4月1日以降にお願いしますと突っぱねられた。面倒なものだ。

 

 

 

バイトにも復帰した。

3月末までで辞めてくれと言われ、素直に従った。

病気になった自分が悪いのだ。

休む可能性のある人間を採用するリスクはどんな企業であれ背負いたくはない。そのことはよく分かる。

年度末の任期まで全うする、それだけだ。

 

 

区役所では書類の届けを受ける。

死亡届を受理し、火葬許可証を書きながら、ふとここに自分の名前があったのではないかと、なんとも言いづらい不思議な気分になる。

 

 

 

 この数年、僕は多くの友人を亡くした。

 

 手元の年度火葬許可名簿の中にも思い出深い名前が刻まれている。どうして死ななければならなかったのだろう。

 

 

先月は大事な大事な同じ年代の患者仲間を亡くした。悲しみに暮れた。

 

 

彼ら彼女らのことを想う。

生死の境の中でも明るく振る舞ってくれたあの人。突然逝ってしまった旧友。カッコ良かったアイツ。お調子者だったクラスメイト。同じ病を共有した患者仲間たち。

 

 

 みんな、会えなくなった。もっと会っておけば良かった。もっと生きたかったはずなのに。もっともっと生きたかったはずなのに。

 

 

どうして…

 

 

そのときふと、自身の境遇を愚痴愚痴言う自分が、いかに愚かであるかを思い知らされた。

 

 

 

 後遺症がなんぼのもんじゃ!

 留年がなんぼのもんじゃ!

 バイト辞めるんがなんぼのもんじゃ!

 生きとるんやから贅沢言うな!

 

 

 そう自分に言い聞かせる。恥ヲ知レ!!!

 

 

 

僕はおそらく、とんでもない力によって生かされている。理由は分からないが、とにかく" 生かされて "いるのだ。

 

いかにして癌が消えるなんていう奇跡が生じたのか、その原因なんて全く分からないのだ。" 理論上 "何とか起こり得るとはいえ、そんなことが天文学的確率で起こるなんて、一体誰が予想できただろう?

 

 だから僕は、この一連の顛末を天に昇った亡き友らの仕業へと仕立て上げるのである。あいつらが、僕の守護神になって生かしてくれている。そうに違いない。そう信じたとして、何が悪いのだろう?それが間違っていたとして、そのことを誰が証明できるというのだろう?

 

 

 

神はいる。

この世で生きていた。ついこの間まで。

 

 

 

 

役所のシャッターを閉めるため外に出ると、強い風が吹いていた。

 

追い風なのか向い風なのか、今は分からない。もしかするとそのどちらでもないのかもしれない。そもそも風に意味なんてない。こじつけもいいところだ。

 

 

 けれどもひとつだけ、たったひとつだけ、この風が確実に教えてくれていることがある。

 

 

 

 

そう。

 

まもなく、春がやってくる。